27話「戻りたくない」
建国記念日、当日の夜──。
ミレアが、エミールとジョルジュと共にフランドル侯爵邸に戻ったのは、時計の短針と長針が真上を回ってからだった。断罪されるようなことはなく、無事に邸宅に帰還することができたので心底ほっとした。
気丈に振る舞ってはいても、甲冑姿の兵士を引き連れた王太子の側近が現れたときは、生きた心地がしなかった。まさか、故フランドル侯爵の命を奪ったと、濡れ衣を着せられるとは想定できなかった。動機はあっても、目先のことでいっぱいいっぱいだったし、原作と異なる展開だったために対応できなかった。エミールの機転のおかげで助かった。
昼前から飲まず食わずで何時間も立ち回っていたので、深夜という時間帯だが軽く腹ごしらえしようとキッチンへ向かう途中で、弟のジョルジュは立ち止まった。
「姉さん。もう眠いし、俺は先に休むね」
「ええ。今日はありがとう。おやすみ、ジョルジュ」
食欲より眠気が勝ったらしく、ふわあと、大きな欠伸をしている弟を見送ってから、ミレアとエミールは食堂に足を踏み入れた。さすがに誰もおらず、辺りは静まり返っている。このままでは薄暗すぎるので、燭台に灯りをともすと、二人の周囲だけが温かい光に包まれた。机に上げられていた椅子をエミールが下ろしてくれたので、勧められるまま腰かけた。
「……終わったんですね」
「そうだね。お疲れさま」
緊張しっぱなしの一日から解放され、ようやく一息つけた安心感から、どっと疲れが押し寄せてきた。食パンに卵液を浸したものを焼いて、フレンチトーストでも用意するつもりでいたが、動きたくなくなってしまった。
「エミール様。頬、つねってもらっていいですか?」
「心配しなくても、夢じゃないよ?」
「いいから、早く」
催促すると、エミールは遠慮がちにミレアの頬を摘み、軽く捻った。その途端、頬に鈍い痛みが走り、ミレアは眉を顰めた。
「……痛いですね」
「そりゃーつねったからね」
「ふふ、そうですね」
頬から指を離すと、二人同時に笑い声をあげた。和やかな空気に包まれつつあるが、ようやく落ち着いて話せる今、ミレアには尋ねたいことがあった。
「いくつか質問してもいいですか?」
「かまわないよ」
「ありがとうございます。いきなりですけど、遺体にヒ素を盛られるって、予想してたんですか?」
ずっとそこが引っかかっていた。医師を邸宅に呼び寄せ、診断書を複数枚用意していたのは、前世の職業柄だとすぐに気づいたけれど、さらにその先を予見しているとまでは考えが及ばなかった。
「うん。この世界は火葬ではなく土葬だから、後から仕込まれる可能性をできるだけ潰しておきたかったんだ」
「いつ、棺を入れ替えたんですか?」
「初めからだよ」
「……というと?」
「うちで、家族水入らずの時間を取っていただろう? あの時に、夫人と打ち合わせしていたんだ。棺を入れ替えることを条件に、邸宅を譲ることにした」
「え!?」
「棺の交換相手がすぐに見つかって助かったよ」
第一報を受けて着替えた後、エミールは二、三時間ほど外出していたが、その間にたまたま不幸があった家を数件見つけ、無理を承知で頭を下げたのだという。もちろん何軒か断られている。しかし、侯爵家の後ろ盾がほしい家からは、協力を得ることができたので、その家を支援するように手配済みだと聞かされた。
「また大きな借りを作ってしまいましたね」
「ちょっと荒業だったけど、相手が相手だからね」
「そうですね。まさか、原作では善人だった王太子がそんなことになるなんて……」
「うん。とにかく、無事に乗り切れてよかった」
「……はい!」
祝・断罪回避で朝までどんちゃん騒ぎしたいところだが、体力的に厳しいので後日の楽しみにとっておくことにした。
「そろそろ見回りがくるだろうから、部屋に戻って休もうか」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
食堂の前でエミールと別れ、三階にある自室に戻ると、机の上に置いていたはずの辞表が見当たらなくなっていた。朝からばたばたしていたので、どこか荷物にでも紛れたのだろう。
(……明日、もう一度書き直せばいいか)
ミレアはメイド服から寝巻きに着替えると、寝台に横たわり目を閉じた。
空腹だったものの疲れからか、それほど経たずに眠りについた。
夢を見た。前世の夢だ。水縞あいりが病院のベッドに横たわっている。枕元にあるカレンダーの日付を覗くと、事故の三日後だ。緋崎玲斗が病室に顔を出し、水縞あいりの手を握る。そしてなにかを話しかけていると、誰かに呼ばれたのか慌てて退出した。
それから数日経ち、また緋崎玲斗は病室にやってきた。事故からは一週間経っていた。目に隈を作っているというのに、見舞いは欠かすことなく、ついにはその場に倒れてしまった。それに気づいた看護師が、慌てて駆け寄るも──。
そこで起きたかったが起きられず、いつの間にか事故からは一か月も過ぎていた。待てども待てども緋崎玲斗が病室に訪れることはない。水縞あいりの家族や、幼馴染みの御剣才知など、代わる代わる見舞いにきてくれるが、もう緋崎玲斗が姿を現さないことは知っていた。
ふと頭の中で誰かの声がした。
──《《この世界に戻りたいか》》?
耳元で誰かが囁く。二十六年間、水縞あいりとして生きた世界に戻りたいかどうか。
この世界に帰れば、また平日は事務員として働きつつ、イベントのある日曜日がくればコスプレイヤーとして趣味を楽しむのだろう。幼馴染みの描く作品を読めるし、二期のアニメも視聴できる。家族にだって会える。
けれど、その世界に戻っても、エミール=緋崎玲斗はいないのだ。それだけはわかっている。彼はもう、そちらの世界には存在していない。ここで戻ってしまえば、もう二度と話すことはできないのだ。しかも、こちらの世界で助けたことも、助けてもらったことも、買い食いや、デートと称して昼食にでかけたり、これから開店する予定のドレスショップで一緒に客をもてなしたり、猫から守ってもらうこともすべてなくなってしまう。
戻りたくないかと問われれば、正直よくわからない。すでに命を落としていると思ってメイドとして奮闘してきたのだから、よくわからない。
でも、エミールと親しくなるにつれ、なくてはならない存在になっていたのは確かだ。まだ恩返しできていない。
「このまま離れたくない……!」
水縞あいりは、元の世界に戻らず、ミレア・ホルダーとして生きていくことを決めた。
断罪回避をして、人生これからだというのに、始まってすらいないのに、それらを捨ててまで戻りたくなかった。
朝日が差し込み、強制的に起こされた。睡眠時間は五時間ほどだったが、ミレアは清々しい気持ちで目覚めた。これから始まる日々を想像するだけで、口元が弛んでしまうのを抑えられなかった。




