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Desafinado(調子はずれ)  作者: カワヤマソラヒト
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I 4月(7)


    *      *      *


 田中正彦は、過ぎたことは振り返らないたちだった。

 いくら「過去」をどうにかしたいと思っても、どうすることもできない。

 なら、エネルギーはこれからのことに使うのがいいに決まっている。

 だから覚えておく必要がないと思ったことは積極的に忘れた。

 そう思えたことは無駄なことだと判断していたのだ。

 すべての事象にいちいち白黒つけていたわけではない。

 さすがにそれは不可能だ。

 ほとんどはなんの判断もせずに、そのまま時がどうにかしていくのに任せていた。

 田中にとって「思い出」と呼べるものは、そんなふうにぼうっとやり過ごしたことに含まれていた。

 あらゆる「思い出」を否定するわけではない。

 自分にだって思い出はいくつもある。

 善きにつけ悪しきにつけ、ガラクタのようにあるはずだ。

 ただ過去である以上、わざわざ思い出す必要はない。

 不意に思いがけない場面で記憶の底の方から勝手に浮上してくることがあるだけだ。

 田中の心の森の奥の湖にいる魚の仕業で。

 田中はそんなふうに「思い出」という過去を認識していた。

 そのほとんどは湖の底の奥深くで埋もれていく。

 田中は何もせずどれもこれもほったらかしにして、それらが劣化し消えていくのを待つだけなのだ。

 自分が完全に忘れたことなら、それが事実であろうがなかろうが何も感じなかった。

 無きに等しいからだ。

 しかし、記憶がわずかでも残っている場合、田中はつい極端に反応してしまうことがあった。

 心の森の奥の湖で餌を見つけた魚のように。


      *


 田中のすぐ目の前に小野が立っている。

 小野は田中のまだ色あせていない記憶に手を伸ばしてきた。

 湖に餌が蒔かれて、魚は騒ぎだした。

 小野の言葉はぼうっとやり過ごすわけにはいかないものになっていた。

 田中の視界の中央で、小野の唇が静かに動いた。

 広瀬と土井は田中の視界から消えた。


「私は田中くんをなんて呼んだらいいのかな?」

「なんて呼んだらって、なんでだ?」

「呼んでほしくない、かな……」

「イヤ、そんなわけではないのだが」

「マサヒコくん?」

「うわっ、それはキツイな。それはダメだ」


 田中はしどろもどろになってきた。


「名前で呼ぶのは、よくないかな?」

「んー、よくないってことではないのだが」

「あっ、分かった。慣れてないんでしょう?」

「そのとおりだ。まったく慣れてないし、慣れるとは思えんのだ」

「ふふ、照れ屋さん」

「照れ屋さん?」

「そうよ、照れ屋さん」


 小野は楽しそうに微笑んでいる。


「参ったな……」


 女の子に親しくされるのは悪い気分ではない。

 だがこんなに積極的に切り込んでくるのは不可解だ。

 なんでそんなことができるのか。

 おまけに「照れ屋さん」なんて笑われてしまう始末。

 どうしたもんだろうか。

 田中は不測の事態に見舞われていた。


「なら……今のところは普通に、田中くん、でいい?」

「んー、そうだな、それでお願いします」

「田中くんは、怪しい人だね」

「ん? 怪しいだって?」

「それに、真面目な人」

「んー……」

「なんだか『ん』が多いのね」


 小野がさびしそうな表情になったので、田中は慌てた。


「お、小野さん」

「恵子でいいよ」

「しかしだな」

「急すぎる?」

「……小野さんがよければ、いいとは思うのだが」

「では、『恵子』でお願いします」


 小野はぺこりと頭を下げた。


「お、おお。こ、こちらこそ……小野さん」

「田中くん」

「ハイ」

「『恵子』でお願いしますって頼んだばかりです」

「スマン」


 田中はぺこりと頭を下げた。


「では、やり直し」

「やり直しって、何を」

「はいっ」


 小野は「どうぞ」と言うように右手を田中へ差し伸べた。

 釣られた田中はこう言った。


「よ、よろしく恵子、さん」


 恵子はにっこりしながら田中に言った。


「これで、田中くんと私は友だちだね」

「友だち?」

「うん。まず、友だち」


 恵子の優しい眼差しに、田中は気づいた。


「『さん』は、あとではずしてね」


 田中は広瀬と土井が近づいてくるのに気づいた。

 田中の視線の先に目を移すと、恵子は言った。


「広瀬くん、こんにちは」

「小野さん、こんにちは」


 ぽかんとしている田中に気づいて、広瀬が言った。


「ぼくと小野さんが挨拶しているの、そんなに不思議?」

「不思議と言うかだな……知り合いだったのか」

「なんだよ田中。ぼくもバスの一件で小野さんを覚えているし、自己紹介の先頭だったこともあって他の人より印象が強いよ。小野さんだってぼくとおんなじような感じでしょ?」

