消された記憶
ある客室でのひと時。
翡翠色の絨毯に大きな花瓶があるその部屋の中で、薄い茶色の髪を持つ男性が椅子に腰かけていた。
ぼんやりと眺めているその先には、どこもおかしい所が見当たらない机がある。
だが何か、引っかかっていた。クランはここで分からない何かを見ていた気がしていた。
しかし“それ”が何なのか、はたまた自分に関係があったのか全く思い出せずにいたのだった。
「バロー。ディートは依然として何も話さないんだね?」
その部屋のドアのすぐそばに、黒の燕尾服に身を包んだ執事がいた。執事はそう問うた当主に真面目な顔つきで報告する。
「はい。現在、まるで魂が抜けたかのようになっておりましてディート・イノサトフには記憶がないように思われます。おそらく、他の魔法使いの影響かと」
「あの、ロイドとか言う魔法使いの魔法だろう。去り際に魔法をかけたのかも知れない」
そうクランは言って考え込んでしまった。今クランの中にある最近の記憶は、ディートは無事に捕まったことそれだけだった。
なんとなくは記憶にあるが、その記憶の中では自分がディートを捕まえているのだ。クランはそれを疑問に感じていた。
バローはクランに紅茶を渡し、それを目の前の机に置く。
「クラン様、もう本家へとご出発なされますか?」
「それも考えてはいる。バロー、王は何か言っていた?」
クランは温かい紅茶に口をつける。爽やかな柑橘系の香りが広がった。
「今回の件はクラン様のおかげで犯人が捕まったとの事で。夜会への出席は好きにしてくれていいと、おっしゃっておられました」
「……そうだったかな。あまり実感がないんだけどね」
「おや。クラン様がお忘れとは珍しいですね。アリシア様暗殺を阻止されたではありませんか」
「それは僕が、阻止をしたと」
「はい。左様でございます」
バローは誇らしげにそう言うが、クランはまた何かを考え込んでいた。
事件については全て記憶に残っているはずだ。なのに自分はおかしいと感じている、その感覚に違和感を覚えていた。
また何かが足りないとも思う。ここ数日は退屈した覚えがなく、いつもの平凡な日常が少し変わった気さえしていたのだ。なのに今はどうだろうか。クランはとても退屈だと感じている。
ここまで戻って来たからにはと、様々な場所への挨拶回りや夜会への誘いを断るだけで、昨日という日は過ぎて行った。そのせいかもしれないと、クランはぼんやりと思っていた。
「バロー、午後からの予定は」
「はい。本家にお戻りになられますのなら、直ちに馬車をご用意出来ますが。そのようでないのでしたら、本家から仕事が届いております」
クランは沈黙の末。空を見上げ何気なく、
「そうだな……。久々に夜会にでも出席しようか」
「おや。これは珍しいですね。どなたか気になる令嬢でもおられましたか」
バローはほぉっほぉっと笑っていた。クランは眉をひそめる。
「バローからかうな。なんとなくだ、なんとなく。このままこの土地を離れてはいけない気がしてならない」
「本当に今日のクラン様はどこかおかしいですね。熱でもおありで?」
「バロー、おかしいとは何だ。熱はない。……熱?」
クランの中で何かが引っ掛かった。
しかしそれが一体何なのかを考えても考えても分からない事に嫌気がさし、気分転換に窓の外を見る。外は綺麗な雲一つない青空だった。
空の色でも海の色でもない、思わず見とれてしまう透き通るような青色。クランはそんな蒼色を知っていたはず。でもそれは何処で……と必死に思い出そうと頭を悩ませていた。
「クラン様。この老いぼれにも今回のクラン様の活躍を話して下さいませ」
そんなバローの問いかけにクランはハッとした。あまりにも考えすぎだと苦笑いを浮かべる。
「バロー。俺は活躍なんてしていないよ」
「またまた、ご謙遜をなさらずとも。バローはクラン様の活躍が、実の孫の活躍のように嬉しいのです」
「それは……凄い期待だな」
「はい。また気が向くときがあれば、話して下さいまし」
「ああ」
バローは手に今日の予定表の紙を持ちながらも、折りたたむ。そして飲み終えたティーカップを下げると、当主を気遣いこう言うのだった。
「今回もクラン様は真実の瞳を使われたのでしょう。お疲れでしょうから、本日はゆっくりとお休み下さい。それに夜会に出席なさるのなら、今夜になりますよ」
クランはバローの言葉である事をひらめき、顔色に一気に覇気が戻る。
「真実の瞳。そうかそれだ。バロー、本当にいつも助かるよ」
「お役に立てて光栄にございます」
バローは静かに微笑んで、部屋を後にする。考え込んでいた様子から、何か吹っ切れたような主人に喜ばしく思っているのだった。
クランは直ぐさま、真実の瞳に切り替える。真実の瞳、それは魔法使いの本質を見出せる体質のこと。切り替えるといってもその姿形は変わらず、見たままでは何の変化かも分からない。
