始まりの合図は催眠魔法
ここはとある屋敷の客室。その部屋にあるベッドの掛け布団から、漆黒の長い髪がまるで猫を誘っているかのようにひらひらと動いていた。それは布団の中に潜り込んでいるフィリアが手足を動かしたという合図だった。
そして布団の中でぱちりと目を開け、
「……私は一体……?」
フィリアはまだ寝起きの頭を必死に働かせる。
突然、勢いよく起き上がった。その反動で少女の長い髪が軽やかに跳ねる。ここはどこ……とフィリアは視線をさ迷わせた。見覚えの無い部屋に、見覚えの無いベッド。最後の記憶は自分の部屋で眠ったはずなのに、とフィリアは頭をかかえこむ。
「そういえば顔も見られたんだっけ……」
全くもって良くないことまで思い出した。けれどもひとまず顔を見られたことを置いて、冷静に今の自分の状況で分かることを整理しよう、そう思ったのだった。
分かる事、それは限られてくる。だけど今は単純に時刻が知りたかった。この部屋の何処にも時計が無く、勿論フィリアも時計を持って来ていなかったのだ。
フィリアはベッドから窓の方に駆け寄り、閉まっていた厚手のカーテンを開ける。空を見上げると薄暗く、ぶ厚い灰色の雲に覆われていた。外は猛吹雪で真っ白だ。空だけを見る限りでは薄暗くはなってはいるものの、時刻的な暗さではない。今は夕方だと思った。
フィリアが引き続き部屋の中をきょろきょろと観察していると、一つだけ見覚えのあるものがあった。それは花の生けていない深紅の花瓶。その隣の小ぶりの花瓶には大輪の薔薇が生けてあるのになぜか、深紅の花瓶にだけは何も生けられてなかった。
それはフィリアがここの屋敷図を書く時に気になった花瓶だったのだ。どこか不自然で今も記憶に残っている。そうかとひらめき、ここは王様の屋敷だと確信した。
――パチン
指を鳴らす音が響くと、ベッドがまるで今まで誰も使っていなかったかのようにきっちりと整えられる。
「さて。これからどうするか、よね……」
フィリアは先程よりも楽になった自分の体に安堵し、何気なく服を見た。服装は特に変わっていなかった。フィリアはそのことにほっと胸を撫で下ろし、服のポケットを探る。ポケット中には家で入れておいた錠剤の薬が入っていた。
それをしばらく見つめた後、フィリアは無言で自分の額に手を当てる。どうやらその表情からして、熱は下がっているようだった。
大丈夫、これくらいなら動ける。とフィリアはぎゅっと拳を握り、よしと意気込む。何としてでも今日の仕事だけは、絶対に逃すわけにはいかない。
――コンコン
窓の外でごうごうと雪がふぶいている音にも負けず、ドアのノックの音が部屋中に響いた。フィリアはビクッと肩を小さく上下に揺らす。
「……はい」
「あらルアさん、もうお目覚めなのねぇ」
それはフィリアの聞き覚えのない声だった。その声の主は気品の漂うおばあさんで、思わずこちらまでふんわりさせられてしまいそうな程、穏やかな雰囲気を持った女性だった。
「あらあら、ルアさん。ちゃんとベッドにお戻り下さいなぁ。熱があるのですからね?」
その人はフィリアに優しく微笑みかける。フィリアはぎこちなく笑みを返した。
「あ、ありがとうございます」
「まぁ、自己紹介がまだでしたね。 わたしの事はローラ、と呼んで下さいなぁ。今までルアさんの部屋に出入りしたのはわたしだけだから、安心してね」
そう言ってローラは茶目っ気たっぷりに微笑む。
「ローラさん、すみません。ありがとうございました。……えっと、どうして私はここに居るのでしょうか?」
「そうねぇ。クラン様がここまでお連れになったのよぉ。ルアさんは凄く高い熱が出ててね」
「そうでしたか……」
「ルアさん、もうベッドから出ても大丈夫なの? もう少し眠っていてもいいのよぉ~。あ、そうそう。のど乾いたでしょう。お水はどうかしら?」
「あ、いただきます」
フィリアは水を飲むのとついでに、さっきの解熱剤も飲んでおいた。
「あぁ、そうだわ。ルアさん、ちょっと待っててねぇ。直ぐに戻りますからね」
そう言ってローラは慌ただしく部屋を出ていく。一方のフィリアも誰もいない部屋の中で、熊のようにあっちへうろうろ、こっちへうろうろとかなり焦っていた。無論、ローラとは違う意味で、だったが……。
昨晩、フィリアはエクスから敵は夜に動き出すと聞いていた。今が夕方だったら一度家に戻ってちゃんと準備をしてから、ここに来たほうがいいのかもしれない。でも、もし間に合わなかったらどうしよう。フィリアはそれをずっと迷っているのだった。
「ルア、入るよ」
