II 5月(2)
* * *
田中正彦は3回目の「現代文学史」の講義に臨むところだった。
前回の講義は1回目の補足として谷崎潤一郎と芥川龍之介に触れた。
また、1回目で敢えて触れなかった詩歌の分野についての説明がなされた。
島崎藤村、北原白秋、石川啄木、正岡子規、萩原朔太郎、宮澤賢治……他にも田中が知っている名前はいくつも聞こえた。
教科書をめくりながら聞いていた田中だが、そこに出ていない名前もいくつか紛れていたことに気がついた。
どうせ全部は覚えられない。
教科書に出てこないなら省略ってことでよかろう。
田中はそう考えると、急いでノートに書くことをやめた。
そして今回、講義はようやく昭和へと入った。
第二次大戦前から戦時中までの文学、その1。
横光利一、川端康成、梶井基次郎、堀辰雄、小林多喜二……。
田中でも知っている名前がまた続々と聞こえた。
先生は代表的な作家と、「派」、「主義」をまとめて板書してくれたが、田中の頭には作家名はすんなり入るものの、「派」や「主義」は右から左へ抜けてしまうものだった。
抜けてしまうけれども、せっかく板書してくれたのだからそれはノートに取っておくとしよう。
田中はそう決意した。
視力がよい田中は大きなあくびをしたあと、癖字で読みにくい先生の板書を写し始めた。
先生の字に対して田中が心中で悪態をつかなかったのは、自分の筆跡がどんなものなのかよく分かっているからだった。
*
いつになく真面目にノートを取っていた田中は、ちびた鉛筆で書いた志賀直哉の名前を「直也」と誤っていたことに気づいた。
志賀は戦前のこの頃に『暗夜行路』を完成させたらしい。
他の作家や『暗夜行路』はともかく、『城の崎にて』の作者に失礼は許されない。
田中は年季もののペンケースから、だいぶ小さくなった消しゴムを取り出そうとした。
田中は使い込んだ文具を好んでいたのだ。
小さくなった消しゴム、つまり黒ずんで円くなった消しゴムは、油断するとすぐどこかに転がるものだった。
リードから自由になった子犬みたいだと、田中は何度も思ったものだ。
消しカスを払っているうちに、左手が消しゴムに当たってしまった。
今もまた、子犬みたいだと思っている自分がいた。
転がっていく消しゴムを目で追いながらぼんやりしてしまった。
田中の消しゴムはいつものように元気よく転がり続けた。
誰もいないひとつ前の席を通り越し、ふたつ前の席に座っている日本人離れした服装の女子の椅子の下に到達すると、休憩するかのように止まった。
オレが行くのを待っているみたいだな、と田中は思った。
ふたつ前の席の椅子の下を見ていた田中は、消しゴムの行く先をしっかり把握すると、顔を正面に向けた。
日本人離れした服装があらためて目に留まった。
田中はピンときた。
(もしや、この女がヒデカズが言ってた留学生なのか?)
彼女のまっすぐな黒髪は、田中には外国のものなのかなんなのか分からない茶色い服の肩を少し越えていた。
田中が少し前屈みになって自分の席から見た範囲では……彼女の背はそんなに高くない。
恵子と大差はない気がする。
広瀬のような貫禄のある体格でもない。
どっちかと言えば彼女はやせているのだろう。
肌の色は不明。
よく見えないからだった。
そんなことを考えていると、彼女が机の左側に置いてあった教科書を手に取るのが見えた。
彼女の横顔がわずかながら田中の目に映った。
肌の色は濃いものではないと田中は分かった。
(これだという言葉は出てこないが)
田中は彼女が持つ雰囲気について考えていた。
(「妖しい」ってのは、こんな感じなんかね?)
