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第一挿話 その5 月がとっても青いから

お読みいただきありがとうございます。

 昭和30年夏、もうすぐ季恵は28になる。

もう誰が何と言っても立派な【行き遅れ】で、最初に部下になった女子社員は3人ともとっくに寿退社して、全員二十歳はたち前後に入れ替わっている。

時折、子連れで挨拶に来るところを見ると嫌われてはいなかったようだ。

それとも幸せな様子を見せつけに来ているのだろうか。

まぁ、季恵にとってはどちらでも構わない。

会社は更に業績を伸ばし、経理係は経理課に季恵は課長代理となった。


「ねぇ、孤宮こみや課長。後楽園に出来た遊園地って知ってますよね」

「知っているけど、行くつもりはないわよ」

「えぇぇ! 課全員独り身ばかりなんだから、皆でいきましょうよぉ」

「子供が行く所じゃないの?」

「ところがところが。小さな子には乗れない楽しい遊具がいくつもあるんですって」

「まぁ、一度くらいは行ってもいいけど。皆の都合が合えばね」

「やったぁ!」


 昼休み、女子社員は全員事務机の上で弁当を開いている。

庶務課や人事課も同じで、男子社員も結婚したての若手は弁当派だ。

経理課の島は部下4人の机が田の字に並んだ横側に季恵の机が貼り付いた形で、4人全員女子なのはもちろん季恵の強い要望によるもの。

ここは元々総務部の物置に使っていた続きの部屋で、部員が増えて手狭になったのでガラクタを処分して保管する物は倉庫に移動させた。

この部屋への移動も季恵が真っ先に手を上げた。

『奇特な事で』とでも言いたげな年配の課長達を尻目にさっさと移動を済ませる。

男性社員が全員煙草を吸うので何処も彼処も紫煙もうもうたる状態だったのを、部屋の入口に【禁煙】の張り紙をデカデカと貼ってやった。

その後しばらくすると、歩きタバコの上役達も季恵がじぃっと見つめるとバツが悪そうに部屋の外の灰皿に煙草を置いて入ってくるようになった。


 独り暮らしだが季恵も家事は全く苦にならないので、毎日弁当を包んで来ている。

声を掛けて来たのはまだ10代の中馬なかま社員で、『全員独り身』と言ったのは独身という意味ではなく付き合っている男が居ないという事だ。

正式な【課長代理】を略して社内では誰もが季恵を課長と呼ぶ。

まだ二十歳過ぎでも可笑しくない見た目の季恵だが、社内では経理的な仕事上のミスを寸分違わずに指摘してくる厄介至極な存在として畏れられている。

入社早々は可憐な容姿に興味津々の男性社員達だったが、歓迎会の小料理屋で一合徳利を十数本ぺろりと空けてみせて以来、個人的な誘いは皆無となった。

もちろんそれが目的でわざとやってみせたのだから本人にすればしてやったりなのだが。

何より、帳簿から貸借対照表を作って社長に説明することが出来るのが社内に季恵しかいないのが彼女の強固な足場になっている。

以前の私企業的な会社から業績だけは飛躍的な躍進を遂げているのだが、それはひとえに復興景気と業界の事情によるもので、社長はこれまでの個人商店じみた経営方針を当分方向転換しそうにもない。

そうでなければ税理士なり会計士を雇ったり銀行員を引き抜いて経理を任せれば彼女に頼る必要はないのだが、そこに【石部金吉】にでも来られた日には目も当てられない。

実際入社時、以前の帳簿を調べ始めて数日で社長個人の資金流用に気付いたのだが、アサや浅見老から経営者とはそういうものだと言われていたし母からはそんな旦那衆が居なければ花柳界も成り立たない事を聞かされていたので、貸借表を見せる時にそれとなく『知ってるけど大丈夫ですよ』と暗に告げるに留めていた。

そう『外で遊ぶ--金を使う--代わりに厄介事は家に持ち込まない』それが男の【甲斐性】で、それが出来ず父の藤次のように家族をしいたげるような男は『【甲斐性無し】の看板でもぶら提げて歩けばいい』と彼女は思う。

