▼スイートストロベリー▼
呼びなれた名前を聞いたことも無い声が咎めるように呼んでいる。
マサヒコの眉間に皺がより、あからさまな侮蔑と怒りで見つめる先を目で追うカズコ。
そこには黒い細身のパンツスーツを着込み、腰まである艶のある濡羽色の髪を振り乱し真っ赤なルージュを引いた唇を歪め怒りに震える女が仁王立ちしていた。
さながら魔女か般若と見まがうその女は、昼間みた見知らぬ女で間違いが無かった。カズコは鉛を付けて重く重く海の底へ沈んでいく様だった。
「いったいなんのお戯れなのかしら?」
「君との見合いは丁重にお断りしたはずですが?」
「たかが一役員が社長である父とその娘の意向を無碍にするなんて許さないわ」
「ですから、私には身の丈に合わない過ぎた待遇だとお断りしたはずだが?」
「あなたは大人しく私の横に立っていればいいのよ」
カズコを無視して始まった修羅場に、傍観者にならざるを得ない。『そうか、彼女はマサヒコさんの勤める会社の社長令嬢だったのか』などと思考を現在と遠いところに飛ばして逃げる。
しかし、両者の間に挟まれたカズコは両者の間に漂う張り詰めた空気に否応無く現実に引き戻される。居心地は最悪以外の何でもなく、かといって動くことも出来ない状況に、早く終わればいいと心底思った。
そして一刻も早く自分を解放して欲しい。この場所から。否、この作り上げた自分から。
「さっさとマサヒコさんから離れなさい。小娘」
それが自分に言われた言葉だと理解するのに、しばしの時間を要したカズコ。やがて自分のことだと気付き、これ幸いと横に移動する。
すると乱入してきた見知らぬ女はマサヒコに詰め寄り、カズコを人差し指で指して言い募る。
「まさか、私との縁談を断ってこんな小娘と結婚するつもりだったのかしら?それとも恋人のふりでも頼んだのかしら?」
そういって見知らぬ女は自分のハンドバッグから封筒を取り出すと、それをカズコの胸に押し付けた。
「手切れ金はこれでいいかしら?マサヒコさんにいくらで雇われたの?」
高慢にそう言い放つ女に、カズコの中でカッと何かが燃え上がった。
「いい加減にして!!私はマサヒコさんに雇われたわけじゃないし、恋人のフリを頼まれたわけじゃないわ」
「なら遊ばれていたのね」
「かもしれないわね」
「あら自分で認めるの?」
「それは違う」
嫌味たっぷりで言い返した女の言葉を打ち消す様にマサヒコが声を発した。
カズコを庇うように自分の傍に引き寄せ肩を抱き、マサヒコは見知らぬ女にさらに続けて言う。
「僕は彼女を愛しているんだ。君には関係ないことだ。帰ってくれ」
「私に逆らうとどうなるかお解りかしら?」
「だらかどうだと言うんだ」
「あなたの社会的立場を、私奪うことができるのよ?」
「やりたければそうすればいい。だが、僕は君の言いなりにはならないよ」
「なんですって?」
「何度でも言おう。僕はあなたたちの言いなりにはならない。解雇するなり訴えるなり好きにすればいいさ」
驚きのあまり見知らぬ女は口をだらしなく開いて「え?」とか「へ?」と言うなんとも間抜けな声を出す。
カズコもマサヒコのまったく知らない一面を見て、マサヒコを見つめる。見つめた先のマサヒコは挑戦的な笑みを浮かべ見知らぬ女を睨んでいた。
やれるものならやってみろ、受けて立つ。そう全身で言い表しているのがひしひしと伝わってくる。肩に置かれているマサヒコの手は、力強くカズコを掴み安心感を与えてくれる。
その姿を見ていたら、自然とカズコも冷静になってきた。
「許さない。許さないわ、九条マサヒコ!!」
顔を真っ赤にして憤る女を見て、カズコは随分情緒の不安定な人だと思う反面、今にも本当にマサヒコを解雇しそうな勢いだとも思い一つの決断を下す。
「あーあ。なんだかガッカリ」
なるべく感情を表に出さないようにしたら、喉に余分な力が入って声が震えた。が、気にせずカズコは続ける。
「紳士的で優しくて、目一杯甘やかしてくれる素敵な人だと思ってたのになー」
頭の上で両手を組んで伸びをしながらマサヒコから離れる。気持ちを落ち着かせなければ、自分が本当に伝えたい思いが違う感情に飲み込まれてしまいそうだった。
「だから背伸びして可愛くて大人しくて従順な猫を被ってたのに」
