第一挿話 その7 だまって俺について来い
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昭和39年も余すところ一月余り、東京はまだ10月に開かれたオリンピックの余韻に浸っている。
オリンピック人気の後押しもあってテレビ普及率が90%を越え、この春季恵も購入に踏み切った。
もちろん白黒なのは当然、カラー放送は始まっているがカラー受信機はまだ高額で例によって庶民の手は届かない。
彼女がテレビを据えたのは一昨年に引っ越した赤羽台団地のダイニングだ。
駄目元で応募したのが見事的中し、平屋の借家から4階建て集合住宅2階の2DKへ引っ越した。
引っ越しは会社の配送運転手達がトラック持ち込みで手伝ってくれた。
男性不信の彼女だから挨拶程度の付き合いしかないのだが、日頃から倉庫関係者や運転手に菓子などの差し入れを欠かさない彼女は彼等の受けも悪くない。
一人暮らしでそれ程の荷物は無いが、電蓄やたんすなど自分で運び様がない物もいくつかあるのでとても助かる。
作業終わりに売り出されたばかりのクラッカーとコーラを出して、心付けは千円包んだ。
学卒の初任給が1万5千円程度だから半日としては充分過ぎる程で大いに喜んでくれる。
家賃は今まで居た平屋の数倍で国が後押しする事業として決して安いとは思えない。
役付きの季恵だから払えるが普通のビジネスガールにはとても無理だ。
3DKともなればそこそこの男性管理職でも二の足を踏みそうな金額に思えるが、最新鋭の【文化的生活】への憧れからか、どの間取りにも申し込みは殺到していて季恵は当選したのが奇跡のように思えた。
居室と分離されたダイニングキッチンにはピカピカの流し台と給湯器、お風呂も入り放題でベランダの明るい日射しに干し物も快適、トイレだって水洗だし一軒家ならともかくお江戸以来の長屋暮らしでもしていた人々にとってはまさに【憧れの文化生活】だろう。
季恵が入った2DKは当然単身者はほとんど居らず夫婦での入居者が多いが、変に独身男性に囲まれたりすれば住みたくなくなるのが目に見えているので、わざとそんな間取りに応募したようだ。
ごく稀に建築や設備の不具合が起きたりしているらしいが、季恵が入った棟ではそんな話も聞かず、この2年間快適な生活を送っている。
会社の業績は落ちついて堅実な右肩上がりで経緯している。
社屋建設時の借入金も滞りなく返済できていて、経理面での問題は少ない。
製造業では無いので頻繁な設備投資は必要が無いが倉庫が手狭に成っているのが気掛かりで、社長には報告してある。
まだ入り切らないと言う状態ではないけれど、毎月の棚卸に費やす時間が増えている。
品数や数量の問題ではなく、物を入れ替えないと品名と数量の確認が出来なくなっているからだと思っている。
製紙工場から直送可能な顧客はごく一部で、それ以外は倉庫在庫が不可欠だ。
社長には売上推移の見込みを営業で出し、それに対する購入及び在庫計画を購買に立てて貰う様に頼んだ。
それを基に在庫重量と面積を算出して倉庫要領を算段する積りなのだろう。
おそらくそのあとは社長に流通倉庫の候補地候補を挙げてもらい、総務から土地と建屋の見積を依頼する。
必要な資金が決まれば、その先の金勘定はお手の物だ。
今から計画を組み流通倉庫を立ち上げて償却が済むまで、その期間に限ればこの国の経済に大きな長期的マイナスは無いと季恵は踏んでいるので、一刻も早く着手すべきだと思っている。
償却さえ済んでしまえば、あとは何とでも成るのだから。
なので社長が役員達を説得できるだけの資料を作ろうと言う訳だ。
10年以上前にジアゾ複写機が発売されたが設計事務所や機械メーカーならともかく中堅商社で取り入れている所は少ない。
ここでは社内資料作成はガリ版の手回し輪転に頼っていて、経理部の資料はいまだに季恵がガリを切っている。
