III 6月(3)-13
「こんにちは、ヒゲさん」
佐野は店に入るとすぐにそう言った。
「ああ、幸美さん、いらっしゃいませ」
入口から少し奥に小さいながらも風格を感じさせるカウンターがあり、そこで何やら作業中らしい人が応えた。
背が高く立派な体躯で頭にバンダナを巻いている、ヒゲを生やした男性だった。
黒っぽいティーシャツの上から年季の入ったデニム製らしきエプロンをしている。
田中にはそれがやけにカッコよく見えた。
ファミレスではありえない服装だ。
店内はどうやら古い感じのジャズのような音楽が流れているのだが、田中は当てずっぽうでそう思っただけなので真偽は定かではなかった。
ただ、お店の雰囲気と音楽がいい感じで合っているとは感じた。
(佐野は、ここの常連なのか?)
そうでなければ今みたいな会話はできっこない。
(で、この人が店のマスターなんだろうな)
田中は思った。
「田中くん、カウンターとテーブル、どっちがいい?」
「それは佐野の話の内容次第じゃねえのか」
「ああ、それもそうか。じゃあ奥のテーブル席にお邪魔します」
佐野は「ヒゲさん」に言った。
「どうぞお好きなところへ」
ヒゲさんが応えた。
お好きなところへと言われても広い店ではない上、まだお昼時なので大きめのテーブル席と小さめのテーブル席がひとつずつ空いているだけだった。
佐野は迷うことなく小さな方を選んだ。
「さ、田中くんは奥へどうぞ」
逃がさないつもりか、と田中は反射的に感じた。
佐野と田中が席に落ち着くと、ヒゲさんが水やおしぼり、メニューを持ってきてくれた。
「幸美さん、お元気でしたか?」
「はい。ヒゲさんは?」
「私はいつもどおり、マイ・ペースですよ」
ヒゲさんは笑顔で応えた。
「こちらは大学の友だちで田中くんです」
田中はいきなり紹介されて焦ってしまった。
「あー、田中です。よろしく……」
そう言ってしまったあとで「また、やっちまったあ」と田中は思った。
(何回目なんだよ、バカなオレは)
「田中さん、ですね。僕はヒゲと申します」
ヒゲさんが軽く頭を下げてくれたので、田中も同じように頭を下げた。
会話はそこで自然に途切れ、ヒゲさんはカウンターへ戻った。
「田中くん、ヒゲさんについて何も思わなかった?」
「は? なんか変なことがあったか?」
田中は自分も接客をするので、ヒゲさんの丁寧でどこかしら親しみを感じる応対に感心していた。
「ヒゲさんて、なんでヒゲさんていうんだろう、とか」
「愛称っつうか、常連さんなら許されるあだ名じゃねえのか?」
「実は違うのよ」
「は?」
「本名がね、ヒゲさんなの」
「なんだって」
そんな苗字の人がいるとは、田中は思いもよらなかった。
「珍しいし、なんか面白いよね」
(佐野は上機嫌なご様子だ)
田中が初めて見る佐野がいた。
「田中くん、好き嫌いってある?」
「イヤ、なんもないが」
「じゃあ私にメニューを任せてもらっていい?」
「佐野の奢りだし、任せる」
「ありがと」
佐野はすかさずメニューを持って立ち上がると、まっすぐカウンターへと向かった。
直接カウンター越しにヒゲさんへオーダーしているようだった。
「わざわざありがとうございます……普通にテーブルへ呼んでくれていいんですよ」
ヒゲさんのちょっと困ったような表情が田中に見えた。
「いつもより長居するかもしれませんが」
佐野の声が聞こえた。
「どうぞ遠慮なく、お気楽になさってくださいね」
ヒゲさんは笑顔で応えていた。
小さなテーブルのある場所は、ヒゲさんがいるカウンターと斜向かいで店の隅になっていた。
「ひそひそ話にもいいし、ふたりだけだからちょうどよかったよね」
佐野の機嫌が明らかにいつもよりいいので、田中はどう応えたものか困ってしまった。
「あ、得意のしかめっ面だ」
(なんだって)
田中は得意にしているつもりは一切ないので否定しなくてはと思ったが、佐野の声がすぐに続いた。
「笑顔の練習、してる?」
接客をしている以上、笑顔は必須であったから、佐野に以前注意されてからも、恵子や陽美に指摘されてからも、田中は自分なりに努力してはみた。
しかしながら、結果はまだまだ出ていないと田中は思っていた。
とはいえ、店長に注意されるようなことは全然ないし、その他の誰からもこれと言ったアドヴァイスもクレームもなかった。
「じゃあ、バイトの現場でなら、実は大丈夫なんじゃない?」
「そうだといいのだがなあ……」
「その様子だと自信がないようね」
「ほっとけ」
「田中くんらしいと言えばそうなのかもしれないけど」
やがてヒゲさんが佐野のオーダーしてくれたものを運んできてくれた。
「まあとにかく、冷めないうちにいただきましょう」
両手を合わせて目を閉じ、軽く一礼する佐野が田中の目の前にいた。
「いただきます」
(佐野って、そういうことをしっかりするのか)
田中はなんとなく感心していた。
「久しぶりだなあ、このところずっと食べたかったんだ、ココのハンバーグ」
「ここの?」
「もちろんココの、よ」
(この店の名前は会話をややこしくさせるダジャレだな、絶対)
田中は思った。
ハンバーグのランチセット、デミグラスソースがかかっている。
そしてサラダに、食後のドリンクはコーヒー。
田中は聞いたこともない「トラジャ」とかなんとかいう種類であった。
「いやあ、やっぱりヒゲさんの腕は最高級だなあ」
佐野はさっき田中が初めて見たよりさらにご機嫌な感じで言った。
田中も遠慮なく食べ始めていたが、自らバイトしている先で提供しているものとは格が違うとすぐに理解した。
(まあな、こちらはファミレスだから勝ち目なんかねえけどな。ヒゲさんという人は一流の腕を持っているに違いあるまい)
田中は佐野に同意してそう思った。