そこまで思ってから、田中は我に返った。
消しゴムを迎えに行かねばなるまい。
残念なことに、ひとつ前の席は無人、彼女の隣はどちらも無人、田中の隣も両方無人だ。
田中のうしろも無人だったが、こっそり机の下に潜り込んで彼女の椅子まで行くわけにはいかない。
最悪叫ばれたり、変な誤解をされても困る。
息をひとつ吐いてから、田中は丸めたノートを右手に持って腕を伸ばした。
それだけでは届かなかったので、机に身を乗り出してどうにか日本人離れした服装をかすめることに成功した。
そこは彼女の肩甲骨の下辺りだろうと田中は思った。
あら、という声がした。
「ごめんなさい、そこの人、すみません」
小声で田中は呼びかけていた。
我ながらぎこちない言い回しだと思った。
(日本語は通じるよな、この講義を受けてるぐらいなんだからな)
彼女は振り向いて田中を見た。
右手の人差し指で自分の顔を指しながら、「私?」とでも言うように小首を傾げて見せた。
田中は細かく数回うなずいた。
「どうかしたの?」
無人の席に身を乗り出して、同じく身を乗り出している田中に、小さな声で彼女は言った。
自然な日本語だった。
留学生ではなさそうだと感じて、田中はほっとした。
彼女の顔が田中の目の前に見えている。
大きな目にはっきりした眉、すっとした鼻、きりっとした唇。
意志が強そうな顔の日本女性だと田中は思った。
「お願いがあって声をかけたんですが」
「はい」
講義中なのでお互いにひそひそと話した。
「あなたの椅子の下にオレの消しゴムが転がって……」
彼女は田中が言い終わらないうちに自分が座っている椅子の下を覗き込んでいた。
「ホントだ」
そう言うと、彼女はしなやかな動きで消しゴムを拾い、堂々と立ち上がって田中の前の席に移動して腰かけると、間近で田中に渡した。
彼女は大物かもしれないと田中は思うことになった。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。助かりました」
田中は普通に腰かけ直し、軽く頭を下げた。
「ずいぶんかわいい消しゴムなのね」
話しかけられた田中は返事に困った。
彼女は田中が机に広げているものを見渡した。
「ふうん」
「ん? ふうん、てのはなんですか?」
「物を大切にする人なんだね、あなたは」
彼女はそう言うとにこっとした。
田中は笑顔を浮かべて「それはどうも」と返したつもりだった。
彼女は「フフッ」と笑うと、こう言った。
「笑っちゃってごめん。笑顔を返してくれたんだと思うけど、すごーくぎこちなく見えたから、つい。ごめんね」
田中は自分の表情が不合格なのだと気がついた。
オレの作り笑いは一瞬にしてばれるものなのか。
自分ではうまくできていると思っていたのだが。
「あなたは田中くん、て言うの?」
急に自分の苗字を呼ばれて、田中は驚いた。
「なんでオレの苗字」
彼女は田中が言い終わらないうちに答えた。
「そこの裏返ってる教科書に、大文字で書いてあるから」
彼女はちょいという感じで、開かれることもなく机上に放置された教科書を指さした。
田中が釣られて視線を動かすと、「TANAKA」という文字が見えた。
── 自分の持ち物には記名くらいするものなの。
田中の脳裏に、先日恵子に言われてしぶしぶ油性ペンで自筆した場面がすぐに浮上した。
── なくしたらたいへんでしょう?
小学生に戻ったような気がしたことも続いて浮上してきた。
「私は佐野って言うの。佐野幸美。よろしくね、田中くん」
「お、おお。こちらこそ、よろしく」
佐野ににっこりされたので、田中はもう一度笑顔を浮かべてみた、つもりだった。
佐野はもう一度「フフッ」と笑うと、こう言った。
「目が座ってるからヘンに見えるんだよ」
その眉毛は、しかめっ面の眉毛。
眉間に寄ってる、怖い眉毛。
佐野はそう続けた。
「演技だったら、もっと自然にしないとすぐダメ出しされるよ」
会話が進むにつれ、ひそひそ話だったはずの声は普通の音量になっている。
田中は周囲の席にいる連中の視線がちょっと気になってきた。
服装だけでかなり目立つ上に、佐野の声はよく響くと感じていた。
(だいたい、佐野の服装はなんだ? どっかの国の民族衣装なのか? こんなカッコじゃさぞ目立つだろう)
田中はそんな佐野と会話している自分まで目立っているのではなかろうかと慌てることになった。
田中自身は自分が生まれてこの方、決して目立つようなことはせず平穏に学校生活を送ってきたつもりでいたのだった。
「大丈夫だよ、田中くん」
「ん?」
「講義中だから、みんなは前を向いて先生の話を聞いてる。マイクを使ってる先生の声は大きいし、私たちはいちばんうしろの方にいるんだし」
佐野が言ったとおり、増幅された先生の声はとてもよく聞こえている。
レモンを爆弾にした男について解説しているのが田中の耳に届いている。
泰然自若とした佐野が笑顔を見せている。
あるいは傍若無人だろうか。
「平気平気」
先生の声よりずっと小さいのに、佐野の声は劣化することなく負けずに耳に届いた。
(この女は……)
田中にとって佐野幸美は強い印象を残すことになった。
* * *
翌週、前回と同じ席に座っていた田中の前の席は、前回同様に無人だった。