「うん、そう。私も広瀬くんをバスのときから知っているし、自己紹介は広瀬くんが最後だったから」

「ということで、いかがですか」


 広瀬は田中に向かってにこりとした。。

 田中は言葉が出なかった。

 広瀬と田中の会話を聞いてから、恵子は土井にも声をかけた。


「土井くん、こんにちは。体調はどうですか?」

「ああ……小野さん?」


 田中は広瀬をちらっと見た。

 察した広瀬は仲介に出た。


「小野さんはね、土井が死んでたときにバスの席を代わってくれたんだよ」

「そうだったか……ごめんなさい、迷惑かけてしまって」


 土井は恵子に頭を下げた。


「そんな、いいのに。気にしないで、土井くん」

「でね、小野さん」

「はい」

「土井はね、バスに戻ってからあとのことは、ほぼ覚えてないらしいんだ」

「オイそうなのか、土井?」


 恵子が広瀬の言葉に驚いた表情をする前に、田中が素っ頓狂な声を出した。

 広瀬の言葉は田中にも驚きだったのだ。

 恵子は田中の声で二重に驚いてしまった。


「田中、小野さんを脅かすなんてひどいな」


 広瀬は呆れた様子で言った。


「ん?」


 田中は恵子の顔を見た。

 うろたえたかのように恵子は言った。


「あ、大丈夫だからね、大丈夫」


 恵子は両手を胸の前に挙げ、手のひらを田中に見せていた。

 恵子の向こうでカーテンが揺れているのが田中に見えた。

 さっきまで恵子が座っていた席からちょっとうしろにあるふたつの窓が開いていた。

 緩やかな風がすっと吹いてくる。

 前のドアから誰かと誰かが出て行って、教室にいるのは自分たち四人だけだと分かった。


「なんだ田中、ボクには田中の顔が赤くなってる気がするぞ」


 土井の細い声で我に返ると、田中は広瀬が「くくく」と笑う直前のように見えた。


「田中くんて照れ屋さんだと思うでしょう? 土井くんも広瀬くんも」


 土井も広瀬も一も二もなく恵子の意見に賛同して3回ほどうなずいた。


(オイ、またなんでこう、オレだけ……)


 田中は自分が負けそうになっていると気づいた。


「田中がどうして照れているのか、ぼくには不思議なんだけどな」


 田中は広瀬に突っ込まれてしまった。


「小野さんを意識しているってことでいいのかな?」

「なんだって」


 広瀬に言われてみると、恵子を意識しているということが否定できない。

 田中は何か言い返そうとしたが、言葉が出なかった。


「おや、田中くん、私に興味を持ってくれたの?」


 恵子は田中に向かってにっこり笑いかけた。

 その表情に田中はどぎまぎした。

 土井も広瀬も二歩ぐらい退いて、田中と恵子のやりとりを見ていた。

 田中にはそのふたりがにやけているのが分かった。


(冷たいヤツらめ)


 田中は思った。


(だが、立場が逆ならオレもそうしてるだろうし、さっきの広瀬より強烈に突っ込みを入れるよな)


