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第一挿話 その3 買物ブギ

今日もよろしくお願いします。

 昭和25年7月、季恵が勤めに出てもう4年になる。

4年前、始めての出社早々に総務部へ配属された季恵が見たのは伝票と書類の山だった。

案の定、終戦前の空襲で経理の要だった社員が亡くなり、総務に残ったのは人事畑の部長と庶務上がりの課長と右も左も分からない新入社員の3名だけで、それまで通りに帳簿を付けて9月決算は何とか辻褄を合わせたものの、決算期を半年過ぎた4月になっても当期の帳簿は放置に近い状態だった。

どうやら同じ様な会社も多いらしく、9月決算を補助してくれた会計事務所が3月決算の会社の支援に手を取られていたのも大きかったようだ。

会社側からは他社の3月決算を終えた『会計事務所が5月には来てくれるのでそれまではゆっくりしていて良いよ』と言われたが、季恵は入社早々猛然と帳面と伝票に取り組み出した。


 ハルの訓育で経理の仕組みは分かっている。

9月決算の帳簿を調べてこの会社独自のやり方だけ理解出来れば問題はない筈で、万一問題が在っても5月に会計事務所が指摘してくれるだろう。

強引に総務部長の許可を取って、前決算の伝票と帳簿と決算書を4日間精査した。

紙問屋特有の内容はその都度課長に確認して、分からないところは営業課長と購買課長に訊いてもらった。

5日目また総務部長に進言して10月以降の伝票の記帳を開始する。

前年との比較で足りない伝票がいくつもあったので家に帰ってアサに訊くと『経理の催促が無いと伝票を出せへんのが何人か必ずおる』そうだ。

翌朝総務部長に頼んで、営業部と購買部に全員の机の引き出しを引っ繰り返して確認するよう督促してもらうとごっそりと伝票が出てきた。

営繕関係の伝票を上司の総務課長が頭を掻きながら持って来たのには、開いた口が塞がらなかった。

毎月の請求と支払いは営業部と購買部で確認していた筈なのに伝票が出ていないのは変なので、総務部長にどちらも間違いの可能性がある事を告げる。

急いで10月分を4日間掛けて記帳して確認すると、いくつも誤差が見つかった。

請求に関しては大手の売上先からは間違いの指摘を受けて請求書の再発行を行っていたが、小口の売り上げや支払い関係はどうやらノーチェックで処理してしまったらしい。

自社の損失分に関しては会計事務所と相談して【特損】等で落とす事になるだろうが、相手先の損失は信用に関わるだろう。

特に3月決算のところの決算処理が締まると厄介だ。

3月決算の取引先へ営業部と総務部から事情を説明しておくようお願いをした。

可能な限り期限を調整してもらって期限の短いところから、仕入れは総務部、売り上げは営業部の担当者と一緒に精査していく。

半期分で誤差が見付れば担当者から相手先へ訂正方法を確認してもらう。

そうこうしている内に4月も残り少なくなり、会計事務所の担当者が顔を出した。


「これを1人でやったのかい?」

「とんでもない。部長の許可も得ましたし、営業と総務の手も借りましたよ」

「いや、そう言う意味ではなくて。未経験の新入社員に何故こんな事ができたのか分からなくてね」

「はぁ。祖母が経理の達人だったもので、入社前に色々と仕込んでもらったんです」

「ほう。実務なしでここまで?」

「祖母の会社の帳簿と伝票を見合わせながら教えてもらったので解り易くて」

「ちなみに会社の名前訊いても大丈夫?」

「タネマスですけど。ここでは言わないでくださいね」

「何と、あそこのお嬢様かね。何でこんなとこで働いてるの?」

「しぃぃ! 父が勘当同然なのでお嬢さんでも何でもないんです。本当に誰にも言わないでくださいよ」

「へぇぇ、成程ねぇ。大丈夫、守秘義務はお手の物だから。えぇっと、処置の方は概ね問題無いと思うので、損失の落とし方と相手先への処理は社長と部長にこちらから相談しておきます。貴女のところでは3月決算以外の取引先についても処理を続けてください」

