第三話 私に触れられるのは、あなたしかいないの
白い神殿の奥、祭壇の裏にある私室で、リアナ・ルミエールは静かに目を閉じていた。
今日も、笑った。
穏やかな表情で民の祈りを受け、神の言葉を代弁した。
幼子を抱き、病人に手を差し伸べ、涙する人々を静かに慰めた。
──でも。
そのたびに、胸の奥が、どこか冷えていくのを感じていた。
(私は、神に選ばれた聖女。だから、感情なんていらない)
それが正しいことだと信じていた。
微笑むこと、祈ること、優しさを与えること。それが、リアナに与えられた“役割”。
けれど、ある光景が頭から離れなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
あの日、広場で行われた処刑。
盗みを働いた若者が、見せしめとして断罪されるその瞬間──
「待ってください!」
人混みをかき分け、たった一人で声を上げた男がいた。
ボロボロの服。血と泥に汚れた姿。
けれどその目だけは、まっすぐだった。
「彼を、助けてください……あの人は、死ぬべきじゃない」
騎士たちに制止されながらも、その手は──確かに、処刑台の上の若者に向けられていた。
その瞬間。
リアナの胸の奥で、何かが静かに震えた。
……その手に、触れてみたい。
あの温もりに、包まれてみたい。
◇ ◇ ◇ ◇
そして今──
その男が、神殿の片隅で怪我を癒していると知った。
「ユウト、というのですね……」
リアナは付き人に命じ、そっと彼のもとを訪ねた。
礼拝堂の奥、誰も使っていない部屋。
そこで、彼は小さなベッドに腰掛けていた。
「あ、えっと……リアナ様、でしたよね?」
「ええ。突然ごめんなさい。でも……あなたに、お礼を言いたくて」
「お礼……?」
「あの時、処刑されかけていた少年を……助けようとしてくれたでしょう?」
「……うん。止められたけど、あれは、やっちゃいけないと思って」
ユウトの声は、静かで、優しかった。
まるで、誰かを責めるためではなく、ただ心から“当たり前”だと思っているような口ぶりだった。
(この人……本当に、優しい)
リアナはふと、その手に視線を落とした。
あの日と同じ──まっすぐで、まるで光に包まれているかのような手。
「……ねえ。お願いがあるの」
リアナは、そっと自分の手を差し出した。
「私にも、触れてもらえますか?」
「え……?」
「私も、少し……疲れているのかもしれません。あなたに触れられたら、少し楽になれる気がして」
それは、聖女の頼みとしてはあまりに個人的で、あまりに人間的だった。
けれどユウトは、少し戸惑った後、そっとその手を包んだ。
その瞬間、リアナの目に、涙が浮かんだ。
「……あ」
温かい。
熱いほどの体温が、指先から流れ込んでくる。
ずっと冷たかった。
何をしても、誰に祈っても、消えなかった孤独が──この人の手だけで、溶けていく。
「だめ、こんなの……ずるい……」
リアナは、すがるように彼の手に縋った。
まるで、溺れかけた人間が浮き輪を手放せないように。
「……他の人にも、こうやって触れてるの?」
「えっ……? あ、いや、今はアリシアさんだけ、ですけど……」
その名前を聞いた瞬間、リアナの表情が少しだけ歪んだ。
「ふぅん……そう。アリシアさん、ね」
言葉には出さない。
でもその心には、確かに小さな火が灯った。
──この人の手は、私のもの。
そうじゃなきゃ、きっと、また寒くなってしまうから。
◇ ◇ ◇ ◇
その夜。
リアナは、自室のベッドの中で目を閉じながら、そっと両手を重ねた。
その手に、まだ彼のぬくもりが残っている気がして。
「ねえ……もう一度、触れてくれる……?」
誰もいない部屋の中で、独り言のように呟いたその声は、
甘く、そして少しだけ、ひどく寂しかった。