「へ?」
考え事をしていたせいかフィリアはなんとも間抜けな声が出てしまう。慌ててドアの方へと振り返ると、その部屋に入って来たのは薄茶色の髪を持った青年、クラン・ウォルバードだった。
フィリアははっと息をのむ。ドアがぱたんと音を立てて閉じた時、いっそのこと出ていってしまいたいと思った。
「ルア、怒ってくれていい」
「えっと。怒る、私がですか? ……何故です?」
「もしかして覚えてない?」
「いえ、覚えてますよ? 私は熱が出ていて、それを見たクランさんがここまで連れて来てくださったんでしょう? 少しだけローラさんからも聞きました」
「そうだよ。だが……」
フィリアは視線を右下へとずらし、
「貴方が考えた目の前の人を楽にしてあげられる方法、それがここに連れてくる事だった。ただそれだけの事です。私はむしろクランさんに感謝はしても、怒る道理はないと思います」
「ルア」
フィリアはいつの間にか目の前にいたクランに両肩を掴まれる。この素早い動きにフィリアはクランの目を見据え、ただただ驚くばかり。
「……なんですか?」
静かな部屋の中に響く落ち着いた、人を突き放すかような声色。フィリアは自分でも驚くような程冷たい言い方に、クランと目を合わせる事が出来なくなっていた。思わず俯きがちになってしまう。そんなフィリアにクランはきっぱりとこう告げたのだった。
「嘘を、付いているね」
「何の、です?」
不意に見上げるとクランの紫の瞳がこちらに向けられていた。
その視線に耐えられなくなり、
「クランさんの気のせいですよ」
そう言ってフィリアはにこりと笑った。
嘘をついているか、ついていないか、なんて聞かれたらフィリアは黙ってうなずくだろう。嘘を付いていますと。けれどもその時の彼女の表情はきっと、辛そうに目を伏せる。今ここにいる事も、自分の名前も存在も。全部全部……嘘のようなものだと知っているから。
今は偽りでしか生きていけないと思う彼女の笑顔は少し寂しい。
「ところで、クランさん。私はもう大丈夫なので、家に戻ってもいいですか?」
「それは勿論と言いたいところだけどね、外を見たかい? 酷い天気だ」
「……でも、雪なら歩いて帰るので大丈夫です」
「ルア、そもそも何でここに来たのか分かってる? 熱があったからだよ。それに今も完全に治ったわけじゃない」
「……」
最もなことを言われ、確かに……とフィリアは黙り込んだ。
そしてクランはそれがさも当たり前のように、
「今夜はここに泊まっていけばいい。王にも伝えてある」
「え、えっとさすがにそれは……」
フィリアは戸惑いを隠せなかった。
妃が狙われているというのに、呑気に泊まってる場合じゃない。フィリアはどうやって帰ろうかと考えるが、すぐに考えが変わった。せっかく屋敷に入れたのだからこれは使えるのではと。
するとその時だった。
――ガシャン!
部屋にある深紅の花瓶が、何の振動もないのに今まで置いてあった台から落ち、派手に音をたてて粉々に砕け散った。フィリアは慌てて駆け寄る。高そうな花瓶なのに……。と粉々になった破片を拾おうとして、手を止めた。
急にくらりと視界が揺れたのだ。フィリアがこめかみを押さえながらも振り向くと、クランも同じように床に片膝をついていた。どうやらこれは風邪のせいではないらしい。
「ルア、これはま――」
クランは最後まで言葉を発することが出来ずにゆっくりと倒れていく。フィリアがなんとかして駆け寄ろうにも、今度は酷い眠気に襲われた。足元がおぼつかない。
これは魔法だ、そう直感が訴えている。フィリアはこの時初めて分かった。クランが言いたかったのは魔法、だったのだと……。なんとか最後の力を振り絞って、フィリアは魔法を解くために指を鳴らした。
――パチン
「……っ」
フィリアはがくっと床に両膝を付く。額を手で押さえ、先程よりも強い眠気に襲われていた。それはフィリアの解の魔法が全く利いていないことを示していた。
今にも深い眠りに陥りそうになりながらも一言、術を唱えるとフィリアの手には純白の杖が握られていた。それを使い、空に短い術式を描く。術式が蒼白く光ると、フィリアの周りを取り囲んだのだった。
「……はぁはぁ」
少し呼吸が荒い。フィリアはゆっくりと深呼吸を繰り返し、すくっと立ち上がった。その表情は一切、睡魔に襲われている様には見えなかった。
先程まで明るかった部屋の中のすべての灯りが、完全に消えている。窓の外は相変わらず吹雪で、時々渦を巻いたような強風が吹きつける。すると窓がぴしっと音を立てるのだ。フィリアはそれにびくりと反応しながらも、暗闇で目を凝らしながら蝋燭を探した。
