匂いの糸
春の、甘い匂いがする。
匂いの記憶は強烈だ。
鼻がつんとするほど冷たい冬の匂いは、君と初めて出かけた季節の匂い。
むっとする情熱的な夏の匂いは、君に抱かれて眠った日々の匂い。
香ばしくて切ない秋の匂いは、君とお別れした日の匂い。
そして、甘いくせにどこかひんやりとしたこの匂いは、春の匂い。
永遠を誓った日の、匂い。
雨の匂いからは君と歩いた商店街を、カラっと晴れた午後の匂いからは君の背中を、思い出す。
匂いの記憶は強烈だ。
君がくれた匂いの記憶と、二人で育てた時間の記憶が重なって、混ざって、つながって、一本の糸になる。
糸は、君と僕とを、つないでく。
でも、君はきっと忘れてしまうから。二人で育てた時間を忘れてしまうから。
そうしたら糸はきっと切れてしまう。
ほどけて、ほつれて、バラバラになってしまうから。
だから僕は忘れない。
いつかまた君に会ったとき、この匂いの記憶が、君が僕を見つける助けになるのなら。
今はただ辛くても、君のために僕はたくさんの匂いを拾っていくね。
君と僕とをつなぐ、糸。
その糸を色づかせるのは、いつだって君のシュッとしたシトラスの匂いだった。
今、色なんてない、か細くて弱弱しいこの糸が、いつか再び色づく日が来ることを願って。
今は、ただ、紛い物のシトラスが、幻想を見せる。