30話「穏やかな日常」完
水縞あいりが、ミレア・ウィン・ティルベリーに転生してから七年目の春。予定通りの二月に自分の店をオープンさせ、二か月が経とうとしていた。
現在のミレアは、メイドは辞めたもののフランドル侯爵邸に住み続け、日中はドレスショップの店主、夜は侯爵夫人と二足の草鞋を履いている。本邸はエミールとイザベラの母親である寡婦侯爵夫人に譲ったものの、新居が完成するまでは引っ越さなくてもいいと言うのでお言葉に甘えている。
結婚を機に仕事を辞める女性が大多数ゆえに、ミレアのように外で働いているのは珍しい。けれど、まったくいないわけではないので、体力が持つ限りは続けるつもりだ。
ドレスメーカーとしての客第一号は、イザベラの友人の令嬢と決まっていたので、案の定、またイザベラに拗ねられてしまったが、焼き菓子を何度か作っているうちに許してもらえた。
ミレアは、エミールと正式な夫婦になったけれど、結婚式はまだ挙げておらず、お手製のウェディングドレスが完成するまでは待ってもらっている状況だ。彼としては、早く花嫁を披露したいらしいが、ミレアの気持ちを最優先してくれている。
エミールとの関係は良好で、領地視察に行く際は必ず誘ってくれるし、依頼が立て込んでいる際は、付き添いを断っても怒ることはない。お互いを尊重しながら、日々生活している。
「ミレア。そろそろお昼にしない?」
昼間は店で作業しているので、エミールもよく顔を出していた。ちょっとした書類の確認や整理をするだけだというのに、わざわざ持ち込んで店の片隅で仕事をするくらいだ。フランドル侯爵邸の書斎にいるよりも、ここに顔を出している時間の方が長くなっていた。
「たまには私が作りましょうか?」
「え、いいの?」
「いいですよ。リクエストはありますか?」
マーケットで手頃な食品を購入し、侯爵邸に戻って調理をして二人で食べる。以前より、台所に立つ機会は減ったとはいえ、時間が合う日はなるべく作るように心がけていた。
「そうだな……唐揚げ! 君に時々作ってもらっていたけど、久々に食べたくなった」
「わかりました。きっと揚げている最中、色んな人につまみ食いされると思うので、大量に作りましょうね。手伝ってくれますか?」
「いいよ。荷物持ちでも、洗い物でも、なんでもやるよ」
「ふふ、ありがとうございます」
二キロの鶏肉のほかに、生姜、にんにくを入手したので足早に侯爵邸へと帰った。
正午前なので当然ながらキッチンには使用人が何人もいた。けれど、昼食の準備はすでに済んでいるらしく、調理台に余裕があったので、ミレアは早速下準備をすることにした。大きめのボウルに、一口サイズに切った鶏肉を次から次へと投じていると、エミールはにこにこしながら眺めている。
「エミール様。生姜とにんにくを摩り下ろしてもらってもいいですか?」
「全部下ろしちゃっていいの?」
「お願いします」
「わかった」
ミレアが頼むと、エミールは嫌な顔することなく、おろし金で生姜とにんにくを丁寧に摩り下ろしてくれた。
「次はどうする?」
「醤油と合わせて漬け込みたいんですけど、まだ切り終わらないので待っててください」
「はーい」
皮をはいでひたすら切るという、本来ならば手間に感じる行程も、エミールが傍にいるので下準備すら楽しい。二キロの鶏肉すべて切り終えると、今度は醤油、生姜、にんにくの摩り下ろしで三十分ほど漬け込む。
「三十分どうします? お腹が空いているなら、もう一品作りましょうか?」
「そうだな。椅子に座ってしりとりでもする?」
「し、しりとりですか? またの機会にとっておきます」
好きな食べ物や、嫌いな食べ物、これからやってみたいことや、考えていることなど、他愛もない会話であっという間に三十分経っていた。
竈に火を熾し、鍋にたっぷり油を注ぎ、温度が上がるのを待つ。箸を入れると上昇したことがわかったので、もうそろそろいいかと、小麦粉をまとわせた鶏肉を油に沈めていく。なるべく箸で触らないように我慢してから、五分ほど経ったので引き上げ、網に上げた。二度揚げするので時間はかかるが、唐揚げの香ばしい匂いに食欲が刺激される。
「味見、していい?」
「いいですよ。熱いので気をつけてください」
「食べさせてほしいな」
小皿に揚げたての唐揚げを一つ載せ、箸とともに渡そうとしたところ、首を傾げて甘えられてしまった。美しい顔立ちの殿方にやられてしまうと、拒否できるはずもなく。
「仕方ないですね。はい、あーん」
口元に運ぶと、エミールは揚げたての唐揚げに齧りついた。熱そうだが、すぐさま平らげた。
「ん。うまい!」
「よかったです」
「もう一つ載せてくれる?」
「いいですけど……先にお昼にしますか?」
「んーん。今度は僕が食べさせてあげるよ。はい。あーん」
箸を手にしたエミールに、口元まで運ばれ恥ずかしかったが、空腹だったのでミレアは思い切って齧りついた。熱すぎたが美味しかった。
「ん。しっかり味が染み込んでいて、いいですね!」
「食べさせあったから、もっと美味しいよ」
「ふふ、そうですね」
キッチンゆえに使用人は何度も出入りしているというのに、ミレアもエミールも気にしていなかった。
二キロ揚げ終わるまでの間に、何人か味見がしたいというので、ミレアはその都度、分け与えていた。ミレアたちの帰宅を使用人から聞きつけたイザベラも加わり、食べさせあっている二人に引け目を感じながらも、唐揚げを口にすると美味しいと絶賛してくれた。
唐揚げとキャベツの千切り、ご飯、味噌はないのでわかめスープというラインナップの昼食に満足したので、侯爵邸の周辺を散歩することにした。
春を迎えたこの時期。侯爵邸の裏庭には、スノードロップと呼ばれる白い花が開花し始めていた。雫型の花びらが特徴的で可愛らしく、春先になると眺めたくなるのだが、この場所にはミレアの天敵が生息している。敷地に一歩でも足を踏み入れれば、どこからともなく姿を現すのだ。
今日こそはきっと大丈夫。そう信じながら裏庭にやってきたが、やはり今日も見つかってしまった。
──にゃあ♪
尻尾を立てた黒猫は、ミレアの姿を金色の瞳で捉えるなり、こちらに向かって一目散に走ってきた。猫撫で声を出し、上機嫌そうだ。
「や、やっぱり今日もきた!! エミール様!!」
「水縞さんの前世はネズミっていうのは、本当だろうね」
「いいから早く助けてくださいっ!!」
ミレアは、一緒にいたエミールの背後に隠れて難を逃れた。黒猫は、餌をくれるエミールにはどういうわけか懐かず、近寄ろうとはしないのだ。餌に口をつけるのも、エミールが離れてからという徹底ぶりだ。
「猫に嫌われるのはちょっと寂しいけど、でもこうして君の役に立ててよかったよ」
「私たち、二人でいたら丁度いいですね」
「そうだね」
天敵から守ってもらいつつ、ミレアは束の間の散歩を楽しんだ。
──完──




