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第一挿話 その6 上を向いて歩こう

今日もよろしくお願いします。

「どうしたものやら。お前はどう思う?」

「伯父さんもタネマスを再建してからここまでにするのに頑張ってきたんだから、言う事をきいてあげたら?」

「そうだねぇ。もう小田原に帰る事もないし、地所なんか在っても仕方ないんやけど。私が心配してるのは東京にそれだけの力が無いのに、製油に手を出してタネマスが立ち行くのかどうかや」

「だから万一の事を考えて、製油部門を小田原の別会社にするんでしょ?」

「せや。資本も別にする言うて、私の地所をあてにしとる」

「お祖父じいさんは東京に進出する資金を得るためにアサばあちゃんの実家に小田原の地所を売却したんだよね。それで小田原の権利は神戸の曾祖父ひいおじいさんの物に成った」

「あぁ、そうしておけば万一東京で失敗しても小田原は無傷で残るからね」

曾祖父ひいおじいさんは元々お祖父じいさんが修行に行った大阪の油問屋の惣領だったけど、子供がアサばあちゃん1人で息子が出来なかったから経営を次男さんに任せて実質引退してた。子供がアサばあちゃんだけだから、万一亡くなっても小田原は娘婿の手元に戻る筈だったけど、お祖父じいさんの方が先に亡くなってしまった」

「そう、父さんは長生きして、亡くなったのは民法が改正された後やったから小田原は全部あたしのもんになったんや。神戸の地所を大阪の叔父さんに売ったら税金は綺麗に払えたからね」


 昭和36年も歳末に近い日曜日、季恵は祖母のアサを訪ねていた。

84歳になってもまだ矍鑠としたアサの元に月に1度は顔を出している。

季恵は34でいまだ独身だが、父親藤次の不行跡を知るアサは無理に縁談を勧めたりしない。

日頃はたわいもない話でお互いの無事を確かめるだけの2人だが、今日はいつになく気重な表情のアサが【タネマス】の話を切り出した。


 大震災後に小田原から東京に進出して成功を収めた油問屋の【タネマス】は終戦前の空襲で店舗消失の憂き目に遭ったものの、小田原に残した基盤と関西との繋がりを元に復活を遂げて戦後の混乱期に商圏を伸ばしていた。

そんな中、物資不足のあおりで零細の製油所が次々と立ち行かなくなって地場の供給が滞り出した。

このままでは既に製油と販売を兼ねて大手に成りつつあった豊〇や▢清に市場を独占されてしまうと、製油所の支援にあたって来たが資本力が無い零細企業にはどうにもこの状況を乗り越える事が難しい。

残った職人や機材を統合して自前の製造部門を立ち上げなければ将来が無いとの判断も間違ってはいないのだが、店舗焼失から立ち直ったとは言え東京にはまだその余力がない。

そこで小田原の資産でそれを賄おうと考えたのだが、その資産はすべてアサのものだ。

形だけにしても借金で製造部門を立ち上げ、万一それが立ち行かなくなった場合には現在の商圏さえ失い兼ねない。

そこで『製造部門は別会社としてアサはそこに出資する形を取りたい』との申し出があった訳だ。

製造部門の別会社が軌道に乗るのが見込めた時点で、アサから一定の株式を譲渡してもらえば経営権は将来も東京のタネマスが握る事が出来る。

確かに悪くない考えなのだが。


「あの子はまだ惣領気分が抜けていないんだよ。民法改正で相続の仕組みも変ってるのにね。軌道に乗る前に私が逝ってしまった時、相続がどうこうとかまでは考えてないんだろうねぇ。滅多に顔も出さない親不孝者に財産を全部渡すかどうか、そんなのは何も決まってないんやが」

「おばあちゃん、あたしは何も要らないからね。自分でちゃんとやっていけてるから」

「分かってるわ。何もあの子を困らせたい訳やないから、それなりのもんはちゃんと残すけど、貴女あんたのことも考えさせてぇな。この件については自分がどう思うよりも、私の思いを優先させて欲しいから今話しとくんや。ええな!」

