第ニ挿話 その2 悲しみにさよなら
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「ねぇ、常務。あれ見ました?」
「あれじゃ分からないわ。何よ、いったい」
「△▢印刷の営業さんが使ってたんですよ、持ち運べる電話。びっくりしましたわ」
「あの……小っちゃなトランクケースの上に自動車電話の受話器が乗っかった様な。電話が持ち運べるようになったなんて、私も驚きました」
経理部にやってきた季恵との挨拶が一通り済んだ後、中馬課長が振った話題に江西次長が乗っかった。
「あぁ、ショルダーフォンの事ね。先月発売したばかりなのにもう使ってる会社があるのね。うん、モニター的な契約をしてるか、営業ツールとして利便性を試してるのか。まぁどちらにしてもまだ経費が掛かり過ぎるし、かさばりすぎて邪魔になるんじゃないかしら。あれなら以前からあるポケットベルの方が余程使い勝手がいいと思うけど。どちらにしろ、外勤さん達はどこに居ても仕事に追われる事になって行くのね。可哀想だけど」
「やっぱり孤宮常務なら知ってると思いました。へぇ、売り出してまだ一月なんですね」
「自動車電話と変らないなら凄く高いでしょうね。常務が言う通り、それじゃいくら便利でも経費倒れだわ」
オフコン導入と管理システム構築の実績が決め手で昨年常務取締役になった季恵だが、経理部長兼任なので朝一の社長との打合せの後は必ず経理部に顔を出す。
彼女の異動に伴って江西が次長として経理部を統率し、課長になった中馬が現場を取り仕切っている。
初めて会った頃には考えもしなかった立場になった彼女等だが、3人だけの時に話す様子はほとんど昔と変らない様だ。
季恵の勤め先は紙を扱っているので当然印刷会社などからの出入りが多い。
顧客の窓口は購入部門だが、営業やデザイン担当者が直接相談に来るのも珍しくない。
△▢印刷も輪転で回す巻き取りの用紙は大手の代理店や製紙会社からの納入だが、枚葉印刷用の特殊紙などは商品知識が豊富で小回りの利くこの会社から購入する場合が多いのだ。
どうやら朝一に飛び込んできたそんな1人がショルダーフォンを使う現場を2人して見かけたのだろう。
だいぶ前に建て替えた本社ビルの専用エレベータ6階を降りた所が営業部の受付で、その並びの商談スペースから奥の給湯室への廊下を抜けた先が経理部なので営業部の客と経理社員が顔を合わせることは珍しくない。
ショルダーフォンを使っていたのは始業前にやって来た印刷会社の営業担当者のようだ。
古株で馴染みのある彼を、江西達もどの顧客の社員か知ってはいてもショルダーフォンの事を訊ける程親しくはなかったらしい。
取扱量増加で在庫面積が増え倉庫面積が足りなくなって郊外に倉庫を建てたので一時事務所を間借りして、本社兼倉庫で使っていた4階建てのビルを8階建てに建て替えた。
1階から5階は貸しフロアで6階以上が自社用だ。
6階が営業部と経理部、7階が会議室と役員室、8階には購買部と人事部と総務部が入っている。
貸しフロア用とは別の自社用のアプローチと専用エレベーターを備えた本社ビルは取っ掛かりの倉庫を含めて社長自ら手掛ける特別プロジェクトだった。
例によって社長の仕事に季恵が引きずり込まれるのは当たり前になっていて、倉庫建設が季恵の提案を基にしていただけにプロジェクト全ての案件の精査を担当する事になった。
彼女自身が手掛ける管理システムに着手するまでに建設関連の青写真が完成して一番ほっとしたのは季恵だったに違いない。
*
倉庫建設から本社ビルの建て替えそして管理システムの構築、大きな懸案事項全てに片が付いてもう1年以上が過ぎた。
昭和60年で58になった季恵は役付きの取締役になって社長と進める案件が途切れることは無いが、今後大規模なプロジェクトが必要に成る頃にはもう引退しているだろう。
『引退後には何をしてるだろうか』等と考える。
そう言えばこれまで目の前の事を追いかけて好きにするばかりで先々の事なんて考えなかったのに、役員にまでなれたのは人との出会いに恵まれていたからだろう。
他人、特に男性との関りを極力避けてきたのに数少ない出会いが要所要所で男女の垣根を越えて季恵をここまで導いた。
その出会いの最たるものが社長とのそれで、彼が引退した後も仕事を続けるつもりなど毛頭無く、社長の年齢を考えても長く勤めても65まででもう7年足らず。
