摩訶不思議
それから数時間が経った。部屋の窓の外はまだ少し薄暗い。それはどうやら夜が開けて、明るくなりかけているようだった。その部屋の中央にあるベッドの掛け布団が丸く、膨らんでいた。
「……う…」
フィリアはごそごそとベッドの中で体を動かした。先程まで丸くなっていたのが、楕円形になる。その感触に違和感を覚えながら、だんだんと目が冴えてきていた。
「……。ここは?」
フィリアは慌てて起き上がり、きょろきょろと辺りを見回す。この様子だと、今まで知らない部屋のベッドで寝ていたようで。周りには誰もおらず、フィリアはとりあえず今は、その事にほっと胸を撫で下ろした。
「……あ」
フィリアは何かを思い出したかのように頭を触る。手に布の感触が残った。布は少しずれていたが顔が見える程ずれてはいない。まぁ、布が取れていても瞳の色を見られなければ大丈夫。なんともない……と思おうとして、止めた。そうだった、完全に思い出した。昨日、布を取りたいだの言っていた危険人物がいることを。
それから一人で云々考えていてもしょうがないとフィリアは立ちあがる。ベッドを綺麗に直して、部屋の中にあった洗面所を借りて顔を洗った。目が覚めた気がした。
そして部屋を出て厨房に行き、大量の氷を貰うとついでに昨日作っておいた料理も温めておいた。料理と言っても、病気に効くような薬草を入れたスープのことだった。
――コンコン
「お妃様、失礼します」
フィリアはまず、誰にも廊下ですれ違うことなく一番気になっていた妃の様子を見に行った。屋敷の一番奥にある豪華な装飾の扉に手をかけ、中に入る。妃は規則正しい呼吸音ですやすやと眠っていた。
フィリアはその事にほっと胸を撫でおろし、妃の額に置いてあったタオルを冷たいものに変え、枕も冷たいものに変えていった。
「……凄く、楽になったわ」と急に妃の声がフィリアの耳に届く。フィリアはその元気そうな声色に、思わず頬を緩めた。
「すみません。起こしてしまいました。楽なようなら良かったです。もうしばらくお薬を飲み続けて貰えますか?」
「ええ」
「少し、起こしますね」と言って妃の背中を支えるフィリア。妃は少し申し訳なさそうにお礼を言い、そしていたずらっほく微笑んだ。
「ありがとう。ねぇ、貴女のお名前は?」
「……ルアです」
「そう。ルアさんね。大丈夫よ、自分で出来るわ」
フィリアは温かいスープを持って来ていた。それを妃に渡し、近くにあったショールを妃にそっとかける。妃は特にためらうことなく、ゆっくりとスープを口に運んでいた。
「……美味しいわ。本当に美味しい」
妃はフィリアを見て、にっこりと微笑む。それは思わず見とれてしまいそうなほど美しい笑みだった。
「お口に合ったようで良かったです」
美味しいと心を込めて言ってくれているのが分かり、フィリアは素直に嬉しかった。しかし妃は先ほどの表情とはがらりと変わり、辛そうに目を伏せる。
「ルアさん、エルヴィン様は大丈夫でしたか? まさか病に伏せるなんて事は……」
「大丈夫です。病気にはかかっておられませんでした」
「そう、良かったわ。わたくしも早く元気にならないと皆さんに迷惑かけてしまうわね」
「迷惑だなんて。でも、早く元気になりましょう。私もお妃様が元気になれよう精一杯お手伝いさせて頂きます。次はこの薬を飲んで頂けますか?」
「ええ」
フィリアは妃が薬を飲むのを確認するとゆっくりベッドへと促した。上から布団をふわりとかけ、額にもう一度冷たく冷やしたタオルを乗せる。妃はまだ不安そうな表情で、フィリアを見上げていた。
「ねぇルアさん、他の方達は大丈夫なのかしら?」
「はい、大丈夫です。きっと良くなります。なのでお妃様もゆっくりとお休みになって下さい」
「……そうね。ありがとう」
妃はまだ本調子では無さそうで、ゆっくりと瞼を閉じていく。フィリアはそれを見守ると灯りを消し、大きな物音をたてないように部屋を後にしたのだった。
***
昨日一体いつ寝たんだろう。フィリアはさっきからそんな事ばかり考えながら、長く広い豪華な廊下を歩いていた。
執事のバローさんかクランさんにでも聞けば直ぐに分かるんだろうなぁ、とは思う。けれども二人にはなかなか出会うことがなかった。部屋に訪ねようにもフィリアが知らないはずの部屋に、訪ねて行くのも不自然極まりない。一度フィリアがここの屋敷図を書いたことは、屋敷の誰も知らないのことなのだから。
「はぁ」