けれども確かにクランの視界は変化しているのだった。クランは静かに真実の瞳を通して、昨日の事を一つ一つ思い出してゆく。
目の前でふわりと揺れる漆黒の長い髪に、蒼白い魔方陣に入っているのはディート・イノサトフ。
魔法がこんなにも美しいものだと知ったのは初めてだった。目が離せなくなるくらいに人を魅了させるような美しさを持った蒼の瞳をもつ少女……。
クランは勢いよく椅子から立ち上がる。
「……フィリア」
クランは掛けてあったコートを掴むと、直ぐ様屋敷を後にした。
***
「大至急、薬屋ウィンまで頼む」
クランは馬車に乗り込むと手短にそう言う。間に合ってくれ、ただその一心だった。
店にはすぐに着き、慌てて駆け寄ろうとすると、店の前にもう一つ馬車が止まっていた。その馬車はデュルベール家の紋章で。
淡い黄色のドレスを身にまとった貴婦人が店のドアをトントンと叩き、軽く窓を覗き込んだりしている。それは不審者に見えなくもないが、薬屋に用事があるようだった。
「フィー? いるのでしょう?」
そんな声がクランの耳に入り、クランも店の周りをうろうろしている女性の元へと向かう。
「失礼。この店に用がおありで?」
「まぁ……! これはこれはクラン・ウォルバード様」
フィリアの店に来ていたのは、フィリアの姉。ルース・デュルベールだった。クランの姿を見て目を真ん丸にして驚いている。
「珍しい場所でお会いしますわね」
「貴女はデュルベール家の……」
「ルース・デュルベールと申します。ウォルバード様こそ、このお店に用事がおありでして?」
「僕は店主に用があるもので。……それでは」
クランは話をしている暇がないと思った。フィリアが店に居るのか、居ないのか。
今はそれを一刻も早く確認したかった。居なければいないで早く手を打たなければならない。
「お待ちください。ウォルバード様、おそらくフィーは。こほん。……いいえ、店主はもうこの街を去ったような気がします」
クランはルースその言葉を聞きまさか、と店を見る。何のプレートも掛かっていないドアに真っ暗な店内。まるで最初から誰も住んで居なかったかのようだった。
「デュルベール嬢、失礼ですが貴女とフィリアのご関係は……」
あるフレーズを聞いてルースは目を見開いた。
まさかクランがフィリアの名前を知っていたなんて夢にも思わなかったのだ。
「少し、色々と突然の事で驚いておりまして……。ウォルバード様、失礼は承知で先に質問よろしいですか?」
「どうぞ」
「……あの子は“フィリア”と、名乗ったのでしょうか」
「はい」
クランは少々違う部分があれど、いいかと返事をする。実際、フィリアから名前を聞いたことには間違いないと吹っ切れていた。
それよりも今のクランには、ルースがフィリアと言う名前を知っていた事に一体どんな関係なのかと、疑問で他ならない。
「……そう、でしたか」
ルースはため息をつく。今のルースは貴女は一体どうして知らない間に第二王子に名前を教えているのよ、とフィリアを問い詰めたかった。
けれどもそれが叶わない今、ルースは一度帰ろうと思う。
今日フィリアが行く場所にはなんとなく察しがついており、後で会いに行こうかなどと考えているぐらいだったのだ。
「ウォルバード様、勝手をさせて頂きますが……。フィリアもいないようですので、わたくしはこれで失礼させて頂きます」
ルースがそう言って馬車に乗り込もうとしたその時、クランが呼び止めた。
「待って下さい。フィリアの行きそうな場所に心当たりは……」
ルースは呼び止められ、振り返る。
まさかフィリアの居場所を聞かれるとは思ってもみないことだった。
「……ウォルバード様。まさかとは思いますが、今からフィリアを追いかけるおつもりですか?」
「はい」
今のクランには迷いが無く、何としてでも逢うその一心だった。ルースはそんなクランを見て、胸が痛んだが残念そうに目を伏せる。
「あの子は、いつも一ヵ所にはとどまっていませんわ」
「それでも、今行かないと意味がない」
ルースは顎に軽く手を添えて、考える。馬車に乗ろうとしていた歩みを止めてそっと降りた。淡い黄色のドレスの裾が舞い、その一連の動きは実に優雅なものだった。
「……分かりましたわ。お時間は取らせません。わたくしが思うフィリアが向かいそうな所について、お話しましょう。ともかく! 今からフィリアを追いかけるとなると、時間がありませんわ。どうぞ、馬車にお乗り下さいな」
「助かります」
こうしてクランはルースの馬車に乗り込む事となったのだった。
***
二人を乗せた馬車はもうすでに商店で賑わう街、ランシュリ街を抜け知らない土地へと入っていた。
その馬車のスピードは全速力である。通り過ぎると同時に、小さな風も巻き起こしていた。
「ウォルバード様。本当に、フィリアに逢いに行かれますか?」
今からクランを連れていくということは、ルース自身にもそれなりの覚悟がいることだったのだ。
