第二部第一話〜甲斐の虎〜
甲斐の虎こと武田晴信。またの名を武田徳栄軒信玄。
朝廷より従四位下大膳大夫を与えられ、信濃守の称を得る。また室町幕府より甲斐守護職と信濃守護職を与えられた。
戦国最強と誉れ高い精鋭騎馬隊である『赤備え』を有し、甲州金山を始め多くの金山を統治するまさに戦国の雄である。
だが、そんな彼にも常について回る忌まわしい過去があった。
−−−−『武田の不忠息子』。
事の発端は天文十年(1541年)に起こった武田家の内紛である。
当時20歳だった信玄が宿老であり有力国人領主の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌等に擁立され、父に反旗を翻したのである。
娘婿でもある今川義元を訪れに向かった隙を突いて信玄は甲斐〜駿河間の街道を封鎖し、信虎を甲斐より追放したのである。
それ以降、信玄には『甲斐の虎』以外に『武田の不忠息子』と言う忌まわしい影名で呼ばれることがあった。
しかし、信玄はその過去を払拭するが如く天下統一事業を急いだ。
それから12年後に隣国信濃を平定し(北信濃を除く)朝廷から信濃守護職を拝命し信濃領有の正当性を訴えた。
甲斐・信濃を平定し順調に見えた信玄の天下統一事業の前に思わぬ人物が立ちはだかった。
信玄にとって生涯の宿敵であり、越後の龍こと長尾景虎である。
第一次〜第五次と五度に渡り川中島で長尾軍と雌雄を決する決戦を行ったが決着は付かなかった。
長尾軍との戦いで武田軍の天下統一事業は大幅に停滞し、越後侵攻を諦め駿河へと目を向け始めていた・・・。
甲斐 甲府 躑躅ヶ崎館
夜明けより数刻前、信玄はふとした物音で目が覚めた。
「何者か?」
信玄がうっすらと目を開けて聞いた。すると天井から音もなく一人の屈強な体つきをした男が降りてきた。
信玄は懐に隠し持っていた懐剣に手をかけたが、男の顔を見るとその手を柄から離した。
「守清か・・・。何時からお主はワシに夜明けを告げる役目を仰せつかったのかのう?」
信玄が冗談めかしながら目の前に跪く透破に声をかけた。だが目の前の透破はその冗談をも軽く受け流した。
この男、戸石城主真田左衛門尉信綱の家臣であり甲州透破の支配者でもある。名を出浦守清と言う生まれついての忍びである。
「奴らの消息が掴めました・・・」
守清がそう言うと信玄の目つきがスッと代わり、先ほどまでの好々爺みたいな顔が一片して真剣な顔つきになった。
「・・・予想より早かったな。それで、奴らは何処へ?」
信玄が布団から起き上がって居住まいを正した。その顔には謀略と殺戮の中を生き延びてきたいくさ人の威厳があった。
「奴らは長篠を抜け、戸石へと向かっております・・・」
守清が地図を取り出して信玄に説明した。信玄はその答えを聞くとニヤッと不敵な笑みを浮かべた。
「ほぅ。戸石・・・か」
信玄がパシンと膝を叩いてまたもや不敵な笑みを浮かべた。
戸石と言えば守清の上司でもある真田信綱の本拠であり、武田の領国でもある。
「・・・信綱様には何とお伝えすれば?」
守清がそう伺いを立てると信玄は文机の前に座り、墨を擦り始めた。
信玄は筆を手に取ると何人かの人名を紙に書いた。
須藤清則。
黒田官兵衛考高。
木下小一郎。
前田慶次郎利益。
竹中千里。
以上五名の名が連ねてある書状を守清に手渡した。
「奴らを捕らえろ・・・決して殺すでないぞ」
信玄はそう言い終えると再び布団に潜り込み目を閉じた。守清はその書状を大事そうに懐にしまうと再び夜明け前を告げる瑠璃色な外へと飛び出して行った。
「(まさか奴らからこちらに出向くとはな・・・ワシにも天運が向いてきたと言うことか・・・)」
信玄は微睡みの中に落ちていきながらそう思い、笑みを浮かべ眠りについた。
甲斐の虎と須藤、二人の出会いが一歩ずつ近づきつつあった・・・。