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Desafinado(調子はずれ)  作者: カワヤマソラヒト
6/61

I 4月(6)

    *      *      *


 田中正彦は教室のうしろ側の出入口のドアを開けた。

 火曜日午前ふたコマ目、10時29分。

 講義の開始時刻ぎりぎりだったが間に合ったことに変わりない。

 必修科目の教室は初日に使った1号館の211教室のふたつ隣、213教室だった。

 211は高校の視聴覚室に似ていると田中は思ったが、213は作りが違う教室だった。

 211よりは明らかに狭く、机はふたりがけだ。

 初日は学籍番号順で着席するとのことで、田中はうしろから三つ目の席にいたが、もはや席はランダムだ。

 今はどの列もうしろから四つ目まではすべて埋まっていた。

 後方と呼べる席がすべて埋まっているのをもう一度確認すると、田中はどこに座るべきか急いで教室内を見回した。

 向かって右端の最前列に、しばらく死体のようになっていた土井が座っていた。

 幽霊には見えなかったが、田中は土井の近くには行くまいと心に誓った。

 土井の周りはがらがらだったが、田中はあんな前にいたくなかったのだ。

 小野が窓に近い場所、いちばん左の列の、前から三つめの席に座っていた。

 小野のそばに佐藤と島田……だったよな……のふたりが立っていた。

 何ごとかを笑顔で話している。

 よく見ると他に三人、田中の記憶にない女が小野に近い席にいた。

 六人が仲よしのように見えた。

 必修科目はクラス別ではなく学科共通だから、もしかすると2組のヤツかもしれない。

 田中はそう考えた。

 広瀬は教卓の正面、前からふたつ目の席にいた。

 そこなら講義は見聞きしやすいに違いない。

 広瀬の左隣は空いていた。

 だがオレのいるべき場所はそこではない。

 田中はそう信じると、さらに物色を続けた。

 そもそもほとんどの連中がうしろに固まっていたので前方はスカスカと言ってもよさそうだった。

 自らの意思でこの学校に入り専攻した学科の講義だというのにどうしてやる気を出さないのか。

 とは思ったものの、田中はうしろに固まっている連中の気持ちを理解できた。

 廊下よりである右側から3、4列目の中央辺り、前から五つ目と六つ目に4席ほどまとめて空いているのが目についた。

 田中は右から3列目の前から六つ目の席に座った。

 4席の中ではいちばん居心地がいいと判断したのだ。


(次からはもっと早く来ないとイカンな)


 講義の内容とは無縁だが、田中はひとつ学んだ。

 席について、青いバッグから急いで教科書やノート、筆記用具を出した。

 教室内のざわつきは変わりないまま、開始時刻は過ぎていた。

 自分の腕時計を見ても、教卓のうしろ、上方に掛かっている円い時計を見ても、3分経過していた。

 通路を挟んだ右隣に、なんとなく前から知ってるような気がする顔の男がいた。

 人混みの中なら十人はいそうな顔だと田中は思った。

 髪は短く刈り込んである。

 頬にニキビ跡がいくつかある。

 ストライプのシャツを着ている。

 ブルージーンズに太めのベルト、ジーンズの裾が広い気がする。

 伝説のベル・ボトムだろうか?

 足にはズック地の黒いコンヴァース。

 田中の視線に気づいたらしく、男は田中に声をかけた。


「確か、田中くんでしたよね」

「ん? いかにもオレは田中だが」


 田中は男の顔を知ってるとは思うが、誰なのかはっきりしない。

 人混みの中なら十人はいそうだから覚えられるはずがない。


「ああ、私の名前ですか? 加藤です。加藤秀一。自己紹介では、小野さんの次、ふたり目だった……」

「お、おお。そうだったな。ヒデカズ、な」


 田中はまるで思い出したかのような態度を見せた。

 墓穴を掘らずにすんで田中はほっとした。


「田中くんのお名前は」

「オレか? 正彦だが」

「字はどんな字です?」

「正しいっていう字にだな……」


 田中は詰まってしまったが、思い直してこう言った。


「田原俊彦の彦だ」

「ああ、あの字ですか」


 何故か嬉しそうに加藤がうなずいた。


「マッチとは違う字なんですね」


 マッチと聞いた田中は、サングラスをしてコート姿の渡哲也が、風で火が消えないように左手をうまくかざしつつ、くわえ煙草に火をつけるシーンを思い出した。

 母親の好きな刑事ドラマだったと思う。


「田中くんはひょっとしたら知らないですか、たのきんトリオのこと?」

「タノキン……なんじゃそりゃ?」


 墓穴を掘らないように、田中は余計なことを言わないように注意した。

 田中は「キン」と聞いたところで「菌」しか思いつかなかった。


「田中くん、トシちゃんを知っているのに?」

「は?」

「本当は知ってるんでしょう? 私を試そうとして」

「イヤイヤイヤ、そんなこと、ないぞ」

「そうですか、本当に?」

「本当だ。信じろ」

「では説明しますけども」


 加藤は不満そうだった。


(説明はいらんのだがな)