察しのいいフィリアだもの、きっと後で怒られるわねとルースは思っていた。でも怒られたその時には勝手にクランに名前を言っていた事を、からかってやろうとも考えている。
「会いに行くとフィリアには嫌われそうですが、僕はしつこい男らしいですからね」
「まぁフィリアったら、ウォルバード様にそのような事を。……でも。ふふっ。あの子らしいですわ」
ルースはフィリアを思い出してふんわりと笑う。もしこれが、あの子の何かが変わるきっかけとなるのなら。もう話しても良いのではないかと思えた。
それに何よりもフィリアを追いかける人が来るなんて、少し面白い。
「今から行きます場所は、ある人が眠っておられまして」
「ある人、とは」
「あの方はあの子の……。フィリアのとても大切な人でした。名前はエルザと名乗られてまして、町の外れで一人暮らしをされていたおばあさんですの」
ルースは紅茶をクランに薦め、自分も一口飲んだ。二人を乗せた馬車はさらに知らない土地へと入って行く。
「今日はその方の命日。フィリアは必ず、あの場所に来ますわ」
「そのエルザさんとはフィリアの祖母かなにかに?」
「赤の他人です。でも……そうですわね。もしかすると、血の繋がりがある者より強い繋がりがあったのかもしれませんね」
ルースは控え目に微笑み、少しだけ黙り込んでしまう。あの子はこの世でたった一人の妹なのに、自分は何もしてあげられなかった。その悔しさを今でも思い出すと腹が立つのだ。
あの子がどんな辛い状況にいたって、その状況をがらりと変えることすら出来なかった。ルースは今でも、今のフィリアを見て手放しに喜べないのだった。
「……ごめんなさい。話を元に戻しますわ。ウォルバード様、フィリアが魔法使いである事をご存知ですか?」
「はい」
クランは少しだけ、魔法を使っているフィリアを思い出す。あの時は本当に驚いたものだ。
「あの子に魔法を教えたのはエルザさんなのですわ。言ってみれば師匠、のような方でしょうか。けれど、こればかりはフィリアに聞いてみないと分かりかねますわね」
「フィリアに魔法を教えたとは凄い方だ。デュルベール嬢。ぜひフィリアにはウォルバード家専属魔法使いになって貰いたいと思っています」
「まぁ……! それはそれは」
ルースは驚きながらも喜んでいた。けれども次のクランの一言でヒヤリとさせられるのだった。
「デュルベール嬢……フィリアとは、血縁関係にあたりますよね?」
ルースの心臓がどきりと跳ねた。たった数分で、どうしてここまで分かるのかと思わず自分の耳を疑う。何か言葉のミスがあったのかしらとルースは内心パニック状態で、もう今にも馬車を飛び降りたい気分だった。
「違いますわ。ウォルバード様。わたくしとフィリアは幼い時からの友人ですのよ?」
そして頭の中で必死にひねり出した答えがこれだ。ルースはにっこりと何の不自然もない笑顔をクランに向ける。
フィリアの血縁関係をルースからばらしてはいけない。それが昔からの両親との約束で。そしてそれによって……結局は自分自身を守ることになるのは皮肉なものだと感じていた。
「それは失礼しました。ご友人でしたか。では一つご意見を。専属についてどう思われますか?」
そう言われたクランは特に深追いをする事は無く、しれっと会話の内容を変える。ルースはふぅーと心の中で汗を拭ったのだった。
「ウォルバード様、フィリアが専属になったとして。わたくしもたまにはフィリアに会いに行ってもよろしくて?」
「勿論、どうぞ」
クランは愛想よく人の良い笑みをルースに向ける。
ルースは嬉しそうにパンと手を叩き、
「賛成ですわ! 今までずっと、ずーっとわたくしはフィリアがふらふらとしていて心配でしたの。けれどウォルバード様? あの子が到底、良い返事をするとは思えませんわよ?」
「それでも僕は諦めるつもりはありません。今は逢って説得するぐらいしか考えてませんが」
クランは少し、苦笑いを浮かべる。ルースはさっきの笑みよりもこちらの表情の方が、クラン自身の本質では無いかしらとふと思った。
「ふふふ。では、わたくしも全力で応援しますわね」
「お願いします」
それから馬車の中のクランはずっと黙ったままで、特にルースも話す事が無かった。
ルースはそんな沈黙の中で、ちらりと窓の外を見た。そこは緑の自然が豊かで、大きな時計台がある見覚えのある景色。
すごく懐かしくて、そういえば最近オーデン家にも帰っていなかった事を思い出す。
「ウォルバード様、もう少しで着きますわ」
「思ってたよりも早い。助かりました」
「ウォルバード様、ここからが本番でしてよ? あの子は強敵ですわ」
クランはその言葉を聞いて渋い表情をする。でもすぐに笑った。大丈夫です、と。
ルースはそんなクランを見て穏やかに微笑む。
こうして二人を乗せた馬車は着実に、フィリアの元へと近づいていたのだった。