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後編

おばあさんは仔犬をチロと名付けました。

小さくてチロチロと鳴る鈴のように可愛かったからです。

大谷さんが温めてくれたミルクをお腹いっぱい飲んで、いつの間にかチロはうとうとと眠ってしまいました。

大谷さんが段ボールを持ってきて、その中に清潔なタオルを敷き詰めてチロを寝かせました。

おばあさんと大谷さんはそんなチロの様子を嬉しそうに見つめています。

先ほどまで冷たく凍えていたおばあさんの心に、ぽっと明かりが灯りました。


次の日からおばあさんは変わりました。

ずっと嫌がっていたリハビリも一生懸命にがんばります。

片手ではできないと、諦めていた編み物にチャレンジしました。

おばあさんはチロが寒い思いをしないように、チロに腹巻を編んであげようと思ったのです。

毛糸を肩で挟んで、不器用な左手を一生懸命に動かします。

しかし何度も何度もかぎ針を床に落としてしまいます。

「大丈夫? 佐々木さん」

おばあさんがあんまり一生懸命なので、疲れてしまわないかとヘルパーの木田さんも心配そうに見ています。

「私は大丈夫だよ。それよりチロが寒い思いをしないように、はやくこれを編みあげてやりたいんだ」

そう言っておばあさんは、一生懸命にかぎ針を動かします。


小さなチロが施設にやってきてから、みんなの様子が変わりました。

みんなチロのために何かをしてあげようと一生懸命に奮闘しています。

源さんはチロに小屋を作ってやろうとねじり鉢巻きを額に巻いています。

しかし源さんは手が不自由で、思うように動きません。

施設の職員さんに手伝ってもらってようやく出来た小屋の屋根に、ペンキで色を塗っているのですが、あちこちペンキがはみ出してとっても不格好です。

それでもどんな犬小屋よりも心がこもっていて暖かい気持ちになります。

「おや、チロ。こっちにおいで」

そういって手を差し出すと、チロは小さな尻尾をふりふりこちらにやってきます。

そのさまがとても愛らしいので、チロはすっかり施設の人気者になりました。

そしてチロも、施設の皆のことが大好きでした。

皆にたくさんたくさん可愛がってもらったからでした。

チロはもう皆の家族でした。

「チロや。もうすぐお前の腹巻が編み上がるからね。もう寒くないよ」

そういって愛おしそうにチロ撫でると、チロも甘えてクーンと鼻を鳴らします。


そんな穏やかで幸せな日々が過ぎていきました。

そんなある日、この施設に初めてやってきたおばあさんがいました。

おばあさんは自分が置かれている状況が理解できずに、とても混乱していました。

「帰りたい。帰りたいよう」

と幼子のように繰り返して、泣きじゃくっています。

チロはこのおばあさんをなんとか慰めたいと思って、じっと心配そうに見つめていました。

するとこのおばあさんは立ち上がって、職員さんの目を抜けて外に出て行ってしまいました。


――――そっちにいったらダメ! 危ないよ――――


チロはおばあさんの服を咥えてなんとか、施設に連れて帰ろうと足を踏ん張りますが、仔犬の力では勝てません。

「きゃん、きゃん」

吠えて、誰かに知らせようとしますが、誰も来てくれません。

そうこうする間にも、おばあさんはどんどんと車の多い通りに歩いていきます。

おばあさんは信号を無視して、ふらふらと車道に出てしまいました。

そこに猛スピードで突っ込んでくる車がありました。


――――このおばあさんを助けたい――――


チロはそう思いました。

おばあさんの存在に気づいてもらうために、車に向かって走って行ったのです。

「きゃん」

悲痛に叫んでチロの小さな身体が、弓なりに宙に飛びました。




◇   ◇   ◇




佐々木のおばあさんは、はっと顔をあげました。

チロのための腹巻がようやく完成したのだけれど、なんだか胸騒ぎがして落ちつきません。

佐々木のおばあさんは、車椅子を左手で動かして事務所に行ってみました。

「ねえ、チロはどこだろう? やっとチロの腹巻が完成したのだけれど」

「まあ上手にできましたね。チロさっきまでいたんですがけど、ほんとどこに行っちゃったんでしょう」

と事務の新田さんも首を傾げました。

「チロ! チロや」

佐々木のおばあさんが名前を呼んでみますが、辺りはシンと静まり返ったままです。

