▼ブーゲンビリア▼
マサヒコとリングを見にいった翌日、カズコはチーフに呼び出された。
「次のブライダルフェアへ出向ですか?」
「えぇ。突然で申しわけ無いけれど、事前準備や打ち合わせもあるから期間は明後日から2週間よ」
「外務の人じゃダメなんですか?」
「今回はうちのブースを作ってもらって、実際に相談や見積もりをすることになったのよ」
「そうなんですか」
「悪いんだけど相田さんと二人でお願いできるかしら?」
「かまいませんが、私がお預かりしているお客様はどうしますか?」
「遠山に引き継いでもらえるかしら?」
「わかりました」
遠山アイコは営業の中でも内務、つまり接客の責任者だ。この店に就職したばかりのカズコに、接客のイロハからコーディネートセンスまで教え込んだのはアイコだ。
彼女に任せておけば問題は何も無い。
「アイコさん、いいですか?」
「どうぞ」
「チーフからの辞令で、次のブライダルフェアへ出向が決まったので、明後日から引継ぎをお願いします」
「了解」
アイコは責任者になった時から裏方に回ることが多くなった。お客様へのお茶の準備や、ドレスの試着の補助、時には他の接客係のフォローもこなす。
「はじめのお客様は?」
「鈴木様と松崎様です」
「このお客様?」
「そうです」
ラックにあるカズコの担当しているファイルから該当する資料を取り出す。
「ブーゲンビリアって発注したの?」
「はい。当日には届きますが」
「了解。確認しておくわ」
「お願いします」
「悪いんだけど、出向期間中に来るお客様のリストを出して、その全てのお客様に今日中に電話してくれる?」
「わかりました」
通常の写真館と違い『colorful drops 』は、ブライダルフォト専門店なので1日に訪れる客の数は少ない。が、その分親身になって最高の一日を作り上げることを社訓にしている。
そのため少数精鋭のスタッフたちは常に走り回っている状態だが、営業チームだけは違った。
一組にかける時間が長いので、営業チームの人数は多い。特に内勤で接客を担当する人数が一番多く、上手く回せば二人デスクワークになっても問題は無い。
「よし、がんばるぞ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その三日後、予定通りにカズコは業務提携しているホテルに出向した。準備は順調に進み何の問題も無く進んだ。
その間にマサヒコからの連絡は一切なく、カズコは不安に駆られた。が、なんどもその不安を打ち消した。「きっとリングのことがあるから驚かそうと思ってるのよ」と。
しかしこんなに長くメールも電話も無かったことは初めてで、言い知れぬ澱が心に溜まっていった。
ブライダルフェア最終日。専用に設けられたブースで結婚を控えたカップルを相手に相談や見積もり、案内業務をこなしていた。さまざまな不安や期待を胸にブースを訪れるカップルは、誰もが皆幸せそうに見える。
フェアの最終日にもなると、最初は慣れない環境での仕事に多少の緊張をしていたカズコも落ち着いて持ち前の明るくしっかりとした接客をしていた。
「お疲れ様」
「あ、オーナー。お疲れ様です」
人の流れも一段落したお昼過ぎ、オーナーの色麻ノブユキが声をかけてきた。
「これ差し入れだって」
「わぁ、ありがとうございます」
差し出されたコンビニの袋を覗き込むと、中には缶コーヒーと固形の栄養補助食品が入っていた。
メープル味のそれを取り出すと、早速口に頬張る。
「初日と昨日は休む暇もなかっただろう?ごめんね」
「いえ。普段と違う接客なので楽しいですよ」
「そういってくれると助かる。なにせ外勤の俺たちじゃ、実際のスタジオ撮影の雰囲気を上手く伝えられないからね」
「そんなこと無いと思いますけど」
「いや、アカネに怒られた。スタジオ撮影を知らない人間が何のアドバイスが出来るんだってね」
そう言って苦笑するノブユキを見て、カズコもつられて笑う。
