零れおちる雫
雲一つない晴天の空の下で、漆黒の長い髪を持った少女は花を見つめ、嬉しそうに選んでいる。けれどもその視線は至って真剣だった。
そして少しずつ色の違うピンクの花を選ぶと、
「すみません。このガーベラで小さめの花束を作って貰えますか?」
「はい。少々お待ちください」
店員にその花を渡した。
フィリアは今、色とりどりの花が咲き誇る花屋に立ち寄っている。朝早くに店を閉め、少し遠い距離にあるバシュという街に移動していた。
バシュは非常に海に近い街で、新鮮な魚がよく捕れる。その捕れたての魚が毎朝、市場にずらりと並ぶのがこの街の観光名所と言っても過言では無かった。
今日はまた天気が良かった。
寒さは変わらずとも、太陽が出ているだけでフィリアの気分も上向きになるもので。花を買おうと少し寄り道をしていたのだった。
この街にたどり着くまで馬車で移動するのは、かなりの時間を要する。
本当は魔車といって、魔法が原動力の馬車のようなものに乗るつもりでも、値段の所でつまづき結局は馬車での移動となったのだった。
そんなに急ぐこともない。そう思い、馬車を乗り継ぎここまでやって来たのだった。
「お待たせ致しました」
その声にはっと気づき振り返ると、花束はすでに出来上がっていた。
フィリアはお金を払い、また歩き出す。ここまで来たらもう近い。
不意に、店のガラスに映る自分の姿に目が止まった。
特に結うこともしていない下ろしっぱなしの黒髪、そして何の変哲もない緑の瞳。今日くらいはと、いつもの布を被るのは止めておいたのだ。
瞳の色さえ変えておけば、たとえ魔法使いに見つかったとしてもいつもの仕事だと思われ「フィリア」である事が知れるはずがないのだから。
ただずっと魔力を使い続けるために、瞬間移動などの大がかりな魔法が使えなくなるのが難点だった。
フィリアは渡された花束をしっかり持ち直すと、再び道の脇に止まっていた辻馬車に乗り込む。そして手短に行き先を告げると、その馬車は海沿いをぐんぐん進んでいった。
青く輝く海を抜け、華やかな街を抜け、今度は森へと入った。両端に木々が迫っており、所々が影になり肌寒くなる。
フィリアはその見覚えのある景色に複雑な気持ちになってゆくのだった。
それは一度はまりこむと中々抜け出せない泥沼に、足をとられたかのようで。ゆっくり、ゆっくり。また一歩はまってゆく。
「……」
フィリアはパシッと軽く頬を叩き、首を横に振った。
ずっと前から今日と言う日はここに来る、そう決めていた。この地はフィリアが小さい頃を過ごした土地でもあり、エルザとの思い出の地でもある。
今年もちゃんと来れるかなと心配をしていても、そんな必要はなくなったんだとフィリアは馬車の中で一人、思っていた。
店にあの人が入り浸っていたままだったらどうしようか、と少し考えたりしていたのも水の泡になったなぁとフィリアは少し笑う。
魔法で記憶を思い出せなくなるのに、必ず次も逢うと言った本当に不思議な人だったと今のフィリアはただ静かに、窓の外を静かに見つめていた。
「お嬢さん、着きましたよ」
「あ、はい」
そんな掛け声に馬車から降りる。そして少し奥へとまっすぐ歩くと、お目当ての場所にたどり着いた。
周りは木々に囲まれており、鳥達がすぐそばでお互いの鳴き声を競い合うかのようにして鳴いている。
木々の隙間から漏れる太陽の光が、幻想的な雰囲気を作り出していた。
フィリアの好きな場所。
昔はここにエルザの家があり、幼いフィリアはよく遊びに行ったものだ。
その懐かしさに目を細めながらもフィリアは瞳の魔法を解き、先程買ったばかりの花束を墓石の前にそっと置いた。
そこはとても静かな場所だった。自然の音が聞こえるだけで、他に人工的な音は何も聞こえない。けれど今のフィリアにとってはその静かさが、とても心地よいものに思えた。
エルザには魔法のすべてや料理、裁縫、野宿の方法、薬の作り方など、他にも数えきれないくらい教わった。今こうしてちゃんと生きていけるのもエルザが教えてくれたからだとフィリアは感謝している。
それでも……ありがとう、なんてあの時には言えなかった。
「エルザ、今年も来たけど……。あなたは長い旅に出てるんだっけ」
エルザが亡くなる間際のこと。
エルザはその時すでにベッドに身をゆだねていて、もう余り歩き回らなくなっていたのをフィリアは今でも憶えている。その時、厳しい顔つきでこう言ったのだ。
『フィリア。これから言うことをよーくお聞き。あたしゃ、これから長い長い旅に出るからね。もうあんたは一人で頑張りな。決して付いてくるんじゃないよ』