耳を澄ますと、外がなにやら騒がしいようです。

パトカーや救急車のサイレンの音が聞こえます。

「何かあったんでしょうかね」

新田さんが眉を顰めます。

「ねえ、新田さん。私も連れて行っておくれよ。なんだか嫌な予感がする」

新田さんが佐々木のあばあちゃんの車椅子を押して、通りに出てみるとたくさんの人だかりができていました。

その真ん中で、おばあさんが倒れていました。

「あっ、真田さん」

しかしおばあさんはどうやら無事な様子です。

その傍らに投げ出されたボロ雑巾のような塊がありました。

まっ白な雪に、抱かれるようにして横たわった小さな塊に、椿の紅い花弁が散ったような血の跡がありました。

「まさか、まさか……チロなのかい?」

チロはもう冷たくなって、固くなって、動きませんでした。




◇   ◇   ◇




「ああ、ああ、チロ…チロが死んでしまった」

佐々木のおばあさんは泣きました。

誰がどんな慰めの言葉を掛けても、決して泣きやもうとはしませんでした。

「チロ…チロ。お前の代わりに私が死ねばよかったんだ。ああ、可哀そうなチロ」

そんな佐々木のおばあさんの姿をみると、みんな悲しくなって、とうとうみんなでわあわあと声をあげて泣いてしまいました。


職員の大谷さんが小さな木箱にチロの体を納めて、白い布をかけてやりました。

木田さんがそこにそっと野菊を入れてやりました。

それから皆に小さな蝋燭を渡して、部屋の電気を消しました。


蝋燭の炎はゆらゆらと揺らめき、皆の心を照らします。

「この炎はまるで、チロみたいだねぇ」

ひとりのおばあさんがぽつりと呟きました。

「真っ暗だった、私たちのこころの中を照らしてくれた優しい蝋燭の光」

ゆらゆらと揺れて、大きくなったり小さくなったりしながらおどけてみせて、蝋燭は輝き続けています。


――――ねえ、泣かないで――――


そういって、蝋燭明かりが皆の心を慰めてくれているようでした。

やがて蝋が溶けだし、その命を削りながらも一生懸命に皆を照らし続けます。


それでもチロがいなくなってしまうのはとても悲しくて、皆の涙はなかなかとまらないのでした。




◇   ◇   ◇




翌朝目覚めると、佐々木のおばあさんはもう泣くのをやめました。

そしてその代わりに微笑もうと決心したのです。

涙で腫れた顔を洗い、洗面所の鏡に微笑んでみました。

「あら私の笑顔も捨てたもんじゃないわね」

そんな独り言を呟いてみます。

「そうですよ。佐々木さんはとっても笑顔が素敵なんですよ」

そういって、いつの間にか職員の大谷さんが横に立っていました。

「やだ、聞いてたの?」

佐々木のおばあさんは、少し恥ずかしくなって顔が真っ赤になりました。

「佐々木さん。泣くのはもうやめにしたんですか?」

「そうよ。この笑顔はね、チロが私にプレゼントしてくれたのよ。チロは私たちの心の中で、ずっと生きてるんだもの。だからチロが私に残してくれたものまで無くしてしまったら、チロに申し訳ないわ。それにね、犬のチロは死んでしまったけれど、この世にチロはたくさんいるの。寒空に心を震わせている人全てが、チロなんだって気がついたわ」

そう言って、佐々木のおばあさんはとても素敵に微笑んだのでした。

「大谷さん。私はチロに出会う前とっても甘えていたんです。身体が不自由でここに来て、私は世界で一番不幸なんだって思っていたんです。だけど小さなチロが教えてくれました。

私は決して不幸じゃないって。右手は使えないけれど、私にはとっても素敵な左手があるって教えてくれたんです。この左手で素敵な腹巻だって編むことができるんです。目が見えるんです。おしゃべりだって出来るんです。耳も聞こえるから、誰かの話を聞いてあげることもできるし、手を握って一緒に祈ってあげることだってできるんです。寒いと震えているチロをこの胸で抱きしめることができるって気がついたんですよ。生きているんじゃない。私は生かされているって気がついたんです。そうしたら心が嬉しくって嬉しくって仕方がないんです」


そう言って、微笑んだ佐々木さんを大谷さんが抱きしめました。

「そうですか。それはよかったです」

なぜだか大谷さんの頬に熱い涙が伝っていました。

「嬉し泣きですからね」

大谷さんも泣きながら笑っていました。


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