第ニ挿話 その3 輝きながら・・
今日もよろしくお願いします。
「はい! お釣りは要らないわ」
「ありがとうございます」
昭和62年9月初旬、残暑と言うには厳しすぎる太陽がじりじり照りつける広い車回しに停まったタクシーを降りたのは年配の女性。
どうやら急いでいるらしく、年齢を感じさせない機敏な動作でツカツカと玄関前の階段に歩み寄り、一気に5段を上って開け放たれた扉から建物に消えた。
*
「どうぞ」
「失礼します」
ノックへの返事に姿を見せた彼女は、ベッドに身を起こして微笑む初老の男性を入り口に立ったままでじいっと見詰め、やがてほっと緊張が解れた様子でベッドへ歩み寄った。
「心配させた様だね」
「はい。慌てて飛び出したので作りかけの昼食が台無しですわ」
「あははぁ、そうか。それは済まなかった」
「いいぇ、お元気そうで何よりです」
「あぁ、薬が効いてね。だが僕も歳だな。どうやらドクターストップが掛かりそうだよ」
「まさか」
「あぁ、そのまさかだ」
隔週休みの土曜日。
ゆっくりと家の片付けものを済ませてそろそろ昼ごはんでもと料理を始めたところに電話が鳴った。
滅多に鳴る事がない黒電話のけたたましいベルの音に嫌な予感を感じて受話器を上げた季恵に届いたのは社長緊急入院の一報だった。
娘はどちらも遠方に嫁いでいて、一昨年に奥さんを急性白血病で亡くした社長はそれ以来独り暮らしが続いている。
木金2日間の製紙会社への出張を終えて戻り、一夜明けて急に体調に異変を感じて自分で救急車を呼んだと言う。
季恵に電話をくれたのも病院の事務員で、容体が落ち着いて身寄りを呼ぶように言われた時に季恵の連絡先を告げたらしい。
その辺りの事情を知ったのは今の話で、取り敢えずの無事と病院名と部屋番号だけを聴いて飛び出して来たのだ。
「全く徴候は感じていなかったんだが、心臓がかなり悪くなっているみたいでね。投薬と安静を守れば直ぐにどうこうと言う事はないそうだが、とにかくストレスは厳禁らしい」
「それでは仕事も制限して」
「いや。命には代えられんし、年も年だからあっさりと引退しようと思うんだ」
「そうですか。確かに仕事量はともかくストレスを制限するのは難しいですが」
「あぁ、この春75になった事だし、会長とか相談役とかも考えずに完全に身を引く積りだ。そこでだ。気になるのは君のことだ」
「はい。それなら私も引退いたしますわ」
「えらくあっさりとした物だね。まぁそうだろうとは思っていたが。君も今月で60だったな」
「はい、役員になっていなければ定年ですから、ちょうどいい区切りかと」
「本当に良いのか? 何なら社長になっても良いんだぞ」
「止してください。それこそ会長で居て下さるならともかく、孤立無援で頑張る程の義理は無い筈ですわ」
「そうだな。社長なんてなりたい奴にやらせればいい。僕も君がいてくれたからここまでやって来れただけで、そうでなけりゃとっくに辞めてるよ。それじゃ僕は出来るだけ長期入院するとして、僕が社長の間に君が退職すればいい。それなら退職金とか全部僕が裁量できるからね。僕はその後健康上の理由で電撃引退するとしよう」
「お体の方はそれで大丈夫ですか?」
「仕事は専務たちに振ってしまえばいいし、君や自分の引退の事くらいは考えても大丈夫だ。何せ病院に居るんだからな」
「まぁ! そんな風に言いながら仕事をするじゃないでしょうね。ちゃんと元気に退院して、ずっと元気でいてくれないと駄目ですからね」
「あぁ、分かってるよ」
*
元より社長の引退に合わせて退職する積りではいたが、社長が決めてから半年なり一年の期間があると思っていた。
しかし健康上の理由なら仕方が無いし、時間があれば良いというものでもない。
季恵は休み明けの月曜日に早速人事部長の元を訪れ、辞表を提出した。
役員なので組合や労働基準局どうこうの問題もなく、人事部から入院中の社長へ連絡が入り、社長決裁で9月末での退職が決定した。
