III 6月(3)-12
「うーん、分からないなあ」
「何がだよ?」
「例えば、の話だけど、私のことを好きになってくれた人がいたとして……」
それはさぞかし大変なこったな、と田中は思ったが、さすがに口には出さなかった。
「私のどこに惹かれてそんなふうに思ってくれたのか、見当がつかないし」
「直接訊いてみたらよかろうが」
「訊いてみたけど……じゃないや」
佐野は言い直した。
「仮に、ね、訊いてみたとしても、自分じゃ全然理解できないのよ」
「ほう」
「田中くんはそんなことなかった?」
「ん?」
「何人くらいの女の子に告白された?」
「何人と言われてもだな、数えてなんかねえよ」
サッカー部時代の田中は自分が興味のないことには無頓着であった。
それは基本的に今も変わらないが、恋愛的なできごとはそれなりにあった。
ラヴレターやら告白やら。
でもサッカー以外のことはすべて後回しにしてきた。
(そこは佐野と変わんねえってことか)
じゃあ、なんで弘美とつきあうことにしたのか?
田中は自問自答した。
(断る理由がなかったから、だな。部活がなくなったあとの話だったし、人並みに女に興味は持っていたつもりだし、弘美には何度もアタックされてたし、申し訳なさのような気持ちもあったかもしれん)
今になって振り返ってみると、お別れしてから三ヶ月足らずとはいえ、それなりに冷静に判断できそうだった。
だから、つきあっていたことがあったのはそのとおりだし、好きか嫌いかと言えば好きではあったに決まっているが、それで恋愛について深く理解したとは到底思えない。
あっさりと別れることができたのは、お互いそんなものだと考えていたからではないか、少なくとも田中自身はなんの未練もなかったし、弘美もそうだろうと思った。
(つきあった経験があるからって、それが恋愛なのかどうか、オレだってよく分かってねえぞ)
説明したいとしても、なんと言えばいいのか?
田中にはそれにふさわしい言葉が見つけられそうになかった。
「田中くんは、さ」
「なんだよ」
「彼女に告白されたときって、どんなふうに思った?」
「はあ?」
突然の難問に田中は焦った。
「あ、無理に答えてくれなくてもいいよ。言いにくいことだろうし」
「はあ」
「私、どうしたらいいのか分からないから、田中くんのことを聞けたら何か分かるかなって思っただけで……」
そう佐野に言われて、田中はどう返事をしたものかますます困惑していた。
(うまいことが言えればよかろうが、できそうにねえのがきちいな)
田中は弘美に告白されたときのことを思い出そうとしてみた。
心の森の奥にある湖の魚たちは幾分混乱しているらしかった。
というのは、田中は弘美から何度も何度も告白されたからだ。
それはつまり、田中は何度も弘美に断ったということでもあった。
* * *
── 諦めたくないから、何度でも告白するよ。
── オレの答えは変わらんぞ。
田中はサッカーに専念したいから他のことに時間は避けないとその都度答えた。
── その気持ちは分かってるよ、田中くんらしいとも思ってるし、だから私の気持ちも変わらないし。
弘美は陰でこそこそするような女ではなかったから、いつも堂々としていた。
自分の想いを隠すことがなかったので、弘美は周りの同級生からはすぐに田中の彼女と呼ばれることになった。
田中がそれを認めるまでにはかなり時間がかかることになったが。
田中は弘美が嫌いなのではなかったが、特別に好きということもなかったから、ニュートラルな気持ちで接していた。
そして最終的にはサッカーを引退したあと、弘美の告白を受け入れた。
断る理由がなくなったからだ。
田中が受け入れてくれる前でも、弘美は自分が思うままに田中に接していた。
何かと面倒を見てくれようとしているのは田中も分かっていた。
例えば、週末に弘美がサンドウィッチを田中に作ってきてくれたことがあったが、田中は拒否することなく食べて、礼を言った。
一方的に拒絶することが正しいとは思えなかったし、正直なところありがたいと感じていた。
* * *
恋人らしい時間は短かったかもしれないが、今にして思い返せば、その分濃密だったと言えるかもしれない。
だが、弘美とのことをどう佐野に説明すればいいのか、していいことなのか、田中にはよく分からなかった。
「モテモテの田中くんでも、答えにくいことはあるよね」
「佐野は誤解していると思うのだが」
「田中くんの周りに人が集まるのは、モテてる証拠じゃん」
「は?」
「私、田中くんがひとりきりでいるところ、ほとんど見たことないし。パンキョーは別として」
「そりゃあ偶然の結果だろう」
「仮に偶然だったとしても、何度も重なったら必然でしょう?」
(そうなるのか?)
田中はどう考えたものか決めかねた。
「私、何度も見かけてるし、田中くんがモテるのも理解できる」
(分からねえのはオレだけかよ、自分の話だってのに)
田中は思った。
(佐野はいったい何を見てるんだか)
「だって、田中くんを見かけるときはいつだってほぼ誰かが一緒だし、男の子だけじゃなくて女の子といることも……違うな、女の子といる方が多いじゃない?」
田中はひとつため息をつくと、こう言った。
「この際だからはっきり言っておくぞ」
「何?」
「それはない」
「そんなことないよ、偶然にしてはできすぎな話だもん」
田中の主張はバッサリ否定された。
「ちなみに、私もいちおう女の子だけど」
「ほう」
「ほうって、何よ」
「言われてみればそうだったな」
「あ、失礼な言い方。ダメだよ、カノジョにそんな態度とったら」
「カノジョだと? 何を言ってんだ佐野は」
「あら、もしかして、ひとりだけに決まってなかった?」
「あのなあ、何から何まで誤解だからな、佐野が言ってることは」
「それは信じられないなあ」
「なんでだよ」
「田中くん、楽しい人だから」
「楽しいだと?」
「そう、楽しい人だよ。だから他の人たちが集まっちゃうんだよ」
佐野は笑顔でそう言うと、足を止めた。
「お店はもう見えてるんだけど、田中くんは来たことないからどこなのか分からないよね」
佐野が言ったように、田中の両眼にはそれらしき店は見当たらなかった。
「実は休みだったりしないだろうな」
「それは大丈夫よ。電話して確認してあるから」
(そいつは念入りなこった)
田中は今になって思いついた。
(校内で誰かに聞かれたらやべえってことか? それでわざわざ校外に? 面倒はゴメンだぞ)
田中は勝手にそう思わざるを得なかった。
佐野は止めた足を数歩前に動かすと、また足を止めた。
「目的地に着きました」
佐野が田中に向かって言った。
「分からないでしょう、お店がどこか」
そう言うと、佐野は「ここだよ」と指差した。
その先にはなんとも地味な古びた建物があり、木製のドアに小さく「CoCo」という文字があった。
(もしかして、ダジャレのつもりか?)
田中は思った。
「コーヒーのいい香りがしてくるよね」
佐野にそう言われてみると、いつの間にやら田中にもコーヒーの香りが感じられた。
うっすら音楽が聴こえてくるような気もした。
佐野が「CoCo」のドアを開けると、カウ・ベルの音がカラカラと鳴った。