 田中は思った。

 無関心だからであった。


「トシちゃんとヨッちゃんとマッチとの三人のことですよ。苗字の一文字目から……」


 ふと田中は思い出した。

 中学生くらいの頃だったか、女どもがそんなようなことを言ってた気がする。


「……田原の『た』、野村の『の』、近藤こんどうの『きん』、それで」

「オイ、ちょっと待て」

「どうかしましたか?」

「なんで『たのこん』じゃねえんだ?」

「ああ、それは私も不思議に思っていることなんですよ」


 加藤は微笑みながら続けた。


「不思議と言えば、この前誰かが『世界は不思議で満ちている』、なんて言ってたのが聞こえて、私はつい『たのきん』を連想しちゃいましたよ」

「世界は不思議で、ねえ……」

「その誰かの方を見たら、服装から考えると東南アジアかどこかの留学生みたいでした。日本語が上手なので感心しましたよ」

(留学生がいるって? ホントかよ)


 田中は思った。

 それでやめておけばよかったのに、田中はつい加藤に質問していた。

 話を戻してしまったのだ。


「ヒデカズ、オマエはもしかして、男のアイドルが好きなのか?」

「いやだなあ田中くん、そんなこと言わないでくださいよ」


 加藤は右の手のひらを後頭部に当てて楽しそうに笑った。


「女の子だって好きですよ」

「女の子、『だって』?」

「ええ。男もいいですけど、やっぱり女の子の方がいいじゃないですか?」

「ん? だ、よな」

「聖子ちゃんも好きですが、明菜ちゃんの方が私は好きですね。そのあとからデヴューした人だと……キョンキョンかなあ。ああ、斉藤由貴ちゃんもいいですねえ」


(知らねえよ)


 田中はアイドルに一切興味がなかった。

 自分とは違う世界の人間だと思っていたのだ。

 これ以上は危険だと田中は感じた。


「田中くんとは話が合って嬉しく思います」

「なんだって」

「私が合宿で同部屋になったふたりとは話が合わなくて、あまり仲よくなれなかったのです」

「どうしてだ?」

「ふたりともアイドルに全然興味がないんですよ」

(それはオレだっておんなじことなのだが)

「田中くんはトシちゃんきだし、字は異なってもマッチと同じ名前ですし」

「オイ、ちょっと待て。誤解すんな」

「隠さなくても大丈夫ですよ、田中くん」

「は?」

「秘密は守ります」

「秘密? なんのことだよ」

「女の子より、男がいいんですよね」


 加藤は周囲に気を遣ってか、ひそひそと言った。

 田中は愕然とした。


(なんでそうなるんだ?)


 田中は危険を察知した。


(これ以上オマエと一緒にされたら、オレはダメになっちまうぞ)


