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第一挿話 その9 ひとりじゃないの

本日もよろしくお願いいたします!

「なんて涼しいのかしら。昨日までの地獄の釜のような部屋とは大違いですね、孤宮こみや部長」

「本当ね。でもこんなに涼しいと、この格好じゃ体が冷えてしまいそうだわ」

「冷却強度の切り替えが出来るから色々試してみないとね。ここは暑がりの男が居ないから弱めでいいと思うわ」

「「はい」」


 昭和47年8月、とうとう会社の事務階にクーラーが設置された。

季恵に声を掛けて来たのは江西課長と中馬課長。

昭和30年代前半に彼女の下で働いていた2人は20代半ばで結婚退職したのだが、その後も事ある毎に会社に季恵を訪ねていた。

2人共結婚後すぐに子宝に恵まれ、下の子の小学校入学を機に連れ立って相談に来た。

それぞれ季恵とは別の公団住宅に住んでいるのだが、やはり家を持ちたいらしい。

しかし夫の収入だけでは家賃を含めて生活に追われ貯金もままならないので正社員として働ける所を探していて、出来ることなら季恵の元で働けないだろうかと言う。

在職当時の彼女等の能力や性格は充分に把握し、部下としての評価は充分に高い2人だったので季恵は即決で人事部長に再雇用を掛け合いにいったのだ。


 季恵の希望で経理部は女性だけの職場が維持されているのだが、それだけに20代の退職が当たり前で部員の入れ替わりが激しい。

そろそろ腹心の部下が欲しいと思っていた矢先で季恵にとっても渡りに舟だった。

会社の規模は大きくなり経理の仕組みも季恵がどんどん変えているが、2人は期待通り復帰後すぐに新しいシステムに対応してみせた。

目先は変わっても季恵が叩き込んだ基本を変えていないこともあるが、彼女等の資質が季恵の見込みにたがわなかったからこそだろう。

数ヶ月で若手に指導できるほどになった彼女等を2年で係長に抜擢した。

更に去年組織を見直して売上金額を管理する第一経理課と仕入れ金額管理の第二経理課を新設して2人をそれぞれの課長に据えたのだ。

当然その間に管理業務については叩き込んである。

これで季恵は社長案件の銀行対応と資産運用に集中する事が可能に成った。

ちなみに彼女自身は彼女等が係長になった年に部長に昇進している。


「部長のお宅はカラーテレビに買い替えたんですよね」

「えぇ、3月末に。そろそろ団地でも買い替えるお家が増えてきたのでね」

「羨ましいわ。やっぱり〇曜ロードショウとかはカラーで見たいですもの」

「駄目よ、江西課長! 家の頭金が貯まるまで、我々に贅沢は敵なのだもの」

「そうね、中馬さん。それまでは頑張らないと」


 カラーテレビのずいぶん前に季恵の家では大きな買物があった。

祖母のアサが亡くなったに翌年に例の自作電蓄を押し入れに仕舞い込んで、ステレオ装置を買った。

実際はターンテーブルとスピーカの完成品を購入してステレオアンプは自作した。

レコードがステレオになってもずっと我慢していたのは年老いたアサの所へ行くことが多くなって趣味に構う余裕がなかったからだが、遺産相続が落ちつきタネマスの件を片付けてようやくその暇が作れたのだ。

季恵は3年余り前の当時のことを思い出す。


 タネマス製油の株式の3分の2を相続して大株主となった季恵に重役たちが泣きついて来たのはタネマスが食用油の購入価格の強制的な値下げを通告してきたからだった。

彼等がアサから聞いていた勤め先に押し掛けたものだから、季恵は遺産の件とタネマスの騒動について社長に説明しないといけなくなる。

元より放置する積りなどない季恵だが、いつものように社長室で面と向かっても個人的なことを話すのはどうしても気が引ける。

一通りの説明が終った後いつになく落ちつかない季恵に、社長が『かなり厄介な状況みたいだね。うちの業務に支障が出ると敵わないから、それを先に解決してしまおう』などと言い出した。

『僕が使ってる興信所がけっこう優秀でね。調査を依頼してみてもいいかな?』と返事を待たずにデスクの上の電話に手を伸ばす。

手慣れた風にダイヤルし、相手を確認すると早速依頼内容を語り出した。

『へぇぇ、メモも取らずに全部覚えてるのね』と感心していると電話を終えた社長は『計算は君ほど得意じゃないが、物覚えは良い方でね』と悪戯な微笑みで答える。

もう四捨五入すれば還暦だと言うのに茶目っ気たっぷりなその表情を『あぁ、これが堪らないひとも居るんだろうなぁ』と少し冷めた目で見る季恵はいつもの調子に戻っているようだ。


