III 6月(3)-9
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(そうだった、土井はうまいこと逃げやがったんだ)
逃げたかったのはオレの方だぞ、と田中は思ったが、4月に自分で決めたはずの課題をまたも忘れていたことがはっきりと浮上してきた。
心の森の奥にある湖にいる魚たちは気が利いていた。
(「失礼のないように」と決意してたっつうのに、いくら佐野とヒデカズだからって……やらかしちまったのか、またオレは)
田中はがっくりするしかなかった。
初心を忘れてはいけないのだった。
「まあ、田中くんの個性だもんね」
佐野は気にした様子もなくそう言うと、加藤に向き直って微笑みながら自己紹介をした。
「初めまして。印度哲学科の佐野幸美です。田中くんとは『現代文学史』で知り合ったの、パンキョーの」
佐野はヒデカズにキレイなお辞儀をした。
それで田中は今日の佐野の髪型が、うしろで丸く結われている「お団子」だと気がついた。
(初めてこんなことしてるヤツを見ちまった)
田中は佐野のお団子髪をしげしげと見ながら思った。
加藤はおずおずとしながらも、丁寧に深いお辞儀を返した。
「そこまでしてもらうことないよ、同級生だよね?」
「まあ、そうだな」
田中は言った。
加藤は何か言おうとしたようだったが、佐野に機先を制された。
「ヒデカズくんて、苗字は?」
「あ、私は加藤と申します」
「加藤くんだね、覚えたわ」
(なんだって?)
田中は佐野に思いっきりツッコミを入れたくなった。
「佐野さんは……印度哲学科なんて、すごいですね」
「堅いイメージがあるかもしれないけど、すごく面白いんだよ」
佐野はにこやかに加藤を見ていた。
「あのですね、田中くん」
「なんだヒデカズ」
「佐野さんが田中くんに用事があるみたいですので、私はまた次の機会ということで……」
「はあ? せっかく土曜に約束できたってのにか」
「いいんですよ」
加藤は爽やかに言った。
「もしかして、このあと、田中くんと加藤くんは大切な用事があった?」
佐野がやや遠慮がちに言った。
「い、いえ、それは気にしないでください。私はいつでもかまわないので」
「オイ、ちょっと待て。それじゃ話がおかしくねえか、ヒデカズ?」
田中は納得できずに加藤に突っ込んだ。
(ヒデカズらしくない気がするぞ)
田中は思った。
「じゃあ、田中くんを私が連れてっちゃっても大丈夫?」
田中の思いをよそに、佐野が言った。
「え、ええ、どうぞ」
「待て待て待て。オレがどうして佐野に連れてかれなくちゃならんのだ?」
田中は慌てて言った。
(オレの意思はおかまいなしかよ)
「詳しいことは歩きながら話すから。ね」
佐野は田中に言うと、流れるように加藤に向かって礼を言った。
「じゃあ、加藤くんどうもありがとう」
加藤に左手を振る佐野は、右手で田中のシャツの袖を掴んでいた。
平たいショルダー・バッグが佐野の左手と共に揺れていた。
「では私はこれで」
佐野と田中にそれぞれ一礼すると、加藤はひとりで3号館方面へと走って行った。
「オイ、ヒデカズ」
田中の声は加藤に届かないようだった。
「加藤くん、いい人だなあ。初めて会ったばかりの私に気を遣ってくれるなんて。ジェントルマンだわ」
「なんてこった」
「今度会ったらきちんとお礼しなくちゃね」
「いつ会えることやら、だがな」
ヒデカズのことだから、例え佐野を見かけてもなかなか声をかけられないだろうと田中は思った。
可能性が高いのは、佐野が目ざとくヒデカズを見つけて、先制してヒデカズに声をかけるという場合だろう。
田中は佐野に声をかけられてビクッとするヒデカズが想像できた。
(オレは佐野がいると分かったら、見つからんようにどうにかするが)
という方針に関わらず、今は見つかってしまった上に捕獲された状態であり、田中は諦めの境地に入りつつあった。
田中の脳裏では「女難」という言葉が蘇ろうとしていた。
(ハルちゃんのことから恵子と桐山、そしてさらに佐野までもか)
何かしら毎日湧き起こるこのパターンはやっぱり女難に違いないと思う田中であった。
「ヒデカズがいいってんだから、仕方ねえとは思うがな、なんでこうなるんだか……」
田中は佐野に向かってではないものの、思ったことをそのまま言っていた。
「とにかく、お昼ご飯食べるでしょう? 私が奢るから、ちょっと相談に乗ってほしいのよ」
佐野は田中をなだめるように言った。
(イヤな予感しかしねえ)
「ちょっと歩くけど、私のオススメの素敵なお店まで行ってもいい?」
「オレは拒否してもかまわんのか?」
「できればしてほしくないけど、無理強いは私だってしないわよ」
佐野は静かな口調で言った。
田中は「腹をくくるしかねえのか」と思い始めた。
佐野がなんらかの事情を抱えているのは本当だと感じられた。
「だが、相談すんなら、オレより他にもっといいヤツがいるんじゃねえのか?」
「いるんだったら、そうしてるわよ」
これでもすごーく考えてみたんだから。
佐野は続けて言った。
「例えばよく顔を合わせてる同じ科のヤツとか、だな……」
「うちの科?」
佐野はどうしたことかびっくりしたようだった。
「ダメダメ、それはないなあ。全然頼りにならないわ、特にこの場合だと」
佐野からかなり強い否定の念が伝わってきた。
田中は「この場合」という点に少々引っかかったが、佐野の元気が次第になくなっていくように見えたので、これ以上抵抗することはやめておいた。
「オレにはどんなヤツらがいるのか分からんからなんとも言えんが」
「私は自分の感覚を第一に動いてるから」
佐野のそのひとことは田中に自分とサッカーの関係を思い起こさせた。
(佐野らしいってことか、それが)
田中はすんなり納得できた。
「しょうがねえな、昼飯つきなら手を打つことにする」
田中は言った。
佐野の表情に元気が戻ってくるように見えた。
「じゃあそうさせてもらうね」
佐野が歩きだしたので、田中は佐野に続いた。
「で、オレはどこに連れてかれちまうんだ?」
「正門出たら左で、下りの最寄り駅からひとつ向こうの駅の近所までよ」
(少し歩くってのはそういうことか)
田中はやむを得ず佐野のあとをついて行った。
隣には並ぶまいと心に決めていた。
「ねえ、なんで隣に来ないの?」
「なんでオレが佐野の隣にいなくちゃならんのだ?」
「だって、今は私の連れでしょ、田中くんは」
「だからと言って隣にいる必要はなかろう」
「うしろにいる必要なんてもっとなかろう」
「は?」
佐野の返答に田中は虚を突かれてしまった。
「話がしにくいから隣においでよ、理由とか話したいんだから」
「それなら仕方ねえか」
田中は佐野の左側に並んだ。
歩いているのは歩道の上だったが、田中は車道側を選んでいた。
「なかなかやるわね、田中くん」
「なんのことだ?」
「別に、なんでもない」
「はあ?」
田中は佐野が笑顔になっているのに気づいた。