「チーフのアイディアだったんですか」
「そう、俺はあいつに頭が上がらないからね」
「なんでですか?」
「俺が嫌がるあいつに土下座して結婚してくれって頼んだんだ」
「うそぉ!!オーナーそんなことしたんですか?信じられない」
衝撃の発言にカズコは目を丸くして手に持っていた缶コーヒーを危うく落としそうになる。
「はは、皆には内緒にしてくれよ?」
「えぇー!せっかくの話題なのに無理ですよ」
カズコは可愛らしく唇を尖らせ抗議してみせる。年よりもずっと幼く、そして可愛らしく見える仕草だ。大体の異性は、カズコのこの仕草に惑わされる。
が、ノブユキには通じないらしい。
「まったく。そういう仕草は彼氏にしてやれ」
「やっぱり通じませんね」
「残念」と口にしながら、カズコは後片付けを始める。そろそろ戻らないと、もう一人、カズコと出向しているホナミの機嫌を損ねるだろう。
ノブユキはそのままホテルの企画部と打ち合わせがあるとかで席を立った。カズコはゴミを片付けながら、アカネのことを少し羨ましく思った。
「やっぱり私の理想の結婚は難しいのかな?」そんな事を考えながらバックヤードからブライダルフェアの会場に戻るためドアを開けた。
まさにそのとき。
「うそ」
ドアを開けた廊下に、見知らぬキャリアウーマン風の女性と並び自分には見せたことも無いような艶やかな笑みを浮かべゆったりと歩く、マサユキの姿があった。
女性の手には、先日アイコに引き継いだクライアントが希望したブーゲンビリアの鉢があり、それがやけに目に焼きついた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ちょっと大丈夫?顔が真っ青よ?」
その後どうやってブースに戻ったのかカズコには曖昧だった。とにかく戻って仕事をしなければ。その一心で歩いていたようにも思える。
ホナミに促されてパイプ椅子に座る。
「大丈夫。ちょっと驚いただけ」
「ならいいけれど…」
「何に?」とはホナミは聞いてこなかった。彼女なりの気遣いなのだろう。
「とにかく、お客様の前でそんな表情しないでよ。出来ないならバックヤードに戻って休んでいいから」
「ありがとう。本当に大丈夫だから」
その後、カズコは得意の営業スマイルで数々の客の相談や見積もりをこなした。そのうちのいくつかはその場で契約となった。
気がつけば最後のカップルを送り出したところだった。
「お疲れ様」
「あ。お疲れ様」
「カズコ、よくがんばったね」
「ありがとう」
ホナミが励ますようにカズコの右肩を叩く。その気遣いが嬉しくて、カズコは目に涙を溜める。
「ちょっと、今泣かれたら私が泣かせたみたいじゃない」
「ごめん」
「も~しょうがないな」
呆れたように笑うと、ホナミはカズコにハンドタオルを渡す。
「とりあえずチラシやポップ片付けてくるから、オーナーが来るまで好きなだけ泣いてなさい」
「ごめん」
「そういう時はありがとうお姉さまって言って」
おどけた様に口にするホナミは右手をヒラヒラと振りながらパイプ椅子から立ち上がり、テーブルに並べられたチラシを一まとめにすると、次に会場に配置されたポップを回収しにブースを出て行った。
涙が収まるまでハンドタオルを両目に当てて身じろぎ一つせずにいると、ジャケットのポケットから振動が伝わった。携帯電話を取り出すと、マサヒコからの着信だった。
「………」
出ようか出まいか逡巡した後、留守番電話になる直前に通話ボタンを押す。
「はい」
『仕事中だったかな?』
「今終わったところです」
『そうか。突然で悪いんだが、今夜会えないかな?』
「今夜ですか?」
『あぁ、忙しいようなら明日以降でかまわないが』
「いえ、大丈夫です」
『そうか。なら21時にいつものホテルでいいかい?』
「わかりました」
一方的にかかってきた電話は一方的に切れてしまった。まるで今のマサヒコの心を代弁しているかのようだった。