「あった」
太めの蝋燭が床に転がっているのを見つけると、火を灯す。フィリアの周りだけぼんやりとオレンジ色の光に包まれた。
フィリアはすぐ後ろで眠っているクランに目を向ける。黙って見つめた後、そのままにしておくのが見ていられなくなってきたのか、フィリアはクランを少しだけずるずると引きずり、ベッドにもたれかけるようにして座らせた。
そして部屋で履いていたルームシューズから、フィリアが元々履いてきていた長めのブーツに素早く履き替える。そしてコートも羽織った。
急いで妃の所へ行こうとドアを開けようとした時。ドアが開かない。ガチャガチャと何度かドアノブを回すが、ビクともしなかった。これも魔法かとフィリアはうんざりとした表情を浮かべている。
「……う」
「!」
どんな些細な声にも敏感に、フィリアは恐る恐る振り返った。声の聞こえた方を見るとクランがいる。もしかして、自力で魔法を……? まさか。そんなはずはと疑いながらもフィリアはじっとクランを注視していた。
「…………」
それからのクランはぴくりとも動かず、声を発することさえ無かった。ただ眠っているだけ。フィリアはもう一度ドアと対面し、ドアノブに手をかけようとして――止めた。
今。扉を開けてもし、敵が妃の部屋にいなかったとしたら、フィリアには探しようがない。それにもう一つ厄介なことがあった。敵の今の容姿も年齢も分からないままなのだ。
仮に分かっていたとしても、妃の部屋までどうやって行こうかも考えていない。やっぱり魔法で……。と思ってもこれ以上魔法を使うとこっちのことがばれてしまうのだった。
これだけの大きな催眠魔法が使えると言う事は、向こうもそれなりの魔法使い。敵がどのタイミングで魔法使ったのかは分からなくとも、こちらからすれば妃が危険だと知らされているようなものだ。
魔法を使わずに部屋まで向かう方法は……。このまま歩いて行くより早く着くためには、何か……。と考え込むフィリアはふと、近くで眠りこんでいるクランを見てある事を思い出した。
『クランさん。これだけ大きなお屋敷だと何かあった時に、逃げ遅れませんか?』
『ああ、それなら大丈夫だよ。どんな屋敷にも抜け道はあるものだからね』
『抜け道……。屋敷って凄いですね』
フィリアははっと顔あげる。そして眠り込んでいるじっとクランを見つめた。
この際、もうなりふり構っていられない。今のこの状況で、一番抜け道を知っている可能性が高いのは実の弟である……。
「クランさん、起きれますか?」
「……」
やはりクランは何も答えず、催眠魔法によってぐっすりと眠っていた。フィリアは指を組み、魔法を解こうとするがためらう。今ここでクランを起こすと言う事は、完全にフィリアの正体を見せる事になる。
「……仕方ない」
それでもフィリアが一度沈んでいた顔をあげた時にはもう、しっかりとその蒼い瞳には色が戻っていたのだった。
フィリアの人差し指に蒼白い光が集まり、そしてその光をフィリアはそっとクランの額に当てていく。
「……もう、目が覚めますよ」
フィリアは優しくそうクランに話しかける。閉じていた瞼がゆっくりと開かれ、紫の瞳がほっとしているフィリアを映し出していた。
「目が覚めましたか?」
「……ルア、魔法は」
「クランさん、細かい説明は後です。とにかく今は私に協力して下さい。お願いします。お妃様の命が狙われているのです」
「アリシア様が? ……そうか、分かった。急いでアリシア様の部屋に向かおう。その間に、君の事を話してくれるね?」
クランの対応の早さに驚く。思わず言ってみたのはいいけれど、フィリア自身クランがこんなに素早く協力してくれるなんて思ってもみないことだったのだ。
「……はい。お話ししましょう」
深く頷いたその瞬間、フィリアはドアの魔法を跡形もなく消滅させた。
「クランさん、これ以上私の魔法を使うと敵に居場所がばれてしまいます。この屋敷の抜け道を使えませんか?」
「君は……。いや、なんでもない。そうだね、抜け道の方が早い。ルア君はこの屋敷の構造を」
「大丈夫です。全て把握してます」
「助かる」
そう言って先を歩くクランのについていっている間に、フィリアの蒼の瞳が緑へと変化していた。もうあの先程までの蒼い瞳は影も形もない、実に色鮮やかな緑色。
すべての灯りが消えた真っ暗な屋敷を二人は進んで行く。
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