『エルザ!? 急にどうして』
『うるさい子供は嫌いだよ。そうだねぇ。魔法も完璧とは言い難いけどね。フィリア、あんたは特に薬を作るのが下手だ。次に旅から帰ってくるまでに少しでも上達してないと。……自分がどうなるか、分かってるかい』
『は、はい……』
エルザは本当に口が悪く、フィリアにとって怖いおばあさんだった。でも誰よりも人の痛みを知ってる人だったなと、フィリアは今になって思う。
あの時にかけてくれたエルザの分かりづらい優しさは、いつまでも消えることは無かった。
「エルザ、ごめんなさい。今の私は貴女が一番してほしくないことばかりしている。とか言っても……旅から急に帰って来ないでね。エルザが怒ると怖いから」
フィリアは弱弱しく笑った。今となっては、どの想い出もかけがえのない宝物で。もう一度、なんてものはないんだと思い知らされる。
でも本当に、こんなことばかりしていたら「フィリア、あんたは何してるんだい!」と本気で殴られそうだ。
魔法で人の記憶を消すなんてやってはいけないことだとフィリアも分かっていた。邪道だと分かっていても、どの答えが正解なのかが分からない。
たった一つ分かるのは、今まで来た道を引き返すことは出来ない、それだけだ。
「ガーベラ、綺麗でしょう? エルザ、ピンクのガーベラが好きでよく飾ってたから持って来たの」
フィリアが微笑みそう問いかけた時、ふわぁと辺りに風が吹き抜けた。
木々全体がザワザワと揺れ、いくつもの深緑の葉が舞って、漆黒の長い髪がフィリアの顔にかかる。
「……フィリア!」
誰にも呼ばれる事のないはずの名前、もう聞かないはずの声が……聞こえた。
フィリアは振り向けずにただ黙り込むことしか出来なかった。さあっと血の気が引いていく。
***
後ろでサク、サクと雪を踏み歩いてこちらに来る音が聞こえてきた。
しゃがんでいたフィリアはゆっくりと立ち上がり、止まった。
「フィリア」
もう一度、フィリアという名前を呼ぶ声が聞こえる。その声で誰なのか分かっていても、フィリアは決して振り返ることはしなかった。
どうして、貴方が憶えているの。なんで私の前に現れるの、今はそれしか頭にない。
いっそのこと人違いだと無視しようとも思った。けれども、それでは今の状況を抜け出すことはできない。何か言おうと開いた口が声を発してくれず、クランに背を向けたフィリアはただただ動揺していた。
「……それ以上、近づかないで下さい」
そしてやっとの思いで発したか細い声が、震えていた。
さらさらとした風は二人の間を通り抜けてゆき、沈黙の間を埋める。クランは渋々足を止め、静かに話しだした。
「フィリア、もう逢うことはないと言ったのを憶えているかい?」
クランの視線はしっかりとフィリアを捉え、その紫の目には決意のようなものが垣間見える。
けれどもフィリアの瞳にはその様子が映ることはなかった。かたくなに、振り返ることを拒んだ。
クランはぴくりとも動かないその後ろ姿を見守る。
「……はい」
「それでも逢えた。それに俺は君を忘れてもいない」
「……」
フィリアは何も答えようとはしない。ただ目を軽くふせ、黙っていた。
まさか、最後の魔法をかけ間違えたのだろうかと最後のツメが甘い自分に苛立っていた。
「フィリア」
「勝手にみなさんの記憶を変えたこと、謝ります。……ごめんなさい」
「俺はそのことを責めるつもりはないよ」
「それこそクランさん。表向きの言葉でしょう? 記憶を変えるなんてとんでもない魔女だわ」
フィリアはぎゅっと拳を握る。ふんわりとしたシルエットのワンピースにしわが走った。
「フィリア、俺は記憶を変えられてもいない。それに忘れることも無かった。……俺に君を責める資格なんてないんだよ」
「憶えていたのなら、何故! どうして、探すのですか……!」
「逢いたかった。ただそれだけだ。もう一度君に逢うと決めていてね? 悪いが自分の考えを曲げる気はないんだ」
「……っ」
フィリアは何も言葉が出ずに、ただ立ち尽くしていた。今まではっきりと見えていたはずの墓石が、蒼い瞳の中でゆらゆらと揺れている。
少し俯きがちになりながら、
「クランさん。このことは忘れて、もう帰って下さい」
フィリアは平静を装ってそうクランに告げる。すでに声の震えは止まっていた。
あるべき距離を間違えたくない。間違えてはいけない。フィリアは静かに目線を墓石に戻した。これ以上、関わらないで……と。
「まだ帰れない」
「……帰って」