 加藤のアイドル話に巻き込まれているうちに、開始時刻から20分が経とうとしていた。

 ようやく前方のドアから原田先生が登場した。

 ライトグレーのスーツに白シャツ、カジュアルな感じの黒い手提げ。

 スーツも髪も涼しそうに見えた。


「みなさん、お待たせしてすみません。急な電話がね、来てしまいまして」


 そう言いながら、先生は手提げからいろいろと教卓に載せて、教科書ではなく、しっかりした表紙がついた厚いノートを真っ先に開いた。

 室内のざわめきは徐々にフェード・アウトしだした。


「使い込んであるみたいですね。きっと先生が自分でまとめた虎の巻みたいなノートなんでしょうね」


 加藤は田中に顔を向けてそう言ったが、田中からは先生のノートはよく分からなかった。


「では始めましょう。今日はまず、ですね」


 原田先生のそのひとことで、加藤はスイッチが入ったようにキリッとして前を向いた。

 こいつはますますヘンなヤツだ。

 田中は思った。


      *


 11時45分、講義は早めに終了した。

 原田先生は忙しそうに教室を出て行った。

 のんびり机上を片付けている田中の方に向かって、広瀬と土井が近づいてくるのに気づいた。

 もう昼になるから、学食にでも行くかという流れだ。

 加藤はとうに片付け終えて、そわそわしたように田中の様子をうかがっていた。

 アイドル話を田中と続けたいに違いない。

 対策を練らないとまずいと感じた田中は、わざとのんびりしながらどうしたものかと考えていた。

 急に加藤が落ち着いた様子になり、窓の方を見ていた。

 何か気になるものでも見つけたのだろうか。

 この教室の窓から何が見えるのか、田中はまだ知らなかったので想像もつかない。


「加藤くん、田中くん、元気?」


 聞き取りやすい声がいきなり、ずいぶんそばから聞こえた。

 広瀬と土井は足を止めたままこちらをうかがっているように田中には見えた。

 田中が視線を戻すと、声の主が目の前にいた。

 バスで会ったときよりも近い。

 だいぶにこやかそうに見える。

 でも荷物を持っていない。

 肩も両手も空いている。

 連れの女どもはどうしたのかと思い、田中は小野が席をとっていた窓の方に視線を向けたが見当たらない。


「私は元気ですよ。小野さんはどうですか?」

「ご覧のとおり、元気です」


 小野は手を腰のうしろで組み、加藤に微笑んだ。

 田中は小野の顔をつい見てしまった。


「田中くんは?」


 田中の方を向いて小野は言った。


「ん? オレか、オレはだな」

「私のこと、覚えていてくれた?」

「そりゃあ……自己紹介が一番目だったし、バスでも会ったしな」

「それだけ?」

「それだけって、なんでだ?」

「なんでもないの」


 そう言うと、小野は何かに気づいたような表情になった。

 右手で口元を押さえている。


「うっかりしちゃった。バッグ取ってくるからちょっと待っててね」


 小野の姿を見ながら、加藤は言った。


「小野さんはいい人ですよ」


 納得しているというニュアンスが感じられた。


「『金八先生』、見ていたそうなんです。さすがですよね」

「は?」

「たのきんトリオよりイモ欽トリオの方が好きだった、なんて冗談も言ってくれまして」

(それって、冗談なのか?)


 田中は思った。


(当時のクラス連中の薦めで見た『金八』は自分に合わなかったが、『欽ドン』ならオレもよく見ていたもんだが)


 白いバッグを肩にかけて、小野がこちらに戻ってくる。エナメル加工らしくつやつやして見えるバッグだった。

 田中はこのときやっと小野の服装が目に入った。

 白いカーディガン、水色のブラウス、長めのスカートも水色、白くて細いベルトも見える。

 ワンピースではないと思う。

 足に履いているのは白い……前に妹が似たようなヤツを履いていた気がするが、名前が出てこない……ポニー・テールに変わりはないが、リボンをしているのに気がついた。

 水色だった。

 一方で、広瀬と土井が再び侵攻を開始していた。

 ゆっくりと近づいてくる。

 不自然な忍び足のように見える。

 何故か加藤は広瀬と土井に気づくとビクッとして慌てだした。


「どうかしたの、加藤くん?」


 戻ってきたばかりの小野が言った。


「ええ、急用を、思い出したので……今日はこれで失礼します」


 ぺこぺこと小野と田中に頭を下げると、加藤は駆け出し、開け放たれたうしろのドアから出て行ってしまった。

 教室の外からのざわついたノイズが、加藤のどたばたとした足音にマスキングされて、次第にまたヴォリュームを戻していく。


「なんだあいつ……」


 加藤がいなくなったのでさっさと片付けると、いつもの青いバッグを左手に持って田中は立ち上がった。

 自分が穿いているベージュのチノパンが見えた。

 田中は今日の自分の服装を見直した。

 黒いシャツの袖を適当にまくり上げ、靴は今年の正月に特価で手に入れたアシックスの茶色いジョギング・シューズ、頭髪は今日もこれと言ったことをせず、数回手櫛をしたくらいだった。

 寝癖がそれだけで目立たなくなる。

 田中は自分のてんパの唯一の長所がそこだと思っていた。

 明らかに何も考えていないファッション……いや、「ファッション」なんて言うのはおこがましい服装だ。

 小野のような工夫をすることは、田中にとってアイドルと同様に別世界の出来事に思えた。


「田中くんの自己紹介、面白かったな」

「ん? そうだったか?」

「『成績は、はっきり言ってよくないはずですが』」

「うわ、いいよ再生しなくって」

「『前向きに頑張って、無事に卒業したいと思ってます』」

「はあ? オレはそんなこと言ったのか?」

「うん。言ったよ」

「あらためて他の人から聞くとドンくせえセリフだな」


 田中は言った。


「そうかな? 私はそうは思わないけど」


 小野はなおも続けた。


「『よく無愛想だと言われます。悪気はないですが、失礼があったらすみません』」

「待て待て待て待て、待て」


 田中はとにかく小野を止めたかった。

 小野は田中を見つめた。


「どうしたの? おかしな田中くん」

「イヤ、なんで小野さんはそんなことよく覚えてんだ?」

「……恵子、でいいよ」

「いいよって……そう言われてもだな、そんな急には、だな」


 田中はこれまでに女の子をファースト・ネームで呼んだことがなかったわけではない。

 中学と高校の時分には通算ふたりの女の子とつきあっていたことになる。

 なのに、「恵子」と声にするのは恥ずかしく感じられた。


 広瀬と土井はいつの間にか小野の後方、窓際にいてこちらをうかがっている。


(あいつら、絶対オレに突っ込みを連発するぞ)


 田中はちょっと思案した。

 そうされたところで特にどうってことはないのだが。


(今すぐクリアすべき問題は、だ)


 田中は興味のないことはとっとと整理してすぐに忘れる男だった。

 田中正彦の頭の中で、人混みの中なら十人はいそうな男の記憶が全部消去された。


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