 そう気がつくと、田中は広瀬にも土井にも何も言えなかった。

 それにしても自分が無口すぎるのはおかしい。

 ヘンだ。

 田中がそう自覚したところで、その先は行き止まりの冷たい壁だった。


「みんなでお昼を食べに行くの?」

「うん。小野さんもどう?」


 恵子に答えたのは広瀬だった。


「ありがとう、広瀬くん。でもごめん。今日は用事があって、すぐ帰らないといけないの」

「そうなんだ。残念だね、田中」

「広瀬、なんでオレに振るんだ?」


 恵子は笑っていた。


「また今度誘うよ、小野さん。それでいいでしょ、田中」

「ん? そうだな」


 田中は深く考えることもなく広瀬に答えていた。

 広瀬は田中の様子を見てにこりとした。


「よかった」


 田中は恵子の微笑みを見た。

 何かひとこと言うべきな気がした。


「楽しみにしてるね。それじゃね」


 恵子はひとりひとりに胸の前で軽く手を振ると、普通に歩いてうしろのドアから出て行った。

 気がしただけで、田中は何も恵子に言えなかった。

 無口な自分が行き止まりの壁の前で立ち尽くしている。

 どんな表情を自分がしているのか分かる。

 何やらがっかりしているようなのもよく分かっている。

 田中は自分の心境の変化に戸惑いを感じていた。


      *


 教室にいるのは三人だけになった。

 カーテンはまだ揺れている。

 教室の外もずいぶん静かになっている。

 不自然にうつむいている田中に、広瀬が言った。


「田中、よかったじゃない」

「何がだよ」


 まずい、と思いつつ、何ごともなかったみたいに田中は答えた。

 広瀬は続けた。


「小野さんから声をかけてもらえるなんて」

「それはだな」

「しゃべった方がよかったでしょ」

「ん?」

「ぼくは女の子とおつきあいしたことないから、勉強させてもらうよ」

「勉強って、広瀬……」


 田中はたじたじになっていた。

 広瀬は静かにしている土井に訊いた。


「土井は女の子とつきあったことあるの?」

「ああ、これでもいちおうある」


 話が土井に向いたので、田中は安心して突っ込んだ。


「土井、なかなかやるじゃねえかよ」

「ボクは今の田中みたいにルンルンじゃなかったけどな」

「はあ? ルンルンだって?」


 田中は土井から速いパスが飛んできたので再度たじたじになってきた。

 広瀬が田中に突っ込んだ。


「そうだよ。土井の言うとおり、ぼくにもルンルンに見えるよ」

「待て。オレがルンルンなんてだな、オレのイメージと合わんだろうが」

「ぼくは土井と一緒にルンルンの田中を遠くから見守ってるから。ね、土井」

「そうするよ」


 土井が答えると、田中はたじたじ具合が限界に近づいてきた。


「オマエらなあ……」

「田中をお手本にするからいろいろ見せてほしいな。ね、土井」

「広瀬の言うとおりだよ」


 土井の答えは田中にはダメ押しに聞こえた。


「つまり、オレの負けってことか」

「それは違うよ。今は田中が大きくリードしてるんだよ」


 広瀬のひとことで、田中は自信を取り戻してきた。


「ん? すると現時点ではオレの勝ちなのか?」

「そういうこと」


 広瀬が言うと、土井が続いた。


「そうなるな」

「そうか。なら、ヨシとする」


 田中はひと息入れてから答えた。


「偉そうだよね、田中って」


 広瀬が言うと、土井がまた続いた。


「確かに」

「田中って、すぐ調子に乗っちゃうタイプなの?」


 広瀬の鋭い質問が田中に向けられた。


「自分ではそんなこと思ってないのだが」

「へえ、意外だな。ね、土井」

「ああ。ボクから見ても」

「見ても、なんだよ?」


 田中は土井に返した。


「田中は分かりやすいと思うよ」


 土井は田中に答えた。


「分かりやすいだと?」

「自分のことは自分では見えないもんね、田中」


 広瀬は田中に答えてから、土井に言った。


「実はぼくたちの勝ちのような気がしてきた。ね、土井」

「広瀬の言うとおりだよ」


 広瀬と土井のコンビネーションは良好だった。


「オレの勝ちはどこに行った?」


 田中の疑問に広瀬がさらっと答えた。


「その辺に転がってるんじゃない?」

「転がってんのかよ」


 土井が話をまとめるようにこう言った。


「ボクに言わせれば、田中はいい人なんだよ。小野さんが声をかけたくなるほどに」

「そういうこと」


 広瀬と土井のコンビネーションはどんどんよくなっていた。


「オマエら、オレをどうしたいんだ?」

「遠くから見守りたいだけだよ。ね、土井」

「そうするよ」


 田中は優秀なタッグ・チームの成立を認めるしかなかった。


(一勝一敗、か)


 田中は思った。


「土井は学食でも平気?」


 広瀬が言った。

 大丈夫だよ、という土井の声が聞こえた。


「田中は省略して……1号館でいいかな、土井?」


 広瀬が言った。

 了解、という土井の声が聞こえた。

 会話をしながら歩いていくタッグの背中を見ながら、田中は歩きだした。

 自分たちより先に教室を出て行った、新しい『友だち』。

 その『友だち』について田中は思いをめぐらせた。


(ポニー・テールの『友だち』ができるなんて予想できるわけがねえよ)


 アイドル好きのヘンなヤツにしても想定外だが、あれは異次元人であって友だちではないのだから考える必要がなかろう。


「たーなかー」


 顔を上げると、目の前にタッグはいなかった。

 さっきの声は広瀬だと思ったがどこに行ってしまったのだろうか。


「ぼくたちもう1階にいるよー」


 そうだった。

 学食に行くのだ。

 田中は階段を下りずにまっすぐ歩きすぎてしまった。

 広瀬の声は通りすぎた階段の方から聞こえていたのか。


(危ねえなあ、オレ……だいたいオレが「考えている」というのがはなからおかしいじゃねえか)


 昼休みになっているからか、この校舎はやけに静かだ。

 物音は階下からしか聞こえてこない。

 階段を下りる前に、1階にいるはずの広瀬に向かって田中は言った。


えー定食、よろしくな」

「またかよ田中~」


 広瀬の突っ込みが聞こえた。

 土井はどんな表情で1階にいるのやら。

 田中正彦はこの時点でもうA定食に惚れ込んでいたのだった。


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