「もう、アサばあちゃんは一旦決めたら梃子てこでも考えを曲げないのは承知してるけど。本当ほんとお手柔らかに頼むわよ」

「あぁ。そやから私の思い通りにするんやで」

「うん。分かった」


 どうやら季恵にもなにがしかの物をのこしたいらしい。

今は元気でも老い先短いのは間違いないのだからアサがそれを考えるのは当たり前だし、彼女の事だから弁護士なりを介して正式な遺言を既に作っているに違いない。

アサが居なくなることなど考えたくもない季恵は、その件についてはもう成り行きに任せる事にした。


     *


 アサの家から借家に戻った季恵が夕食の準備をしながら考えていたのは遺産の事でもタネマスの事でもない。

期限未定の撤去条件で借りたこの平屋だが、とうとう地主が周囲の不動産と合わせての開発を決めたらしく来年いっぱいでの退出を言い渡された。

戦後復興が進む東京も人口の流入が止まらずに住宅環境は改善するどころか悪化の一途を辿っている様で、こんな好条件の物件は二度と見つかりそうにない。

国も住宅公団を立ち上げて大々的に住宅供給を行い出しているし、都もそれなりの開発は進めているが、数年前に竣工した蓮根団地など条件の良いところでも季恵にすれば不便にしか思えない。

実際、どこもアサの家の方が余程便利で最悪いい物件が見付かるまではアサの所に転がり込むしかないかもと考えていた。

そんな中、荒川南の赤羽に大規模な公団住宅が出来ると聞いて駄目元で申し込んでいる。

東北本線の赤羽駅にも近い立地は言うまでも無く、子連れ夫婦対象だけでない様々な間取りが採用される様で季恵の希望にも沿うのだが、何しろ申し込みの倍率が凄い。

『運試しみたいなものね』と期待せずに待っている状況だ。


 季恵の勤め先は順調に業績を上げており、去年元の店舗の近くに4階建ての自社ビルを建てて移転した。

1階2階は倉庫で資材運搬用のエレベータがあり、それとは別に3階へ上がる人用のエレベータまで備えた至れり尽くせりの最新ビルだ。

組織も改変されて、総務部は人事部・経理部・総務部の3部門に分割された。

そして季恵は次長を拝命し、部長代理として経理部のトップに就任した。

既に【行き遅れ】ではなく陰で【いかず後家】などと呼ばれているのも知っているが、気にはしない。

最近では社長から銀行との折衝にも同席を求められて彼女の会社での立場が弥増すばかりなのは彼女の意に沿うものでは無いにしても、3階4階の女子トイレと女子用の更衣室は季恵が強引に社長へ直訴したし、給湯室の設計に関われたのも役職が在ればこそだろう。


 4階から階段を下りて行き、倉庫脇の通用口から退社する。

3階までとは言え、狭いエレベータに男性と同乗するのは嬉しくないし、年上の男性社員から上役扱いで気を使われるのも敵わない。

階段も4階までの事だし頻繁に昇り降りする訳でもないから、季恵は御客を案内する場合以外は昇り降りともに階段を使うようにしている。

元の総務部門と購買部門は4階、役員室と営業部門が3階を占めるので、どちらにしても階段を使うことになるのだ。

人手も揃って経理部は残業1時間程度でほぼ全員が退社出来ている。

居れる時は部下全員の退社を確認してからこうして階段を下りるようにしている。


 商店街などでも放送設備が整って近頃街には音が溢れる様になった。

最近よく耳にするのは坂△九の【上を向いて歩こう】だ。

ロカビリーの唱法に小唄の要素を取り入れたような独特な歌い回しは、年配層からは酷く嫌われているらしいが、若い世代には耳新しくて好意的に受け入れられている。

季恵も母によく聴かされた小唄が根付いているようで、一度で好きになって先月EP盤を購入して家でもよくかけている。

上を向くのは悲しみの涙を流さないためだと歌っているが、この曲を聴くと前向きに進むために上を向く力が少し出てくる気がするのは季恵だけだろうか。

今後もお付き合いいただければ幸いです。

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