もうひとつ前の席には、前回と同じく日本人離れした服装の佐野がいた。
前回とは色もデザインも異なっているが、目立っていることに変わりはない。
オレンジ色の服の上に、腰の周りから下へと紫の布が巻かれているような、奇抜なファッション・センスなのだから。
田中は周囲の席を見回した。
佐野の隣はどちらも無人、田中の隣も両方無人、田中のうしろも無人。
要するに前回と同じだった。
このままでは今いるこの席がリザーヴ・シートになってしまうのではなかろうか。
田中は危惧し始めていた。
佐野の近所は危険かもしれない。
とりあえず、田中は消しゴムを転がさないように細心の注意を払った。
*
先生は前回の続きとなる詩歌の分野についての説明をしていた。
三好達治、中原中也、高村光太郎……。
田中でも知っている詩人の名前がこの日も続々と聞こえる、かと思いきや、田中が知っている名前はこの三人だけだった。
特に意識したことはなかったが、田中は自分の興味は小説の方にあるのだと気がついた。
*
講義が平和なうちに終わると、青いバッグを手にした田中にオレンジ色の服を着た佐野が話しかけてきた。
「今日は落とさなかったね、消しゴムくん」
佐野は田中に向かってにこりとした。
平たいショルダー・バッグを左肩に掛けていた。
布製に見えたが、田中はその布がなんと呼ばれている材質か分からなかった。
色はくすんだ緑だった。
「消しゴムくんて、まさかオレのことじゃないだろうな、佐野」
「え? まさか、違うよ。ええっと、そうだ、田中くん」
佐野は焦って答えたに違いない。
田中にはそう見えた。
「ほら、前回は消しゴムを拾ってあげたから」
「そうだがな……苗字ぐらいはちゃんと覚えてくれ」
田中はあらためて佐野に言うことにした。
「田中です。よろしく」
佐野はもう一度にこりとして返した。
「じゃあ、私もあらためて」
佐野は姿勢を正してから田中に言った。
「佐野幸美です。よろしくね、田中くん」
田中は佐野について感じた「妖しい」という印象の文字を変えることにした。
読みは据え置くことにして、田中から見た佐野の印象は「怪しい」になった。
* * *
次の週、田中は前回と違う席に腰かけていた。
佐野が例の席に座るなら、自分はその対称となる位置に座れば安全なのではないか。
そう考えて、田中は早めに教室に入り、想定した席を確保できた。
同じ講義を取っている連中が次々と席を埋めていくのを眺めていた田中は、自分の隣が無人であることを確認して満足していた。
席がすべて埋まるほどの人数がいるはずないし、これまで隣の席に誰かがいたことはない。
これで心安らかに講義に臨めるだろう。
田中はそう思った。
やがて講師の先生が来た。
先生の方へ視線を向ける途中で、自分が前回まで座っていた席が田中の視界に入った。
そこは無人になっていた。
田中は納得した気持ちになった。
しかし次の瞬間、はたと気づいた。
(佐野があの席にいない)
佐野を心配しているのではない。
佐野だって欠席することはあるだろうと思っただけのことだった。
*
田中は机の上に使い込んだ文具をまず置いた。
次に「TANAKA」と記名した教科書とノートを順に並べた。
「ぎりぎりセーフ、だよね」
その声は、たった今田中の隣に腰を下ろした人物のものだった。
眼鏡をかけた女子が田中の目に映っていた。
彼女の服装は奇抜で、日本人離れしている。
明るい緑色の地に銀色のラメ(でいいのだろうか)の細い線が斜めにいくつも入っている。
ワンピースかと思う。
それと、ショールというものだったか、三角形に折った薄く赤い布を肩から羽織っている。
「田中くんの隣が空いててよかったよ」
左手で両目を押さえた田中の耳に、嬉しそうな声が届いた。
「この教室に入ってきてパッと目についた席がここで、隣に座っているのが田中くんだなんて、偶然とは思えないなあ」
(イヤ、ただの偶然だ)
「やっぱり、世界は不思議で満ちているって言うのかしら」
(なんだって、オイ)
田中は思い出した。
アイドル好きのヒデカズが言ってたことを。
東南アジアかどこかの留学生みたいな服装で、日本語が上手で、「世界は不思議で満ちている」、なんて言うヤツ……。
ヒデカズは男か女かについては言わなかった。
だがな。
眼鏡をかけていようがなかろうが、こんなヤツが何人もいるはずがない。
隣にいるヤツの他にそんなヤツがこの世に存在しているとはとても思えない。
(もしやとは思ったが、正体は佐野か。人騒がせなヤツめ)
「今日もよろしくね、田中くん」
眼鏡をかけた佐野がにこりとして、すぐそばで自分の目を見ている。
「おお……こちらこそ、よろしく、な」
田中は笑顔を浮かべようとした。
しかし、すぐにやめた。
*
先生の講義が始まった。
昭和10年に芥川賞と直木賞が創設された、と聞こえた。
「なんだか元気がないみたいだね。大丈夫?」
「心配してもらってスマンな、佐野」
平静を装っている田中に、太宰治は芥川賞を受賞することができなかった、と聞こえた。
「村上春樹も芥川賞は取ってないよね」
佐野が田中に話しかけた。
芥川龍之介もな。
田中はそう答えようとして、やめた。
*
現代文学史。
田中正彦は無事に単位が取れるのか不安になった。