「はい、分かりました」


 会議室で会計事務所の担当者に処理の内容を確認してもらった。

年配の会計士でも2人きりは少し居心地が悪かったが、今後長い付き合いになるかも知れないので我慢していると個人的な事まで訊いてくる。

隠す程の事ではないだろうと大まかに答えたのは、ここより立派な会社の関係者なら少しは気を使ってくれるかなと計算しているのかも知れない。


「ここ、ここ、それからここ。あぁ、こことここもだな。昨年度から書式と科目名を変えてあるのは【タネマス流】ですね」

「はい、紙問屋用に手直ししましたけど。こちらの方が解り易いし合理的だと思います」

「えぇ、随分すっきりして私も解り易いと思いますよ。しかし、こちらも大変だな」

「はぁ? 何故ですか」

「貴女が嫁に行ったら、それこそ誰も分からなくなる。この2つの帳簿を並べて比較できるには会計士でもちょっとした経験が必要だ」

「大丈夫です。結婚はしませんから」

「えぇっ! そんなに綺麗なのに」

「綺麗とか無いですし、顔と結婚は関係ありませんから」


 謙遜でも何でもない、母の容貌と思い重ねれば常に己の姿が如何に凡庸かを思い知らされる。

そんなにべもない季恵の言葉に深追いしないのがこの経験豊富な会計士の憎めないところだろう。


「当分結婚しないなら社長に言っておきますよ」

「??」

「役職か給与か、次年度で大幅に待遇を改善するようにね。貴女が居ればうちの事務所の手間が大幅に削減できそうだ。もちろんそんな言い方はしませんが、それよりここを辞めてうちで働きませんか。資格なんか後で取ればいい。実践で充分やっていけますよ」

「冗談は止めて下さい。大事な方の紹介なので、ここを辞める訳にはいきませんの」

「そうですか、いやぁ残念だ。それなら今後ともお願いします」

「はい、こちらこそ。よろしくお願いいたします」


     *


 2年目の春に季恵は経理主任の辞令を受けた。

部下は居ないが職位は係長と同じで、1年上の男性社員を追い抜いてしまった。

もっとも給与はまだあちらの方が多い。

会社の金銭面は全て管理しているので当然そこは分かっているが不満はない。

季恵はずっと独り身だが、あちらはそのうち一家を構えて支えていくのだから。


 この4年で会社も大きくなった。

戦争の間に同業社が整理されて製紙会社の代理店のお鉢が回ってきたので取引額がどんどん増えて4年で10倍を越え、伝票の枚数も凄い勢いで増えている。

まだ季恵だけで処理できているが、他部署の増員に合わせて経理部門も3人の女子社員が配属された。

それに伴って季恵は経理係長になる。

『まだ22なんだけど、いいのかな』と思ったが、世間ではそろそろ【行き遅れ】と呼ばれかねないのだし、女子の部下なら気を使う必要も無いので有難く受けることにした。

何と言っても年上の男子社員が目出度く庶務主任を拝命したので気が楽になった。


     *


 仕事を終え、入社当時の事を思い出しながら炎天下の社外へ出た季恵の耳に笠▢シズ子の歌声が耳に届く。

初夏に発売されたばかりで大ヒットの兆しがある【買物ブギー】だ。

戦時中生産されていなかった電蓄の生産は再開されていたが当初160%の物品税が掛けられ今でも60%の課税率で、元々高額な商品が一般人だけでなく店舗設置にも手が届かない。

なので戦後5年間で林立したラジオ部品メーカーから購入できる部品での自作が好事家達の間で流行はやっている。

この喫茶店が客引きのために流しているのもそんな自作機を使っているのだろう。


 夕方近くなっても梅雨明けの暑さは収まらない。

ようやくコーヒー豆の輸入が再開されてちゃんとしたコーヒーが飲めるようになったけれど、この暑さで熱いのは頼む気になれない。

それでも店頭に立ち止まって考える振りをしたのは【買物ブギー】が耳についたからだ。

関西なまりの歌詞を聴いているとアサの事が思い浮かぶ。

ずっと1人で経理を切り盛りしてきたので仕事で遅くなることが多く、20分ほど歩いて通える所に小さな家を借りた。

哲学堂公園に近いこじんまりとした平屋で、建て直す予定がありそれまでの約束で格安に借りることが出来た。

そんな訳で杉並のアサの所を出て随分になる。

暇を見つけては行くようにしていたが、部下の面倒を見るのに時間が取られて最近は寄れていない。

彼女等もようやく仕事が出来始めたので、こうして早く帰れる日もある。

『次の休みは久し振りにアサ婆ちゃんの顔を見に行こう』と心に決める。

自作電蓄の事を調べる気にもなっていたようだが、どうやらそれは後廻しにするらしい。

これからもお付き合いいただければ幸いです♪

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