ネレン湖と丘の上の大岩
婆様にまた、語って頂きました。
婆の知る話はもう無いのか、と?
昔話もまだ幾つか位なら、無い事もないがの。
学者の先生と言うても、こうなるとまるで子供の様じゃな。
ふむ、じゃあこんな話ゃあ、ご存知かね。
村の東に、ネレンちゅう湖が有るじゃろ。
そのすぐ側の丘に、でっけえ岩が一つ乗っかっとるんじゃが、それはもう見なすったかね。
これは、その大岩にまつわる話じゃ。
まだこの村が出来て間もない頃は、辺りには空いた土地もそこそこ有ったで、他所から人がやって来ても、居つくだけの余裕があった。
ある時、儂のような婆と、若い娘の二人連れが村長の所へやって来て、この村に住みたいと言うて来た。
二人とも身なりは粗末じゃったが、娘はなかなかの別嬪で、婆の方は顔に大きな傷跡があるせいでいささか恐ろしげに見えたが、話す限りではおかしな所も見当たらなんだ。
土地は有ったし、娘が増えるとなれば村にとって悪い事でもなし、婆は老い先短い身じゃと思うて、村長は二人の願いを聞き入れた。
村長が二人を連れて、村の空いた土地を案内して廻ったんじゃが、結局二人は村の東のはずれ辺り、ネレンの湖近く、丘の麓の土地を選んだ。
もっと村の真ん中近くの方が良いのではないか、と村長は言うたが、二人はここが良いと言うもんじゃから、村長はそれで手を打った。
家の方はどうするか、と訊いた所、自分達で何とかすると言う。
はて怪しげな、と思いはした物の、今更話を反故にするのもどうかと考えた村長は、牛小屋の隅を家が出来るまでの仮住まいに貸して、成り行きに任せる事にした。
次の日から、二人は日が昇る頃には与えられた土地へと出かけて、日の暮れる頃には牛小屋へと戻ってくる様になった。
三日目、二人がどうしておるのやらと村長が様子を見に行くと、驚いた事に娘が一人で家を建てる為に大工仕事をこなしておった。
森から切り出したんじゃろう丸太を山と積み、斧を振るい鉈で削り、肩に大きな丸太を軽々と担いでは、苦も無く壁に組み上げていく。
時折婆が手伝おうとするが、「無理な事はするな」と娘に言われて、結局力仕事は娘一人で片付ける。
さてこれはえらい者を住み着かせてしもうたか、と村長は不安になった。
かといって、下手な事をすればこちらに何があるか知れたものではない。
晩になって、村長は牛小屋へ戻ってきた娘と話をしたが、「村に要らぬ迷惑は掛けぬ」と娘が言うので、ひとまず様子を見る事にした。
五日もすると、二人で暮らすには充分な大きさの家が出来上がった。
実際の所、二人は村に迷惑を掛ける様子は見えなんだ。
小さな畑を作り、湖で魚を釣り、足らぬものが有れば村へとやって来て用立てる。
娘がやって来ると村の若い男がちょっかいを掛けたりはしたが、娘は相手をせなんだ。
中には力ずくで娘を物にしようとした愚か者も居ったが、なにしろ力持ちの娘のこと、やり返されて痛い目を見た上に、事の始終が村の衆目に触れる所じゃったので、娘が咎められる様な事も無かった。
呼びさえすれば行事や祭にはちゃんと顔を出したので、丸きり馴染まぬという訳ではなかったが、一番初めに村長が期待した程には村にとって足しにならぬ。
大事とは言えぬにせよ、二人は村長にとっては不安の種じゃった。
もっとも三年もすると、娘の事は単に変わり者程度の扱いになり、ほとんど誰も気にせん様になった。
滅多に顔を見せぬ婆の方はと言えば、それこそ何という事も無く、村人の間で話の種になることすら稀じゃった。
二人が村にやってきて十年程たった頃、皆はある事に気がついた。
娘の姿は、それこそ村に来た頃とほとんど変わりが無かった。
いささか気味が悪いと思う者も居ったが、とはいえ娘も婆も何か村に悪い事をしたという訳でもない。
村の衆は娘をどう扱うべきか、時々話し合うたりもしたが、結論は出なんだ。
秋口のある日、村の衆は、いつもは来るはずの娘が、その時に限って村へと来ておらなんだ事に気がついた。
普段であれば、パンやら麻糸やらビールやらを用立てる為に、娘は週に一度、村へ来ておった。
娘が村へやって来るのは必ず水曜じゃったが、その週は土曜になっても娘は村へ現われなんだ。
確かに娘にはいささか妙な所は有るが、村にとって慣れた事柄に変わりが起こる、というのは皆どことなく居心地が悪い。
村の衆は村長に相談し、結局村長が様子を見に行くという事になった。
村長が二人の家へ着いてみると、表には蓋の開いた空の棺が置いてあり、ちょうど娘が婆を抱きかかえて家から出てくる所じゃった。
「どうした、婆は死んだのか」
村長が尋ねると、娘はこう答えた。
「大恩有る我が友は時が尽きた。如何様にしても、老いには打ち勝てなんだ」
寂しげな顔で俯く娘の、その物言いに村長は首を傾げはしたが、丁寧にお悔やみを述べて、埋葬の手続きをするよう娘に言った。
「要らぬ。全て我が手で行う」
娘は村長の申し出を断ると、婆の亡骸をそっと棺へと収め、鋤を縄で背中に背負ってから、今度はその棺ごと抱きかかえた。
そのまま歩き出した娘を村長が追うたところ、娘はすぐ近くの丘の頂へと登り、鋤で深く穴を掘る。
いかなる怪力か、ただ一人で棺をその穴へと静かに納めると、土を埋め戻した。
「娘御よ、御主は一体何者か」
恐れを感じながら、村長が問う。
「さすれば、見よ」
そう言うと、娘は大きな竜へと姿を変じた。
人の背丈の三倍は有ろうかと言う高さの、大きな白い竜じゃった。
鋭い鱗にごつごつとした顔は恐ろしかったが、その目は寂しげな娘のそれと見て取れた。
竜は不意に飛び立つと、辺りを暫し飛び回り、湖の向こう岸に有った大岩を掴み取ると、丘の上へと舞い戻った。
「全てはいずれ土と還る。標とて同じ。
されど我が時は、世の滅びまで続く。
我が思い出も同じ」
竜はそう言って、婆の亡骸を葬った場所に大岩を置くと、また空へ舞い上がり、湖のまわりを一周した後、村長の前へと戻って来た。
「この地は、我が友の終の住処となった。
静かで、良い土地であった。
せめてもの礼に、湖に祝福を授けた。
ネレンの湖有る限り、この標有る限り、この村は飢えぬ」
竜はそう言って、空の遥か高くへと飛び去ったそうじゃ。
数年後、日照りの年があったが、村長は竜の言葉を思い出して、村の者に湖へと網を入れさせた。
何度網を入れても、必ず村の衆全てに行き渡るだけの魚が獲れ、お陰で飢え死にする者を出さずに済んだ。
それからも、幾度か日照りや蝗で作物が獲れなんだ年は、必ず湖の魚が必要なだけ獲れたという事じゃ。
二人の家は、大層昔に無くなってしもうたよ。
それでも毎年秋になると、あの大岩には魚だの栗の実だの、何かしら供えられておるのを見かけるが、竜の姿は見た事が無いのう。