意図せずともため息をついてしまう。どうしてこう、もっと慎重に行動出来ないんだろうと。いくら昨日は疲れていたとはいえ寝てしまうなんて。
それに寝るだけならまだしも、自分で部屋に戻った記憶や、どこでどんなふうに寝たのかなども、フィリアは完全に覚えていないのだった。
最後に残っている記憶といえば兵士やメイド、料理長たちの看病をしたところで終わっている。本当にフィリアにとってそれは摩可不思議なことだった。
――コンコン
そんなこんな頭の中で格闘しているうちに、もうすでに次の部屋の前に着いていた。フィリアは「失礼します」と最善の注意を払い物音をたてないように、部屋へと入っていく。
皆、妃と同じく規則正しい呼吸音で眠っていた。フィリアはその様子を見てほっとする。少しでも苦しそうな人がいたらどうしようと思っていた所だった。
全員分のタオルと枕を冷たいものに変え、その枕元には薬を置いておく。そしてまだ追加分の薬を大急ぎで作らないといけない、フィリアは足早に部屋を出て行った。
移動中、窓をちらりと見ると夜が開けて朝日が顔を出している。もしかしたら、そんなに長く眠り込んでいたわけじゃないのかもしれないと思った。
「おはようございます。お嬢様」
ぼんやりと空を眺めていると後ろから声をかけられ、ビクッとしてフィリアは振り向く。その声の主は執事のバローだった。完璧にその燕尾服を着こなし、フィリアを見て微笑んでいる。「おはようございます」とフィリアが返事をすると、バローは感心してこう言った。
「随分とお目覚めが早うございますね」
「たまたま目が覚めてしまったので……。あ、バローさん。今部屋に行って皆さんのタオルや枕は変えてきました」
「それはそれは。今向かおうとしていたのですよ。ありがとうございました」
「いえ、お礼なんて……」
「では私はクラン様を見て参りますね」
「はい」
「お嬢様も一緒に来られますか?」
「えっと。私も、ですか? いいです。遠慮させて頂きます」
フィリアは思った。私まで行ってどうするのと。
「分かりました」
フィリアのその返答にバローは特に気にもせず、すたすたと去って行くのだった。去っていく背中を見て執事の仕事は朝が早いんだなぁと思った。
「……しまった」
昨日の事を聞いておけば良かったとフィリアが思った時にはもうすでに、バローの姿は見えなくなっていた。フィリアは追いかけようとも考えたが薬が優先だと諦め、今使わせて貰っている客室に戻った。
あの部屋の中で看病を手伝ってくれた人達が絶対にうつらない訳では無いことをと考えると、どうしても薬を作る材料が足りない。
薬瓶を一つ一つ並べながらもどうしようかと悩んだ末、一度家へと戻ることにした。材料は家になら沢山ある、それに一度服も着替えたかった。 今は早朝でほとんどの人が起きてこないと思う。その隙に行っておくのもありかも知れない。
フィリアはそうと決まればてきぱきと荷物をまとめ、足早に客室を後にした。厳しい顔つきの門番の人に行き先を聞かれたので、フィリアは一度自宅に戻るだけと伝えておいた。
他にも詳しく聞かれたが、その内容が細かすぎたので適当に受け流しておいた。さすが門番というか、面倒というか。馬車まで出そうとするんだから、驚いた。たった一人、少し戻ると言うだけで馬車を出そうとするとは……。
「でもこの距離なら」
前に屋敷図を書くためにここに来たときに、帰りは魔法を使った。それと同じ魔法で帰れると思いフィリアはさっと茂みに隠れる。そして魔法を使い、自宅へと戻るのだった。
門番たちもまさかフィリアが魔法使いだとは、これっぽっちも考えていなかった。
***
「最後にこれを入れて……。えっと。合ってるよ、ね?」
フィリアは家に戻り、シャワーを浴びたりして一通りの身だしなみは整えた後、再び本を睨みつけていた。店にある大量の薬瓶の中から目的のものを探す。それは容易な事では無かった。フィリア自身、こんなに薬瓶があったとは驚いたのだ。
夢中になって探していると、頭から被っている布が段々とうっとおしくなってくる。あまりにも邪魔なのでフィリアは途中からそれを脱ぎ捨てて、真剣に探していた。だいたいの薬の場所は暗記していても、間違ったら大変なことになるのだ。フィリアは念入りに一つ一つを確認していった。
***
「……?」
あれ……。とフィリアは店の外で人の気配がしたような気がして、窓をちらりと覗いた。見えたその先には、洋服の裾が見える。なんとなく嫌な予感がして、フィイアは脱いでいたはずの布を慌てて被った。するとそれと同時に店の扉が勢いよく開いたのだった。