社長は季恵が入社した頃に先代から会社を引き継いだばかりだった。
あの頃が三十半ばで丁度季恵の15年上だったから今は51か52だろう。
子供は娘ばかりで皆嫁に出してしまって跡継ぎは居ないから自分が仕事が出来る限り経営して、あとは全て役員に丸投げで引退する積りなのかも知れない。
『75まで頑張ってくれたらあたしも60で引退できるな』と季恵が考えるくらい、仕事上の相性は悪くない。
季恵が知る限り水商売の愛人が途切れた事のない遊び人だが、素人に手を出すような馬鹿ではない様で季恵も仕事の打ち合わせでの誘いは有っても口説かれた事は一度もない。
何より人の意見を真剣に聞くし、それに対する取捨選択の判断が的確だ。
そして社内では季恵の意見が群を抜いて多く採用されているが、多分それは季恵の意見が一番優れているからではないだろう。
これから色々と調査をして資料を作ろうとしているように、季恵の意見には具体的な検証と提案が含まれる。
それだけでなく、意見の大半ができるだけ社長本人の意に沿った形で行われる。
貸借対照表の説明や銀行との折衝の場で社長が漏らした言葉から彼が仕事に関して『何をどうしていきたいか』を推察して、一度自分の考えとそれを比較して可能なら社長の思っていたアプローチに近い形で意見を言うようにしているのだ。
今回の【物流倉庫】についても、元々の着眼は社長の言葉尻に表れた『在庫』や『倉庫』や『物流』に関わる事柄を考え合わせているうちにまとまった。
ひょっとすると、社長はわざとそんな言葉を漏らすことで、季恵が調査と資料をセットにした提案をして来るように【誘導】しているのじゃないかと思う時がある。
意識はしていないけれど、季恵に話す事で自分の【思い】が具現への【計画】に昇華していった幾度もの経験が彼をそうさせているのかも知れない。
どちらにしても経営者としての社長とその懐刀としての季恵は非常に上手く機能しているのだろう。
男女の機微は皆無だが、仕事上の相性だけは絶妙と言っていいに違いない。
*
師走間近の日曜日、季恵は久し振りの銀座を歩いている。
最近に珍しく晴れ渡った小春日和にみゆき通りは賑わっていた。
ミユキ族と呼ばれるアイビールックに身を固めた若者達が闊歩していて、見た目まだ30前後にしか見えない季恵からしても世代の違いを実感せざるを得ない。
アサの所には先週行ったばかりで、今日は何をしようか考えて『そうだ、映画を観よう』と思い立った。
いつもなら近場の映画館かテクテクと1時間ちょっと歩けば着ける池袋で済ませるのだが『そう言えば新幹線も見たことがないわ』と今年開通した東海道新幹線の様子を見に電車に乗って東京駅までやって来た。
『大阪まで4時間で行けるから日帰りで仕事が出来るんだ』と社長に聞いたが、言った本人は大阪に行けば必ず泊まってキタの馴染みの店に顔を出している。
新幹線だけでなく東京駅界隈の変化を肌で感じながら銀座まで歩いて、映画を観た。
お目当てはテアトル東京やミユキ座みたいなシネラマやロードショウ館ではなくて、東▢の封切館。
【ホラ吹き太閤記】というク▷イジーキャッツ植△等主演の映画がもうすぐ終わるので観てしまおうと思ったようだ。
季恵はこの手の馬鹿々々しい映画が嫌いではない。
これは時代劇に設定を変えているが、サラリーマン社会を滑稽に風刺した一連の作品がその中にどっぷりと浸かった彼女の気持ちを和ませてくれる。
桶狭間の戦いのシーンで空中撮影をしていたのは凄いと思ったけれど、撮影用のバスが映り込んでるのをそのまま使っているのは笑ってしまった。
レコードを買うほどの事もないけれど、劇中歌の『だまって俺についてこい』も気に入った。
お気楽を装って奮闘する植△等が歌う姿を見て、何だか若い頃の社長みたいだと思う。
もちろん彼女は『黙って』なんて毛頭考えてはいないのだけれど。
明日もよろしくお願いします。