これまでの40年と比べればあっという間に違いない。
『やっぱり趣味なのかな?』
趣味と言っても流行歌を聴く事とそれに関わる電気工作と弦楽器の独奏、それに工作の延長と仕事がらみのコンピュータくらい、多方面に手を広げ玄人はだしと言ったところで所詮は素人の域を出ないものばかりだ。
『まぁね。その時になれば分かるんだわ、きっと』
*
薄曇りの日曜日、季恵は映画を観た後日比谷の街を散策している。
マンションを買ってから三田線一本で行ける日比谷が近頃の気に入りで、結構出る様になった。
たまの映画鑑賞を趣味と言う人もいるが、年に10本も見ないのは趣味とは言えないなと季恵は思っている。
今日観たのは【花いちもんめ】という邦画で、ボケ老人の介護を通じた家族の絆を描いたものだった。
自分には介護してくれる身内も居ない事を痛感させられた。
部下の江西や中馬が家族の事を愚痴るたびに『こうして平気で貶せる家族の繋がりは羨ましいな』と声には出せず内心いつも感じていたのが改めてじわじわと身に沁みてくる。
この映画を選んだ時に観ればこうなるのは分かっていたのだけど『現実逃避してもしようがないものね』とわざとそうしたような気もする。
何気に『泣かないでひとりで ほゝえんでみつめて あなたのそばにいるから』と歌詞が頭に流れた。
『あれは恋の歌で天涯孤独のあたしには全然関係ないんだけどね』と鼻先に皺を寄せて自分を笑うのに『人を恋した事が無い自分が恋の歌を気に入ってレコードを買うのに比べればまだ的外れじゃないのかもね』等と取り留めない思いを重ねて気が紛れていくのも散策の良い所なのかも知れない。
映画の後は銀座に回って山▢楽器へ寄る事にした。
レコード店ほどでは無いけれど季恵は楽器店を覘くのが嫌いじゃない。
自分で弾けるのは弦楽器だけで持っているのも三味線とギターだけだが、人の演奏を見るのは鍵盤楽器が一番好きだ。
特に10年程前からデモンストレーションとして店頭で始まったエレク▷ーンの生演奏があると聞き入ってしまう。
たった1人で伴奏から主旋律まで弾きこなせてしまうのは、人付き合いが苦手でバンド活動を諦めた季恵にとっては夢の楽器に思えた。
しかし鍵盤楽器が得意でないまま50を目前にした彼女がそれから習ったところで自分が望む水準の演奏まで辿り着くのが不可能なのは確実で、まさに【夢】でしかなかった。
今日もたまたまデモ演奏があるようで、遠目にも店頭で立ち止まる人達が目に入る。
近付くとやはり生演奏が行われていて、近未来的なデザインの大きな鍵盤楽器を1人の女性が弾いている。
そう言えばエレク▷ーンの生演奏を観るのはずいぶん久し振りだが、どこか過去の記憶と違う気がした。
新製品とか新発売の看板は上がっていないので彼女が観ない内に売り出された機種なんだろうが、これまでの電子オルガンじみた音質と違う本物の楽器に近い音を感じる。
弾けないので買う事はないが、興味津々で演奏を聴きながら製品のパンフレットを手に取った。
まず【デジタル音源】の文字が目に飛び込んで、読み進むとFMとかFWMとかのアルファベットにフリーケンシー・モジュレーションやフル・ウェーブ・メモリーとかのルビが振られている。
【デジタル】【モジュール】【メモリ】全部じゃないけれど、季恵が10年来取り組んで来たコンピュータの用語が沢山並んでいる。
【MIDI】という言葉にも覚えが有る。
月刊▽スキーや月刊マイ▢ンで以前見たけど、電子鍵盤楽器同士がやり取りするデータの為の規格だと思って読み飛ばした筈だ。
『これって、音楽がコンピュータで扱えるって事なの?』と読み進めるが、あくまでもエレク▷ーンの説明なのでその辺りはよく分からない。
確かにゲームの世界では先月発売になったスーパー▽リオブラザーズを初めとして様々な音楽や効果音が使われているものが有るが、あれにしても所詮はゲームの音で芸術としても音楽とは別次元だと思っていたし、シンセサイザーという楽器も電子的な音を音楽に取り入れるだけの装置に過ぎないと思っていて、この様に色々な楽器の音を積み上げて人前で生演奏出来る【楽器】が出来ているなんて全く知らなかった。
『楽器の中にあるんなら楽器をコンピュータに繋げればいい。それにきっと近いうちに鍵盤じゃなくてコンピュータで鳴らせる【デジタル音源】が売り出されるんじゃないかしら。これは要注意ねぇ!』
明日もよろしくお願いします。