兼任だった経理部長は退職前に解任となって、これも社長決裁で江西が部長に昇進、中馬課長が次長待遇となる人事が発令された。
社長に任されていた投資案件は黒字のまま今月中に回収を完了する。
こちらは役員としての個人業務だったので引継ぎなどしないし、もし責任を持って出来る役員が居るなら勝手にすればいい。
ただ輔佐に付いていた若手男性社員の処遇は社長に頼んであって、おそらく異動先での昇格人事となる筈だ。
タネマス製油の外部取締役も退任するつもりだったが、事情を聞いた社長たちから全力で慰留されてしまった。
何せ今でも大株主なのが退職後は圧倒的な保有率になり、季恵一人で全て決定可能な状態に成ってしまう。
外部取締役の役員報酬の手取り分を全て今の会社に預託してあり、それが会社保有株の評価金額を越えている。
その株は退職時に預託と交換で季恵名義に書き換えられる契約で、今の持ち株を合わせれば60%を越える個人大株主になるのだ。
社長を含めて今の役員たちの大半は旧タネマスと取引していた零細製油会社の関係者で、60近い季恵を未だに『お嬢様』と呼んでいる。
正直な話、大手の▢清や豊△に大差を付けられた3番手グループのタネマス製油は独自路線を歩まざるを得ない立場で、これまでも折々に季恵の意見を取り入れて地歩を築いて来た。
元零細メーカーの集合体としての製油部門の特性を活かして原材料から加工すべてにおいて特別な拘りを全面に打ち出した少量生産の超高品質ラインナップをブランドとして定着させてタネマスを高級食用油メーカーとして広く印象付けたのも彼女の戦略だったし、海外の高級メーカーからの輸入やライセンス生産を一早く提唱したのも彼女だった。
管理システム導入に関しても季恵の影響は否めないし、設備投資などの計画の精査に関しては現場を知らない銀行員など及びもつかない程だ。
『社長になる』と言われれば諸手を上げて迎える状況で、退任など有り得ない。
結局落としどころは非常勤の【相談役】となったが、おそらく今の役員達が居る限り『お嬢様』呼ばわりは続くのだろう。
*
「引っ越そうかと思って」
「今のマンションは売るんですか?」
「そうね、引っ越し先をどこにするか次第かな」
「どこにするつもりですか」
「杉並と言いたいけど、昔と違って都内も随分狭くなったからね。一軒家だとちょっと払えないわね」
「えぇぇ! 今から一軒家を?」
「うん、ちょっと考えてる事があって」
「私達も一応一軒家ですけど、あの頃よりだいぶ上がりましたよ」
「そうね。三鷹辺りならまだ貯金と退職金で手が届くかしら」
「そうですね。吉祥寺はもう杉並と大して変わらないけど三鷹ならまだ少し安いでしょうね」
送別会でもないが、退職前に江西・中馬が食事会を開いてくれた。
取り留めない想い出話が一段落して話題は今後の事に移っている。
毎日の通勤が無くなることを考えて季恵は引っ越しを検討しているらしい。
いや、引っ越しと言うより新築なのだろうか。
*
マンションに帰ってテレビをつけると徳☆英明が歌っている。
少しハスキーな高い歌声が好みで、この歌も気に入っていた。
大人への扉へ踏み出す少女を輝きとして詠っているのは自分の若かった戦中には縁が無かった事だと思って聞いていたけど、退職が決まった今、やがて来る新しい生活に年甲斐も無く浮き浮きしている気分と妙に合う気もする。
いや、浮き浮きしているのは退職のせいではない。
ずっと気にかけていたデジタル音源がヤ▽ハとローラ▷ドから発売された。
ヤ▽ハのFM音源は既に多くの電子楽器で実績があるが季恵はローラ▷ドのLA音源にも興味があって、どうするか色々調べて悩んでいるのが楽しい。
しかも来月にはFM音源を内蔵したPC-9801シリーズが発売されるらしい。
『何を買って何をするのか。考えるだけでわくわくするわね』
お読みいただきありがとうございました。