まぁとにかく、それ以降季恵の立場は盤石だ、少なくとも今の社長が元気な内は。


「遊園地もいいけど、課長はやっぱり歌ですよね。あぁ、わたしも電蓄が欲しい。あれば【月がとっても青いから】を買っていつでも聞くことができるのに」

「あの歌良いわよね。うぅん、あんな素敵な恋ができればなぁ」


 二十歳はたちの江西社員が季恵の趣味に話を振ると、柴田社員がすぐさま恋にすげ替えてしまう。

季恵の5つ下の柴田は適齢期に差し掛かって結婚するならそろそろ相手を見つけないといけない頃だろう。

電蓄は季恵が自作を思い立った頃より随分と安くなったが、まだまだ若い女子事務員の手が届く物では無い。


「課長の電蓄はどんなレコードでもかけられるんですよね。一度聴きに行きたいわ」

「私はテレビ受信機が欲しい。家でテレビを観れれば最高よね」

「馬鹿ねぇ、そんなの無理に決まってるじゃない。あれば最高なのは決まってるけれど、もっと現実を見なきゃね」

「あら、歌みたいな恋が出来ると思うのが現実的なのかしら。課長ほどの美人ならともかく、柴田さんには無理じゃないかしら」

「こら、仕事場で馬鹿な言い合いは止めなさい。まぁテレビは当分誰も無理だけど、恋は相手次第だから叶うかも知れないわ。そう、あたしみたいに成らなければね」

「「…………」」


 江西が話を戻そうとするが、同い年の飯田社員がテレビの話を持ち出した。

2年前に放送が始まったテレビジョンだが、地区ごとの個人宅契約件数はまだ数える程、街頭テレビでしか観る事ができない人がほとんどだ。

受信機も戦後すぐの電蓄並の価格帯で、女性社員どころか重役クラスでも手が届かない。

電蓄の例を見れば数年で高給取りの家には普及する価格になるだろうが、それは彼女等ではなく父親の稼ぎ次第だろう。

それを指摘された飯田が見た目の話を持ち出したので季恵は止めに掛かった。

美人と持ち上げているようで【行き遅れ】に繋がる話をしている事に気付いた部下達は、バツが悪そうに押し黙って弁当に向き合っている。

季恵は全く気にしないが、多少は頓着していると思われている方が都合がいい場面もあるのでその場で応対を使い分けるようにしている。


 しばしの沈黙の後、中馬から遊園地行楽の日程の話が出て半月後の日曜日に決まった。

トコトコと経理課の部屋を出て各課を回り『庶務課から2人、人事課が1人参加するそうです』と笑顔で戻って来た。

庶務の若手は彼女の同期なので呼びたかったのだろう。

5人が8人でも大した変わりはないけれど、全員年下の平社員だから何かあれば季恵に責任が問われるかもしれないが、まぁしようがない。

『団体割引とかは利かないわよね』と気楽に構えることにした。

そこに中馬のあとを追うように渋い駱駝色の背広を着込んだ中年男が入り口の灰皿に煙草を放り込んで顔を覗かせる。


「荒巻部長、お昼に何のご用ですか?」


柴田が眉根を寄せながら声を掛けた。


「いやぁ何。若い声が聞こえたんでねぇ。何の話をしてるんだろうって思ってね」

「煙たがられないように煙草は置いて来られたんですねぇ」

「あっはぁはっ、手厳しいなぁ。ところで君達、昨年一世を風靡した映画の続編【ゴジラの逆襲】は観たかね。僕は両編とも息子と観たが、あの映像は凄いの一語に尽きるよ」

「はぁ? 私、あの看板を見るだけで怖くて恐ろしくて、あんなの観る人の気が知れません。私達乙女はやはり【ピーターパン】に限りますわ。あの空飛ぶ少年とティンカーベル、夢のようなお話ですのよ」

「おぉ、それは娘と観たよ。確かにあれも素晴らしいね。そう言えば後楽園もいいが、米国ではディズニーランドと言うものが出来たそうじゃないか。きっと夢の世界なんだろう。この日本にもそんなものが出来る時が来るのだろうかね」


 後々考えると荒巻部長もまだ30代だったのだが、女子社員達は子持ちの中年男が夢を語るのに少々驚きを隠せない様子だ。

戦時に内地に残った男性が何がしかの事情を抱えていた中、高学歴の復員兵が若くして地位を得て行くのはある意味至極当然の事で、彼もそんな一人だった。

出征直前に娶った嫁との間に出来た息子と娘を愛してやまない彼を見ていると『男だって悪くはない』と思うのだが、それで季恵の気持ちが変わるものでないのも確かなのだ。

今週もお付き合いいただきありがとうございました。

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