「い、いきなりどうしたんです……」
フィリアと言えばかなり動揺している。顔を見られてはいないとは思う、が。しかし今のは危なかった。ひやひやものだ。
「鍵閉めてないの? 無用心だね」
「……クランさん」
今日も完璧な出で立ちのクランがゆっくりと店に入ってくる。
「焦った? 今のは焦ってたね?」
そして面白そうにフィリアの顔を覗きこんでくるのだった。全く笑いが隠しきれてない。フィリアは無視を決め込んで、くるりと後ろを向いた。そして再び薬瓶と向き合う。
「別に焦ってません」
「えー。おしかったなぁ」
「何がですか?」
「せっかく君の顔が見れると思ったのに」
なにか様子がおかしい。フィリアはそう感じていた。悪巧みをする子供のような、良くない事を考えているような、そんな感じがする。
「見せませんから」
「……昨日の君は素直に見せてくれたのに?」
「!?」
フィリアは思わず手に持っていた薬瓶を落としそうになった。なんだ、この含みのある言い方は……とフィリアはバッと勢いよくクランの方を向いてしまう。
「……何かの、間違いじゃないんですか?」
顔を見せたなんて自分でも初耳だ。フィリアは冷静さを取り戻して尋ねるけれど、その中でも一つだけ、一つだけ思い当たる事がある。けれども、まさか。まさか。そんなはずはない。と自分に言い聞かせているのだった。
クランはにやりと笑い、
「ルア。今朝、君の目覚めた場所は?」
「……部屋、でした」
「そうだね。どこの?」
フィリアの顔がさあっと顔が青ざめる。妙な冷汗までかいてきそうだった。
「最初に通された客室……?」
「正解。ではルア、昨日君は一体どこで寝たんだろうね?」
「ま、まさか」
その答えにクランは楽しそうに笑った。一方のフィリアはパニックになっている。昨日どこで寝たのかを思い出すので頭をフル回転させていた。
「なんてね。君があまりにも面白いから、からかってみた」
「……クランさん。で。結局、見たんですね!? しかも無断で!」
フィリアは胸倉を掴みそうな勢いでクランに詰め寄る。しかし一方のクランはあっけからんとしているのだった。
「ははっ、見てないよ。昨日、君は皆の看病してくれて疲れたんだろう。ルアがそのまま寝てたから部屋に運んだだけだ。まぁ本当は見てやろうかと思ったけどね。あまりにも無防備だったなぁ」
「!!」
フィリアはビクッとしてピタリとすべての動きを止める。そしてぎこちなく再び薬棚に向き合った。
「あ、驚いてる? 見えないなぁ。布、取ってしまおうか」
そんなフィリアにクランが回り込みポンとフィリアの頭に手をおく。このままでは本当に布を取られてしまいそうで「取ったら即刻、追い出しますから!」とフィリアの怒りが店中に響いたのだった。
「で。クランさん、どうしてこんな所まで?」
そして先程の話を終わりにするべく、こほんと咳払いをする。
「ルアがいきなりいなくなるから、何事かと思ってね」
「別に居なくなった訳じゃ……。薬の材料が足りなくなったので、取りに帰って来ただけです」
「あった? 材料」
「はい」
「それじゃあ屋敷まで一緒に戻ろうか」
「あ、はい。分かりました」
「そこは素直に従うんだね」
「はい? 何か言いました?」と答えるフィリアは探し出した薬瓶を鞄に詰め込む作業をしている。そしてすべて詰め終わると、コートを羽織り暖炉の火を消した。
「持つよ」
クランが薬瓶がいっぱい入った鞄を持とうとする。
フィリアは首を横に振り、
「いいですよ? 大丈夫です。これくらいなら自分で持てます」
「まさか断られるとはね。傷つくなぁ」
「あ」
するとひょいと鞄をクランに取られてしまった。フィリアは手持ちぶさたに手を持て余す。
「クランさん、重いでしょう。私が持ちます」
手を伸ばしてとろうとしたら、今度は手を握られた。
フィリアがビクッとして固まっていると、
「荷物は男が持つものなんだよ?」
にっこりと微笑まれる。けれどもフィリアはそれを胡散臭そうに見上げた。
「そうなんですか? そんな事初めて聞きましたけど」
「知らない事を知れて良かったじゃないかー。さて行こうか!」
「え。あの……」
フィリアはそのまま手をぐいぐいと引かれ、馬車へ入らざるおえないのだった。
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