 その週の終わり、帰り際に社長から内線が入り社長室に向かう。

社長室と言っても秘書が門前を固めているような物ではなく3階に在る普通の部屋だ。

軽くドアをノックして中に入ると応接セットに資料が広げられていた。

手招きで座って資料を見るように勧められ、向いに腰掛けて読んでいく。


「凄いですねぇ……」


 興信所と言っても人の浮気や素行を調べる訳では無く、経済専門のそれらしい。

そこには最近のタネマスの動向が事細かくしるされていた。

当然内容は今回のタネマス製油絡みの件に絞られていて『あの電話一本でここまで核心に迫れるなんて……』と思わず声を漏らしたのだ。


「うん。特にタネマス製油に代わる購入先を準備している訳では無いようだね。やはり君の従兄いとこの暴走のようだ。しかも彼の経営者としての能力と適性に疑問を持つ役員が少なからず居る。極め付けは経営実績だ。君の伯父さんが亡くなって彼が経営を引き継いでから売り上げと利益が一転、右肩下がりが続いている。こりゃあ、放っておくと君の実家の生業が立ち行かなくなってしまうねぇ」

「…………」

「一番最悪の予想が的中して声にならないみたいだね。じゃあ、僕が続けるけど。君の従兄には社長の座を降りて貰うしかなさそうだ。株式は公開していないけれど、一族と役員には株を持たせていて彼の持ち株は30%に満たない。上手く買収工作を進めれば彼から経営権を取り上げるのは難しくないよ」

「でも。その資金を準備するにはタネマス製油の株を売らないと……」

「うん。だから、買収は僕が請け負おう。君の名義で無くても委任状があれば同じ事だからね」

「そんなご負担をお掛けする訳には」

「何を言ってるんだい。これは純然たるビジネスだよ。僅かずつでも赤字続きの今、株の評価額は最低水準だ。売り逃げしたい役員連中の株式を買い叩いて僕等で経営を立て直せば大儲けじゃないか。その後でタネマス製油主導の吸収合併にすればあちらの大株主の君が全体の筆頭株主になるのも間違いない。その時点で僕の持ち株を買い取ってくれれば僕だって大儲けだし、従兄君だって自分の経営で持ち株を紙切れにしてしまうよりよっぽどいいだろう。全て丸く収まるんじゃないかなぁ」


 おおよそ季恵が漠然と考えていた手筈と変らない。

今の持ち株を売ったり担保にする必要がないだけ確実な策と言える。

まぁ、あくまでも社長が信頼に足ると言う大前提があればの話なのだが。


 事はほぼほぼ2人の思惑通りに推移し、株主総会で季恵の従兄の代表取締役退任が決まる。

先代からの番頭だった役員を後釜に据え、筆頭株主で社外取締役になった【社長】が舵取りをして経営を立て直した。

【社長】の舵取りに季恵が絡んでいるのは当然で、今年中に吸収合併の準備を済ませて来年4月に新生【タネマス製油】が誕生する予定だ。


 クーラーの利いた事務所から階段に出るとどっと暑さが押し寄せてくる。

暑さに慣れた8月でなければ音を上げているかも知れないが、どうしようもない事なのでトントンと階段を降りて社を出た。

少し歩いた商店街は賑やかに街頭放送で音楽を流している。

今かかっているのは大ヒットの【ひとりじゃないの】。

『となりの真理ちゃんだったかしら?』

若い世代に爆発的に支持されているようだが、その見た目はあまり季恵の好みではない。

ただ正式に音楽を学んだだけあって特徴のある声を耳に馴染む歌に仕上げているのは流石だと思う。


『【ひとりじゃないの】かぁ。アサばあちゃんが亡くなった時は独りぼっちになったと思ったけどね』

『自分と社長の関係は何なのだろう、確かに仕事上の相性は抜群だけど』

『もし社長がビジネスパートナーとして認めてくれているのなら、そういう意味ではひとりじゃないのかも知れないな』等と考えを紡ぎながら商店街を歩いた。

挿話も残り1話、明日で終わる予定です。

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