第2曲:誇れる男に
健三郎は笑いを堪え切れなかった。
「ははっ、何黙りこくっとんじゃい!」
信の頭を叩いた。その表情には優しさが感じられる。
「おいお前らも歌おいや、信っ、お前は――北山たけし『誇れる男に』だったな」
健三郎がパネルでパパっと入力を完了した。
「さてと一週間振りだけえのお、練習して来ただろうなあ」
一週間で違いが出ようものなら、誰だって腐れずに続けられるだろう。健三郎は冷やかし、いやらしく微笑んだ。腕を組んでお手並み拝見という具合に。
信は苦笑いするも目が笑っていない。気追っているのだ。
観客は二人。たった二人である。
どうして緊張する必要があろうか。教わろうとしているのに、どうして失敗することをこうも恐れているのだろうか。マイクを右手で持つ。
「左手!」
健三郎は左手で持つ様に教えている。左手は右脳が関わっているので、美的センスを養うためにもそこを鍛えるのが良いと考えているのだ。
ダダダンデュ~ンタタンタンタン♪ タラララァ~ララァ~ン♪
タッタッタランタッタララン♪ デュルルルゥ~ルルゥ~♪
タッタッタランタッタララン♪ ヒュ~ウウゥ~ルルルゥゥ~♪
「がきぃぃ~のぉお~」
「ダメダメ! 汚いっ!!」
曲が停止される。
脱力し、信はマイクをだらりと下ろす。無念だろう。
「どうすれば良いですか?」
「はああ、どうすれば良いですかなんて言葉が出て来る時点でアウト。もっと綺麗に歌え。(ん)がぁあきぃい~のぉお~こぉろぉおかぁああ(ん)らぁああ~♪」
自分の指を指揮棒にして、目を伏せて軽く歌い上げる。まるで鼻歌だ。
近付いて、信は健三郎の口元を凝視していた。
「何だ、オカマか!?」
「悔しいって訳じゃないですけど、師匠が出来るのにどうして僕は出来ないのかなって」
「そりゃあ年季が違うわいや。ふざけんじゃあねえよ」
「がきぃぃ~のぉお~」
「だけ汚いの! 笑って歌えとは言ったが、顔引きつらせて上向いて歌うバカがどこおっだ。可笑しくて腹が痛いわ! がなるなんて酷いわ、のう丞?」
笑いが噴き出すのを堪えている丞がいる。
「俺も腹痛いっす」
笑われたって良いのだ。信は未だ片手で数える程に通ったに過ぎない。それでもこの先に歌が上手になる姿を想像できているかと言えば、彼自身そんな事は全く出来てはいなかった。プロになるでもなく、テレビ番組で持て囃されているカラオケバトルに出演するでもなく、漠然と"誇れる男"になることが信の動機なのだ。"誇れる男"になったなと、この健三郎が果たして太鼓判を押すだろうか。
「んって鼻にかけてみろ、んって。ジョーカーが何だか分かるか?」
「分からないです」
「ジョーカーってのは簡単に抜いちゃあいけねえ隠された"切り札"だ。んが五十音でのジョーカー、アルファベットならZ。鼻を使う理由が分かったか」
「分からないです」
「分からないです分からないですって、お前は赤ちゃんか!」
「赤ちゃんじゃないです」
「歌は自分が通って来た道を歌うんだけ。年季があるもんの歌とは違うの。どうしようとも今この瞬間に俺みたいに上手くなるなんてことは不可能」
「不可能……」
「不可能だがな、何考えとっだ。おい見てみい丞、こいつ一丁前に落ち込んどるぞい」
目に見えて信は元気を無くしていた。
自己嫌悪。調子が良い時は本当に表情を輝かせているが、調子が悪いとなるとトコトコ悪い。それを人に隠せない、表に出してしまうそんな感情のコントロールに稚拙さが留まる。
分からないから直ぐに答えを求めるのは悪い癖だ。自分で考える頭を無くしバカになる――否、既にバカなのだろう。だから恥ずかし気もなく答えを求めるのだ。大の大人が見苦しい。健三郎の言うが如く赤ん坊の発言なら、可愛らしくも微笑ましい。それがどうだ、この信はもう25歳になる世間から見れば大人だ。大人になんかなりたくなかったお前ら社会が勝手に大人扱いするからだ、僕は子供で居たい――などと喚き散らせば、大人げないを通り越し最早呆れる程に情けない。
死んでも信はそんな事を言えないのだ。自分が子供らしい事は本人が十分に分かっているはずだ。信自身がそれを飲み込んで受け入れて、只管に正直に素直に生きて行く道しか、彼に残されていないのであれば、信は知らぬ間にその道を歩んでいたのである。
肝心なのは落ち込まないこと。
これさえ乗り越えられれば、信は輝き続けられるだろう。気分の不安定さに疲れを知らず、ポジティブに歩んで行ける。そして周りが助けてくれる。そういう好循環を作る性質が信には宿っているのだ。
気合を入れ直して、信は一通り歌い切った。
「出来ることから、基礎を大事にする。家でも風で倒れるようじゃダメなんよ。まあ信お前の場合は一般常識から身に付けてかんと」
かあぁ~っと言いながら、健三郎は頭を振った。
否定の意味である。残念や諦めもやや含まれている。
「真っ直ぐでええ所もある、優しいしのぉ。だけどお前はメダカじゃい。救いようがない」
丞は腹を抱えて笑っている。
「優しいだけはバカ。人がええのと優しいのとは違う」
「どういう事ですか?」
「またお前は訊く! ええか俺は善悪の違いが分かる。自分がやって来た事だから、良い事と悪い事の聞き分けが出来る。お前はただ優しいだけメリハリがない。冷たくない人間は優しくないんよ。悪い事ができん奴に良い事ができる訳がない。お前に人助けができるか?」
信は口を噤んだままでいた。
「できんだら? できるはずがない! 言っとくけど、人助けは"人殺し"よりも難しいけんな。助けた後どうなると思う? 裏切られるぞい。あいつらは簡単に人を裏切りよる。俺は何人も歌を教えて来たが、そいつら全員俺から離れて行ったわ。おまけに見てみ、俺が教えてやって上手くなった癖に、わが勝手に上手くなったみてえな面しやがって!」
「天狗ってことですか?」
「嗚呼、天狗じゃ。あの鼻へし折ってやりたいわ」
「で、他の人はどこに行っちゃったんですか?」
「引っこ抜いて行きおったわ! 別の集まり作ってそこで歌っとるわ」
「どうするんですか?」
「どうもせんわい。俺がおったら奴ら顔伏せて、しょんぼりしとる。俺がおったら歌えんで」
「そうなんですね……」
「信、お前は裏切ってくれるなよ? ええな?」
健三郎の何とも切なげな表情に、信は目を見開いた。
何も言うことが出来なかった。ただ真剣な表情のままでいた。健三郎に何もかも見透かされている様で、信は優しいだけだと言われ心が痛んだ。
僕は薄情な人間かも知れないと、一瞬でも思ってしまった。
そんな自分に恥じた信だからこそ、返事が出来なかったのである。
嘘でも、裏切らないと断言出来ない自分自身が何よりも情けなかった。