III 6月(3)-14
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「ごちそうさまでした」
佐野はここでまた両手を合わせて軽く頭を下げていた。
田中は佐野のきれいな食べっぷりにも感心していた。
自分もきれいに食事をする方だという自負があるが、もしかしたら佐野には……と思いかけて、今日は勝負に来たのではないからドローだ、ということにした。
「ああ、今日もココでは幸せだなあ」
佐野はトラジャを飲みつつもうひとことつけ加えた。
「なんだか、この前来たときよりおいしい気がする」
田中は同じような言葉を以前にも聞いたことがあるような気がした。
「きっと、来るたびにどんどんおいしくなっていくんだわ」
佐野のご満悦な笑顔を見ながら、田中は思った。
(この女が相談したいほどの悩みを持ってるとは思えんな)
「じゃあそろそろ、今回の議題に戻るとしますか」
田中は自分の考えを見事にひっくり返された気分になった。
「あら、まだ早かった?」
「イヤ、かまわんのだが」
「トラジャ、おかわりしよっか?」
「はあ?」
「田中くんはトラジャみたいな豆は好みじゃなかった?」
「イヤ、そんなことはないがだな」
田中は佐野よりもずいぶん先にすべて完食し、トラジャは飲み終えていた。
(佐野の考えてることは、オレにはよう分からん)
「やればできることだっていくつもあるのよね。例えば、車の運転がしたければ教習所に行けばいいわけじゃない? 私はまだ免許を取る気はないけど」
佐野は既に今回の議題に戻ったらしかった。
どこかに気分をすぐに切り替えられるスイッチでもあるのだろうか?
田中はそう思いつつも、佐野に相槌を打った。
「まあ、そりゃそうだな」
「でも、恋愛はそうはいかないタイプのものなのよ」
「お、おお……」
田中は佐野の何故だか分からない迫力に押されていた。
「なんでこんな私を好きだって言ってくれるんだろう……」
「はあ?」
「あ、言っちゃった」
佐野は左手で口元を抑えると、右手に持ったコーヒーカップを静かにテーブルに置いた。
「聞こえなかったことには……ならないか」
「佐野の声は小さくてもよく聞こえるからな」
「それはね、舞台の上でしっかり発声できるように鍛えてるからだけど」
「世の中にはいろんなヤツがいるもんだ」
そう言ってみた田中だが、佐野を好きになるヤツがいたところで何もおかしくはないと思っていた。
「ちょっと待て」
「何?」
「もともとは劇の役作りの話じゃなかったか?」
「そうなんだけど……それだけでもなかったりして」
「ほう」
田中は詮索しないでおこうと思った。
自分が佐野にどうこう言ったところでどうなるものでもない。
そう思ったのだった。
だから田中はふと頭に浮かんだことを口にしてみた。
「あのな、こういう難しい話はだな」
「何?」
「やはりオレじゃなくて、本当に経験豊富な人に訊いた方がいいんじゃねえか?」
「田中くんさっきもそう言ってたよね?」
「オレは自分が経験豊富だなんて言ったことは一度もねえからな」
田中は自分が顔をしかめているのが分かった。
佐野は苦笑いしていた。
「田中くんより経験豊富な人、私の周りにいるかなあ?」
「同じ科の仲間やオレだと歳が近すぎるんじゃねえかと思うからだな、もっと年上の人とか、先輩とか、家族とか……」
「先輩かあ」
佐野は数秒黙っていたが、ぽつりと続けた。
「……やっぱり、学校には頼れそうな人はいないなあ」
「だったら、その、演劇やってる連中ならどうだ?」
「頼れる人はいるけれど、そんな話をできるような立場じゃないのよ、私」
「じゃあ、ねえちゃんとか?」
「私、妹がひとりいるだけで、上の兄姉はいないのよ」
田中はやや驚いた。
佐野の様子が稀に妹の聡美を思い出させるからだろうか。
「妹ならオレにもひとりいるが」
「そうなんだ。頼れるおにいさんなの、田中くんは?」
田中は佐野がなんでこの質問をしてきたのか理解できかねた。
「オレは妹に頼られるような兄貴じゃねえよ。なんかあったらさっき出てきたオレより三つ上の……」
「イトコのおねえさんか、そうだよね、女同士じゃないと相談とかしにくいだろうし、年齢差がちょうどいい感じで離れてるんだろうな」
「佐野こそ妹に相談されるんじゃねえのか?」
「うちは歳が近いし、私に恋愛相談するなんて考えられないな」
「そんなことはねえだろう」
「だって、妹の方が私よりはるかに経験豊富なのよ」
お手上げという意味のジェスチャーを佐野はして見せた。
「中学生の頃から、彼氏ができたとか言い出して、別れたとか次の彼ができたとかもう何がどうなっているやら私には分かんないくらい彼氏が次から次へと」
「なら、その妹さんに」
田中は試しに言ってみた。
「姉の立場としてそれはどうかと思わない? まあ実際、おねえちゃん彼氏できた?、なんてちょくちょく突っ込まれてるけど」
(それじゃイカンか)
田中はいちおう理解した。
「田中くんのイトコのおねえさん、紹介してほしいくらいよ。相談に乗ってほしいなあ」
田中は内心で即刻却下を決断できた。
佐野まで陽美の人脈とやらに加わられてはろくなことがないに決まっている。
が、そう言ってしまうのはまずいので、田中は敢えてこう言った。
「4年生だからな、就職の件でかなり忙しくしているようだから厳しいと思うぞ」
「そうか、4年生ならそういう時期だもんねえ」
どうやらうまくかわせたようだと楽天的になった田中は、年上の家族に話を戻して、冗談のつもりでこう言ってみた。
「そうなるとだな、親ってのはどうだ?」
「私、おかあさんには訊いてみたのよ」
(すげえな、佐野)
田中はストレートにびっくりした。
(オレは親に恋愛について訊くなんて考えられんぞ)
よく考えると、自分たちは両親の恋愛の結果生まれたことになるので、妙な話だと田中は感じた。
あの親父とおふくろが……そう思うだけで無理だった。
「おかあさんには、思いっ切り笑われたわ」
「お、おお、そうなのか」
やはりな、と田中は思った。
「そんなの、他人に訊かなくてもそのときになれば自然と分かるのよ、なんて言われちゃった」
(そのときになれば自然と分かるのか?!)
田中はまたしてもストレートにびっくりしてしまった。
「なら、そのときってどんなときなのよって訊いたら、私が本気で誰かを好きになったときだ、って言われちゃって」
佐野の母、なかなかのツワモノではなかろうか。
田中はそう感じた。
「姉妹なのに全然違うわよね、うちの娘たちは、だって。失礼しちゃうわよ」
佐野は「フン」という感じでそっぽを向いて見せた。




