III 6月(3)-10
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佐野は普通に歩きながら左隣を歩く田中へ話しかけた。
「私、演劇やってること、田中くんに言ってなかったっけ?」
「聞いてないと思うが」
田中は特に何を思うでもなく単純に訊き返した。
「サークルにでも入ってんのか?」
「ううん、学内じゃないのよ。外部の劇団で、高校生の頃からそこに入れたらいいなって、思ってたのよね」
「するってえと、高校の頃は演劇部だったのか?」
「うん、実は中学の頃から。小学生でも部活があったなら入っていたと思うけど」
「ほう」
それでオレの笑顔にダメ出しをしてくれたワケか。
── 目が座ってるからヘンに見えるんだよ。
田中はそう理解した。
正門を抜け左折したあと、下りの最寄り駅方面に行くには一度右折する必要があった。
右折できる箇所は複数あったが、佐野は迷うことなく静かな住宅街を抜ける道を選んで進んだ。
「それで今、採り上げている脚本が恋愛モノでね、自分には何ひとつピンと来ないから、役作りにね、困ってるんだ、私」
「ほう」
「だから経験豊富な田中くんにね、その辺を取材して話を聞きたいなって考えたのよ」
「はあ?」
「田中くんなら間違いなくこれ以上ないほど適任でしょう?」
佐野は当然の事実だとでも言うように田中の目をじっと見た。
動揺している田中の目がどんなふうに佐野に見えたのかは分からないが、田中は妙な誤解はゴメンだと思った。
「なんでそう思うのか知らんが、オレは特にモテるわけじゃねえし、誰かとつきあっているわけでもねえぞ」
「あら? それって本当のこと? 軽い冗談?」
「たったひとつの真実なのだが」
田中は無愛想に答えた。
「でもさ、仮に今はつきあっている恋人がいないとしても……」
田中は「恋人」という言葉を久しぶりに聞いた気がした。
「田中くんならこれまでに何人もおつきあいしてきた経験があるよね?」
「なんでそう決めてかかるんだ?」
「違うの?」
「まったく何もなかったとは言わんが、何人もと言われるほどつきあったことはねえぞ」
田中は正直に答えた。
田中としてはつきあったことがあるのは弘美だけ、という認識だった。
細かいことを言えば中学生の頃に告白されて何度かデートをしたことがある相手もいたが、田中としてはプラトニックなこの件は対象外だと考えていた。
「ということは、ひとりの子と深いおつきあいをしたことがあるんだね」
「は?」
「私の勘でもあながちはずれてたわけじゃなくて、よかった」
佐野はにこりとして言った。
田中の思い出についての詮索はしてこなかった。
具体的なことを訊かれずにすみそうで田中は幾分ほっとした。
「それでね、脚本の内容を話すと、年上の男の人から告白されて、おつきあいを始めるっていう設定なんだけど、私にはなんにも参考にできるものがないのよ」
「オイ、ちょっと待て」
「何?」
「参考にできるものがねえってのはどういう意味だ?」
「私にはなんの経験もないってことよ、処女だし」
(そんなこと訊いたんじゃねえぞ)
田中は思わず右手で両目を覆いそうになったが、歩きながらでは危険なのでこらえた。
「そういう話はだな、軽々しく口にするもんではなかろう」
「ふうん」
佐野はふと立ち止まった。
田中は見通しのよい直線道路に入っていたことに気づいた。
道路幅は広いが交通量は時刻のためか少なかった。
自転車に乗ったおばさんと一度すれ違ったが、歩行者は自分たちの他に見当たらない。
「田中くん、割と古いタイプなの?」
「は?」
「そんなの全然気にしないと思ってた」
なんと言えばいいのやら、言葉が出てこない田中であった。
「私をちゃんと女だって認めてくれてるのね」
「佐野をどう見たら男だと間違えられるんだ?」
「そう言ってもらえると、なんだか、ちょっぴり安心した」
呟くようにそっと言う佐野だったが、その声はやはり田中にはっきりと聞き取れた。
「そりゃどういう意味なんだ?」
「ん? いいの、気にしないで」
「はあ」
「こんな私でも、女の子なんだなって。田中くんにはよく分からないと思うけど」
(まったく分からんな)
田中は心の中で同意した。
「演劇部だったなら、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』くらい知ってんだろう?」
オレですらそれが恋愛モノだということくらい知ってんだから、これは常識だよな。
そう思う田中だった。
「でもロミジュリは、親同士のケンカに巻き込まれて不幸になった子どもたちのお話だよね?」
幸美が返すと、田中はそうなのかと焦った。
詳しい内容までは知らないので自信がなくなってきた。
ヒデカズがいたなら、ラヴコメのネタを話題にできるだろうが、田中自身はラヴコメに興味がないので話にならない。
「そうした作りものじゃなくて、現実のね、田中くん自身の経験から来る意見を聞かせてくれると助かるなあ」
佐野はそう言うと再び歩きだした。
いきなりそう言われたところで、田中自身それほど経験があるとは思っていない。
確かに弘美とつきあっていたことはあったがそれだけだし、果たして何をもって恋愛だと定義したらよいものか、考えてもよく分からないのだった。
田中はとりあえず佐野の左側に戻った。
「私ね、これまで誰かを好きだとか嫌いだとか、そういうイヴェントは全部パスしてきたの。ヴァレンタイン・デーとか」
佐野の話は進んだ。
「だって、いないんだもん、好きな人が。縁がなかったっていうのかしら」
(縁ねえ……)
田中は漠然と広瀬の言葉を思い出した。
── ぼくはさ、この世界に「縁」はあるって思っているんだよね。
(広瀬はどうしてそんな話をオレにしたのやら)
田中が「ある」と言えそうなのは「女難」くらいしかなかった。