小説は日記
小説を長年書く私の考えです。
私にとって小説は日記です。
コツコツ毎日書いていく。
一気に書くこともある。
日記なので。
ムラがあるのは日記ですから、遅いのも、途中で止まるのも日記だから。
それと、自分のシナリオが面白いと感じるのに急に飽きるのは、毎日そのシナリオについて書いているから、考えているからです。
私は長年文章を書く物書きですが、800以上のプロットや書きかけのメモを保存しています。
そのうちしっかり完結させたものは僅か60作品。
強引に完結させたものを抜くともしかしたら半分もないかもしれません。
シナリオに飽きる、ということについて。
それはですね、想像してみて下さい。
映画を一本考えました。
もっと具体的に考えていきます。
完結も見通して最後だって考え終わります。
すると、どうなるか。
壮大なネタバレです。
ネタバレした作品ほど、ほにゃららです。
名言にも良くありますよね。
面白く無くなるわけじゃないですよ。
もちろん面白い。
その面白い作品を何度も考えて書き起こす。
それはまるで映画を何度も見直すんです。
それって流石に飽きます。
私が急に飽きるのは先を知っているものを書き起こしている間に自分の映画を見すぎて、見疲れとか慣れてしまうからなんでしょうね。
自分の作品だろう?
となりますが見慣れちゃうとダレてしまい、もうお腹いっぱいとなるわけです。
そうです、飽きるはイコールもう食べられないってことに私は至ります。
読者より先に食べて食べて、食べ飽きてしまう。
それが作品に対して書く意欲を失う原因なのだろうか、という感じなのかも。
あと、時間ですね。
頭がカーッとなると書けて、冷めると筆が止まる。
時間差、とても辛いです。
書き続けられているものは続けられている日記に例えるのは正しく、熱が無くともこのやり方ならいけると体に馴染むんです。
やはり毎日コツコツが性に合う。
書けずにいるものはもう飽きてしまったシナリオとなります。
ネタバレ完全網羅済みなので。
面白い物ほど書き続けられないのは、熱しやすく冷めやすいという原因なのだと薄ら己の思考を分析してみました。
楽しい、面白い、これはいける!というのと、書ける!は全くの別物なんですよね。
昨日は最高と思って書いていたのに次の日には面白いけど書くほどのシナリオが湧いてこない、昨日は溢れんばかりに湧いてきたのに、となって続きは書けない、となります。
数話書けても、そのうち全部内容が脳内上映リピートされ続け、もう十分では、となって書くのをやめてしまうのでしょうか。
書くのを飽きるのは面白くない、では無く、面白すぎてずっとそれが頭にあって、頭が疲れてそれについて考えるのを頭がやめてしまう反動みたいです。
面白と思っているということはドーパミンが出ているということ。
疲れますよね、それは。
なので、冷静になった後に書ける作品があったのなら、自分の作品がその余韻や作風を許可したということですね。
気持ちが昂りながら書く作品も良いですが、冷めた後に描き終えた途中の作品も読み直すと、やっぱり良いねとなります。
それに、次の日になったら内容をド忘れしてしまう作品も割とあります。
プロットは書いてあるんですが、すでにシナリオを組み立てることがもう出来ません。
その時は組み立てられるから書いたのですが、メモに数行。
普通に書けませんよ。
きっと脳内上映を繰り返しし過ぎてフィルムが擦り切れてしまったのかもしれません。
小説の書き初めは、まだキャラクターとか設定が思考に馴染んで無くてキャラ名とか忘れて、メモを見て名前を書く程です。
書いていって馴染む頃に漸くシナリオが頭に浮かびます。
しかし、二人目を馴染ませるのはさらに困難です。
世界観も脳内でまだはっきり作れてないのに。
シナリオは考えていてもキャラクター性については全く考えてないことは良くあります。
全く知らない人達を渾身のシナリオに登場させるのは凄く大変です。
私の場合はシナリオが先ですからね。
プロットを練りすぎると満足して書かないです。
そこも映画を上映し過ぎている弊害です。
満足満足。
以上、私の小説の形についてでした。