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1829年。偉大なる世祖嘉隆帝が没し、明命帝が大南帝国の皇帝に即位してから、9年が経った。明命帝は、父皇帝が外国勢力の手を借りて阮朝を創設し、この国に数多の外国人__とりわけ、白い肌に色の薄い目や髪をしたカトリック宣教師が闊歩することを許したのを苦々しく思っていた。その上、キリスト教は大南の民の間に着実に広がりつつあった。民が異国風の名前を名乗り、異国の言葉を話し、異国からもたらされた思想に傾倒することは明命帝にとって許し難い事態であった。
南圻の片隅に、深い森の中に隠された社(大南の村落単位)を2つも3つもまたいだ秘密の共同体__キリスト教徒のクレティアンテがある。そこでは、フランス人宣教師やカテキスタ(司祭の補佐)、キリスト教徒たちが、明命帝の焦りや怒りを露ほども知らず、平和につつましく暮らしている。
だが、そのうっそりと茂った森の中で、ある不穏な騒動がもちあがっていた。
__正月を過ぎた、冬の夜である。
十字架を掲げた教会を中心とした家々の群れからいくらか離れた場所にある、粗末な小屋の中で、怪しい集会が開かれていた。黙りこくったまま車座になって顔つきあわせる人々は、中央に置いたろうそくの火を見つめ、めいめいその日起きたことを思い返していた。
ろうそくの側に、ぽつんと置かれた物がある。蓋が開いた、小さな空箱だ。
重苦しい空気に耐えかねた誰かが、ぶるりと身を震わせ、音をたてて息を吐いた。それを合図にして、ある少年が声を発した。
「これより、聖歌隊特別会議を始める」
答える者はいなかった。少年は、唇を舐めて、言葉を続けた。
「さあさあみんな、隠し事はなしだぞ。腹を割って話し合おうや」
カンボジア風の衣をまとった小柄な少女が、じろりとその少年を見返した。
「いいか、名乗り出たのが誰だって、僕らは怒りゃしないからな。__先生のお菓子を勝手に食べたのは、誰なんだ?」
沈黙が落ちた。
会議を仕切る少年ピエトロ、カンボジア人のセシリア。マリア、ジャン、カトリーヌ、ミゲル、トマス、アンヌ。それが、この家に集まった面々の呼び名だった。彼らはほとんどが大南人で、西洋風の名前はただの洗礼名である。彼らはキリスト教徒であるから、名前や話し方を含めた生活の全てに西洋の文化が浸透している。
彼らは日々勉強に励みつつ(たまにはサボる)、聖歌隊として活動していた。毎朝毎夕合唱の練習をして、行事の際には信徒たちの前で聖歌を披露する。毎日長い時間共に過ごすことが多いためか、この8人はとても仲が良かった。
今彼らが集まっているのは、合唱の指導を務めるカテキスタの家だった。聖歌隊の子どもたちから「先生」と呼ばれるそのカテキスタは、今この場にはいない。少し離れた別のクレティアンテへ、フランス語の資料の貸借のため出かけている。
「訓先生が戻ってくるまでに、犯人を突き止めないと……」
ピエトロは苦り切って呟いた。マリアがそっと口を出す。
「あんた、どんなに怒られるか、わかんないわね」
事情はこうだ。朝の祈りの後で、カトリーヌがある老司祭に呼び止められ、不在の訓先生へのお土産を託された。箱の中身はフランス製のお菓子らしい。カトリーヌはそれをまっすぐカテキスタの家へ届け、涼しい陰に置いた。
その後、何度も彼ら聖歌隊の子どもたちが出入りし、カトリーヌが持ってきたその箱を目撃している。しかし、夕方になってピエトロがこの家にやってきた時、箱の蓋は開け放たれ、中身も空っぽになっていた。
「この中の誰かが食べたに決まってるんだ」
ピエトロは考えながら言った。教会から少し離れた訓の家を訪れる者は、彼ら以外には滅多にない。まして、置いてある物を勝手に食べる奴なんて。
のっぽの少年、ミゲルが提案した。
「もう、お菓子なんてもらわなかったことにすればいいんじゃない?」
「そうね、それが一番平和だわ」
カンボジア人の少女、セシリアも同意する。
だが、ピエトロは首を横に振った。
「いや、ダメだ。高文司祭が先生に、菓子の話をしてしまったら? 訓先生は『何の話ですか?』ってなって、それで菓子を食べたことがバレたら……」
怒り狂うカテキスタの姿をとっさに誰もが思い浮かべ、はあっと長い溜息をついた。
「一体、誰が食べたんだ?」
再びの問い。皆、口をつぐんでうつむいた。
たっぷりと時間をかけて、仲間たちの顔を見渡すピエトロ。彼を含め、誰も彼もが怪しい。大人しいアンヌは、その可愛らしい顔を緊張でひきつらせているし、その隣のしっかり者のカトリーヌは、口をきゅっと引き結んでいる。辛辣なマリアと、いつも眠そうなトマスはいつになく険しい顔で、お互いを睨みあう。善良なジャンはどこか落ち着かない様子で貧乏ゆすりして、小声でセシリアに文句を言われていた。ピエトロがそっちを向くと、セシリアは美しい瞳で挑発的に見返した。ミゲルはいつもと変わらず呑気な笑みを浮かべていたが、ピエトロとは目も合わせない。