フィリアは固く握りしめていた拳を解き、すっと純白の杖を出しゆっくりと振り返る。クランとの距離があまりない事に一瞬、目を見開いた。
「私が魔法、間違えたみたいですね?」
フィリアは睨みつけるように蒼い目を細め、杖をぐいっとクランの目の前に突きつける。杖に埋め込まれている蒼のストーンがきらりと輝いた。
「次はもう、ありません」
「……フィリア。今、自分がどんな顔をしてるか分かってる?」
「な……!?」
クランはぐいっとフィリアを引き寄せると抱き締めた。一瞬の出来事。
フィリアは言葉が出ず、視界が一瞬にして奪われる。鼓動がいつにもまして速くなっていた。
「泣きそうな人にそんな事を言われてもね」
泣きそう、その言葉にフィリアは耳を疑った。
「……泣いてません」
かろうじて言葉を発するが、声がかすかに震えていた。そんな自分が嫌になった。どうして平常心でいられないの、と。
「確かに、泣いてはいないね?」
クランは少し笑っている。笑うことで髪に軽く息がかかり、それがまた距離の近さを感じてフィリアは戸惑う。フィリアの視界はぼんやりと、後ろの木々たちを映していた。
「離して下さい!」とフィリアは腕の中で抵抗を試みても、なかなか動けない。
「フィリア。もう止めにしようか」
抱きしめられる力が少し弱まる。それでも何故か、フィリアは動けなかった。先ほどよりも動きやすいはずなのに、心の中はますます動けなくなっていった。
「……何をですか」
「フィリア・オーデンとして生きていかないか」
「そんなこと……」
「無理? 方法はいくらでもあるんだよ?」
「フィリア・オーデンと関わるだけで巻き込んでしまうから。私には……無理です」
フィリアはゆっくりと瞼を閉じた。思い出される過去、そしてフィリア・オーデンに関わる度に傷つく人達。
「人と関わるたびに自分に関する記憶を消し、自分の存在を無くす。一番傷ついているのはフィリア、君だ」
なぜか心の中を見透かされているような気がして、どきりとした。
そんなはずはないのにと、フィリアはもう一度重い瞼を開ける。けれども先程の視界とは違い、木々たちが霞んで見えた。
「……そんなこと」
「もう、自分を責め続ける必要はないんだよ」
「……っ」
何かがフィリアの頬をつたう。それはフィリア自身、信じられない出来事だった。
静かに涙が零れる。どうして泣いているのか分からないのに、次から次へと涙が止まらなかった。
クランは「もう偽ることなんてない。俺は残念ながら、騙されないからね?」と言って笑う。
フィリアは何も言えずに、ただ声をころして泣いていた。
頭もクランに預けっぱなしで、もう抵抗する気力もさえなくなっていた。クランに先程まで突きつけていた純白の杖も、手の中からサラサラと消えていく。
クランはフィリアをぎゅっと抱きしめなおした。フィリアの視界が次々と潤み、男の人の前で柄にもなくほろほろと何泣いてるんだろうと、思った。
もう自分を責めなくていい、偽らなくてもいい、その言葉が心の中に落ちていく。
どれだけの時が過ぎただろうか。クランはずっと黙って、フィリアの頭を撫でていた。ゆっくりと腕の中にいるフィリアをあやすかのように。
その場所は穏やかな風がよく通り抜ける。艶やかな漆黒の髪が遊んでいるかの様に跳ね、その度にクランに捕まえられる。
その静けさの中でクランは、
「……フィリア。ウォルバード家専属の魔法使いにならないか?」
「……お断りします」
「ははっ。言うと思った。でも」
クランはそう言うとフィリアの肩を掴み、目の前に離してからにっこりと笑った。
その笑みはどこかとんでもないことを考えていそうな気がしたが、フィリアはわけが分からずただ黙りこむ。
するとクランはひょいとフィリアを持ち上げ、まるで俵をかつぐかのように持ったのだ。
フィリアの視界は反転し、クランの背中をさまようか、地面を見つめることとなる。
フィリアは一体全体、何が起きたのか訳が分からず、とにかくクランの背中をバシバシと叩いたのだった。
「おろして下さい!」
驚いて涙も引っ込むとはまさにこの事だ。
「却下。もうこうなったら強制送還かなと」
「最低です!」
「ははっ。大丈夫、このまま歩いて帰るなんて事はしないからね? 馬車で帰るから心配はしなくていい」
「そんな心配してませんから……! 強制送還って一体どうゆうつも――」
「馬車でこれからの事はゆーっくりと話し合おう、フィリア」
「話し合いません!」
ふわりと風が吹き、木々から色とりどりの鳥達が飛び立つ。
それはまるで、二人の事を今まで見守っていたかのようだった。