最後の裏切り
その日。
主様は死を迎えた。
偉大な人だった。
人間を貪る悪神と恐れられた大天狗に支配されたこの土地に突如現れ、一太刀で大天狗の命を奪いこの村を救った。
気高き人だった。
誰もがそう思っていたから皆がその人を敬愛していた。
けれど、人間である以上は必ず死を迎える。
屋敷の中、その最奥の主様の部屋で――主様は空を見つめ息を漏らしていた。
すっかりと真っ白になった髪の毛もひび割れのように全身に走る皺が主様の死が近いことを否応なしに告げていた。
「人を払ってくれ」
「しかし……」
「頼む。最後くらいは自分になりたいんだ」
主様の言葉に私達は泣きながら離れていく。
涙の零れる音が足音よりも大きく響けば良いのに。
そう思った矢先、主様に名を呼ばれた。
「残っておくれ。君だけは」
足を止めて振り返る。
仰ぎ伏している主様は灰色の目で見えないはずの世界を見つめながら言葉を繰り返す。
「ここに居ておくれ」
他の皆に目配せをした後、私は主様の下へ戻る。
足音など早く消えれば良いのに。
そう考える時間はあまりにも長く感じた。
「皆、消えたか」
「はい。主様」
「そうか」
部屋は私と主様の二人きりとなっていた。
「聞いておくれ」
「もちろんです。主様」
どのような言葉でも聞き逃すものか。
そう思いながら身を近づけ、乾いた唇を見つめる。
そして。
「嘘をついていた」
主様は告げた。
「私は大天狗を殺してなど居ない」
「主様?」
「おかしいとは思わなかったのか。何故、大天狗の死体を持ってこなかったのかと」
思わなかったわけではない。
しかし、事実として大天狗はこの土地から姿を消していた。
それは主様が大天狗を殺したからではないか。
皆がそう信じていた。
疑うべくもなく事実が存在していたのだから。
「私はな」
主様は言った。
「人間になりたかったのだ」
奇妙な言葉を。
「個で孤独に生きるのではなく、群で生きる存在になりたかったのだ」
白い髪の毛は白いままだ。
皮膚に刻まれた皺もまたそのままだ。
「故に人間を攫い言葉を学んだ。まじまじと見つめ、千切って中身を確認し、最後には味をも確かめた」
鼻も伸びたりはしなかった。
だから、おぞましい告白はただの冗談だと思うことも出来た。
「うまく化けれた。化けることが出来た。そう思っていたのに――世を去る今となり、心が苦しい。押しつぶされそうだ。怖くて仕方ない。なのに、それが何か分からない」
言葉を切り主様は泣き出した。
さめざめと子供のように。
「これが何なのか分からない。分からないのだ」
涙と共に命は消えた。
それだけが私には分かった。
***
主様は最後まで人間だった。
少なくとも私はそう思う。
何せ、罪の意識と罰の重みを知るのは人間だけだから。
だから、私は主様の真なる姿を隠すため屋敷へ火を放った。
多くの人が死んだ。
主様の亡骸と共に。
血と火に汚され赤い叫び声をあげながら崩壊する屋敷の悲鳴は――あるいは私の心をこれ以上なく表していたのかもしれない。