前篇
それは粉雪の舞うとても寒い日でした。
おばあさんが介護タクシーから車椅子で、降りてきました。
しょんぼりと下を向いて、一生懸命に涙を堪えています。
「もう、そんな顔をしないでよ。お母さんたら」
娘に車椅子を押してもらいながら、おばあさんはぷいと顔を背けました。
「施設なんて、姨捨山と一緒だわ。お腹を痛めて産んで、一所懸命に愛情を注いでここまで大きく育てたのに、その恩義も忘れて、私の身体が不自由になった途端に、こんなところで暮せだなんて」
「そんな。お母さん。私たちだってお母さんを施設に預けるのは心苦しく思っているわ。だけど、私もお姉さんも家庭も仕事もあって、とてもじゃないけどお母さんの面倒なんて看られない。考えた末の苦渋の決断なんだから理解してよ」
娘は車椅子を押しながら溜息を吐きました。
「家に……家に帰りたい。お父さんと二人で苦労して買ったあの家に。あれは私のもんだ。あんたらにとやかく言われずに、あの家でお父さんの思い出を抱いて、静かに余生を過ごしたいんだよ」
「なに言ってるのよ。お母さん。そんな体で一人暮らしなんて無理よ」
おばあさんは脳梗塞という病気になって、右手と右足が麻痺して動かないのです。
「何が無理なもんか。私一人じゃ無理でも、今は国の補助なんかも手厚く受けれるのだから、ホームヘルパーさんに来てもらえばいいじゃないか。そうすりゃ、一人ででも、ちゃあんと暮らしていける」
「そんなこと言ったって、何かあったらどうするのよ。第一そんな身体のお母さんを一人で暮させるなんて、近所の人になんて言われるか。世間体も考えてよね。とにかくあの家はもう処分して、お母さんはここで何不自由なく暮らして貰いますからね。お母さんは姨捨山なんていうけど、そんなに悪い所じゃないわ。趣味の園芸サークルや、書道サークル、お母さんの大好きな手芸サークルもあるのよ」
娘は年老いた母親を慰めようと、なるべく明るい声で話しをしますが、おばあさんはやっぱり肩をしょんぼりと落として、動かなくなった自分の右手を悲しそうに見つめました。
おばあさんの持ち物は衣装箪笥と小さなクローゼットに入る分だけでした。
病院からの異動で疲れてしまったおばあさんは、ベッドに身を横たえました。
清潔なベッドは、なんだか冷たい感じがしました。
「じゃあね。私もお姉さんもできるだけお母さんの顔を見に来るようにしますからね」
頭から布団を被ったおばあさんの耳元で、娘が元気づける様にそういいました。
娘が去っていく廊下を、いつまでもいつまでもおばあさんが見つめています。
やがて角をまがり姿が見えなくなると、寂しさにおばあさんの胸が詰まります。
家族のアルバムを胸に抱いて、誰にも聞かれないように布団の中で咽び泣きました。
◇ ◇ ◇
「佐々木さん、今夜も泣いているわね」
宿直スタッフの大谷さんが、そっと同僚の木田さんに呟きます。
「なんとか、佐々木さんも元気になって欲しいわよね」
と木田さんも思案の様子です。
やがてぽんと手を打って、顔を輝かせます。
「そうだわ。お楽しみ会をやりましょう。そうすれば家族と離れて暮らす寂しさも紛れて、この施設の皆とも仲良くなれると思うの」
「それはいいわ。きっと佐々木さんも喜んでくれるわ」
大谷さんも、嬉しそうに微笑みます。
そしてお楽しみ会の日がやってきました。
紙のお皿に可愛くお菓子が盛られています。
ポッキーやかっぱえびせん、チョコレートもあります。
「あら、佐々木さん。お菓子食べないんですか?」
「ああ、これはね。孫が私に会いに来てくれたときに、食べさせてやるんじゃ」
そういっておばあさんはそのお菓子をティッシュに包んでこっそりと自分のポケットに忍ばせます。
そして心に孫の喜ぶ顔を思い描いて、おばあさんは嬉しくなりました。
窓の外に広がる鉛色の景色を見つめ、おばあさんは来る日も来る日も家族が来るのを待ち続けました。
しかし昔はおばあちゃん大好きといって、膝の上で遊んだ孫たちも受験だ部活だといって、おばあちゃんのもとへ訪ねてくることはほとんどありませんでした。
孫にあげようととっておいた、お菓子もすっかりと湿気てしまいました。
「これではもう、孫を喜ばせることはできんな」
おばあさんは、湿気たかっぱえびせんを口に放り込みました。
かっぱえびせんはなんだか涙の味がしました。
それでもおばあさんは家族が自分に会いに来てくれるのを待ち続けました。
「明日はクリスマスじゃから、きっと会いに来てくれる」
そう自分に言い聞かせてずっとずっと、首を長くして家族を待ち続けました。
しかしとうとうクリスマス・イブにもクリスマスにも、おばあさんに誰も会いに来てはくれませんでした。
おばあさんの布団は涙で、しっとりと濡れていました。
そしておばあさんは神様に祈りました。
「神様。どうか私の命を召してください。愛する夫に先立たれ、身体の不自由になった私は娘たちのお荷物です。他人に迷惑がられてまで生きようとは思いません。どうか私を哀れだと思うなら、命を召してください」
それは悲しい悲しい祈りでした。
おばあさんは車椅子に座って、ゆっくりと窓際に進みました。
昨夜から降り続いた雪が音もなく静かに降り積もっています。
おばあさんの脳裏に死が過りました。
施設の前から続く緩い坂道を下って、この雪の中に倒れたなら、もう自分では起き上がることができないだろう。
この寒さだ。
私はきっと眠るように死ぬことができる。
そう思った時でした。
「くぅん」
何か音がします。
「キューン……キューン」
それは、頼りない仔犬の鳴き声でした。
おばあさんははっとして目を凝らすと、頼りない街灯の明かりの下に小さな段ボールが置いています。
そこから、白い仔犬が頭を出して悲し気に鳴いているのです。
そして段々とその声は弱々しく、掠れて途切れていきます。
「大変。あんなに小さいのだもの。朝まで放っておけば死んでしまうわ」
おばあさんは車椅子を左手で押して、宿直室に駆け込みました。
「お願い。助けて頂戴。施設の前に仔犬が捨てられているのだけれど、このままだったらあの子死んでしまう」
宿直室で仮眠をとっていた大谷さんが、上着を着て街灯の下に走っていきました。
上着の中に仔犬を抱えて戻ってくると、大谷さんは仔犬をおばあさんに手渡しました。
「大丈夫ですよ。ちゃんと元気です。私ちょっと牛乳を温めてきますから、その間佐々木さん、この子を抱いていて貰えませんか?」
仔犬はあばあさんの手の中で、ぶるぶると震えていました。
寒くて怖くて仕方なかったのです。
「大丈夫だよ。恐くないよ」
そう言って、おばあさんは何度も仔犬を撫でました。
すると仔犬も甘える様に鼻を鳴らします。
「くぅーん」
おばあさんの掌が優しくて、暖かくて、仔犬はとても気持ちがよかったのです。
「ここに……命がある」
そう呟くとおばあさんの瞳に涙があふれて止まらなくなりました。
「生きることが嫌になって、自分でその命を投げ出そうとして、だけどそしたら、こうして新たな命を拾ってしまうだなんて。これじゃあ、あべこべだね」
おばあさんは笑いました。泣きながらなんだか可笑しくなって、笑ってしまいました。
「そうだ。だったら私がお前のお母さんになってあげよう。小さくて頼りないお前を守るために、わたしもがんばるよ」