「何を言ってるんだ?」
「だから、私が猫被ってたって話し。でも、お互い様だよね?」
小首をかしげてマサヒコを見つめる。するとマサヒコは今までカズコが見たことも無い華やかで魅力的な笑顔で頷いた。
マサヒコはカズコの言いたいこと、これからやろうとしていることに察しがついた。
お互いに猫を被っていたようだが、おそらく彼女は真面目で気が強くそしてしたたかなのだろう。長いこと人を視る仕事をしていたので、猫を被っていることは知っていたがお互い様だと思っていた。
籍を入れて同棲した後も仮面夫婦であろうがなんであろうが、彼女ならそれも可能だろうと直感した理由はこれかと思った。
実に好ましい。猫を被っていた彼女も可愛くて庇護欲をそそられる存在だったが、その下にある素顔の彼女も一人の女性として申し分ない。そして心の底から彼女が欲しいと思った。
「あぁ、そうだな。お互い様だ」
「今度はお互い、猫被りしなくて済む相手が良いと思わない?」
「そうだな」
「じゃぁ手切れ金代わりにこれは貰っておくわ。こちらが一方的に今日の被害を被ったのに何も収穫が無いのは悔しいし」
「ちょっと!!一体何なの!?」
ヒステリックになり始めた女の声が更にワントーン上がる。これ以上キーが上がったら金切り声になりそうな程だ。
「だから、猫被りのマサヒコさんとの別れ話です。見てわかりませんか?」
テーブルに置かれた黒い小箱を手に取りながら、さも馬鹿にしたようにカズコは女に言う。
その箱をバッグに仕舞って自分が持ってきた花束をマサヒコに押し付ける。
「じゃぁ、マサヒコさん、さよなら。次に合う時はお互い猫被りは無しにしてね」
「わかってるよ」
「それと、面倒ごとは早く片付けるべきね。彼女がかわいそうだから」
「努力するよ」
苦笑いしながらマサヒコは花束を受け取る。白いダリアとヒマワリのブーケ。それは今のカズコの心にぴったりだった。
花束を受け取ったマサヒコに満足すると、カズコはラウンジを出てホテルの出入り口へ真っ直ぐ向かう。
そういえば会計をしていない。とか、結構な野次馬が集まっていた。とか、しばらくこのホテルが使えない。とか色々と頭を駆け巡ったが、全てはどうでもいいと思った。
もし、自分の真意がマサヒコに伝わったのなら、必ず、もう一度マサヒコから連絡が来る。今はそう信じるしかなかった。
「タイムリミットはどうしようかなー」
ハイヤー乗り場に並んで順番を待つ。バッグから微かな振動音が聞こえた。
バッグを漁り携帯電話を探していると、事務所で貰った丸い缶に手があたった。ブーゲンビリアの描かれたストロベリーキャンディ。
封を切って蓋を開けると鮮やかなピンクのキャンディがぎっしりと入っていた。甘酸っぱいいい香りに思わず一粒口に入れる。
口に広がる味は、香りと同じく甘酸っぱいイチゴの味だった。その味が口いっぱいに広がると、思わず涙がこみ上げた。
かろうじて睫毛に引っかかって落ちることの無い涙を引っ込めるべく、彼女はパールピンクの携帯電話を開く。
そこにはホノミからのメールが受信されていた。
『今夜ユイの実家で飲み会実施。独りがいやならこっちにおいで』
受信した時間は20時43分だった。現在時刻は21時27分。
思えばあれはたったの20分足らずの出来事だったのだ。そう実感すると、引っ込みかけていた涙がまたこみ上げる。
慌てたカズコはメールの返信を打つ。
『今からそっちに合流する。まだ帰らないでね』
文末にハートマークの絵文字を付けながらふと思う。そういえば、マサヒコには絵文字など付けたこともなかった。
もし、もう一度マサヒコから連絡が来るようなことがあったら、今度はメールをしてみよう。ハートマーク付きで。
自分の考えがいかに甘くて図々しいかわかってはいたが、まだ諦めたくないのも事実で。
もう少しだけ、この甘酸っぱい想いを抱いていてもいいかな。と思う。せめて、このブーゲンビリアの描かれたキャンディがなくなるまでは…。
いかがでしたでしょうか?
とりあえず一度カズコのお話は終了です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
柳 すすたけ:拝