III 6月(3)-8
田中から見た佐野の表情は自然な微笑みだった。
広瀬の表情も佐野に合わせたかのような微笑みに見えた。
なのに、何故自分はこんなふうにできないのか?
田中にとって大きな課題が残っていたが、気を取り直してこう言った。
「佐野は今日もよう分からん服を着てんだな」
「どう? 似合ってるでしょう」
佐野は足元からくるりと回って見せた。
広瀬は佐野の服装を確認したからか、こう言った。
「その感じだと……インドネシアとか?」
「わああっ!」
広瀬のひとことで、佐野の瞳はキラキラしたようだった。
田中はそう思った。
「広瀬くん、分かってくれるんだ。嬉しいなあ」
そう言った佐野の眼差しは田中へと移った。
「田中くんとは全然違うんだね、広瀬くん」
(なんでそんなことまで分かるんだ、広瀬?)
田中はさらに広瀬の評価を上げるしかなかった。
「私は田中くんとパンキョーの『現代文学史』で知り合ってね」
佐野の言葉に広瀬が続いた。
「へえ、そうだったんだ、田中」
「そのとおりだが、な」
「田中くんから声をかけてくれたから」
「やっぱり」
今度も佐野の言葉に広瀬が続いた。
「オイ広瀬、ちょっと待て。誤解してんじゃねえか?」
田中は口を挟んだ。
「私もね、せっかくだから田中くんの隣の席とか、なるべく近くにいるようにしてたのよ」
「なんだって」
そんなはずねえだろうが。
田中は思った。
「なのに田中くんが私をきちんと紹介してくれなくて、がっかり」
「そいつは残念だったな」
「でも、田中くんのおかげで広瀬くんと知り合えてよかったなあ」
「そんなふうに言ってもらえるなんてぼくもよかった。田中は女の子の知り合いがたくさん……」
「広瀬、うるさい」
「田中くん、広瀬くんの言葉を遮っちゃうなんて、なんとなく偉そうだなあ」
「でしょ? 実はぼくも前からそう思ってるんだよね」
「佐野と広瀬は気が合うみたいでよかったな」
「ホントだ。いい感じだね、広瀬くんとは」
佐野は普通に言っただけで、なんの含みもないのか。
田中は突っ込むのをやめておくことにした。
「それにしても田中くん」
佐野は目を細めて低い声を出した。
「さっきの、もっとどうにかできなかったかしら?」
「ん? オレは簡潔に紹介しただけだが」
「いかにも田中らしいでしょ、佐野さん」
「そうね、そうなるのかもしれないわ。個性かな?」
佐野は納得したようにゆっくりとうなずいた。
「オイ、なんだって?」
広瀬は自分の口元に右手を当てると顔を左側に向けた。
「ねえ田中くん、ところで」
「まだなんかあんのかよ、佐野」
「あんのよ」
田中に負けず劣らずの口調で佐野が答えた。
「田中くんたち、さっきまで三人だったよね?」
「そのとおりだが」
田中は佐野に答えた。
「どうしてひとり、いなくなっちゃったの?」
「オレにはっきりしたことは分からんが、佐野が声をかけてきたときに逃げだしたようだ」
「何よ」
「何よって、なんだ?」
佐野はむっとしているように見えた。
自分のうしろで広瀬が先ほどから笑いをこらえているのは田中にも分かっていた。
「私が原因だって言いたいの、田中くん?」
田中は佐野の視線をかわして、うしろに向かって言った。
「広瀬、うるさい」
「ごめん。でも田中がおかしくて」
「そうだよね、広瀬くんは分かっている人だわ」
今度は田中がむっとしてよさそうな番だったが、右手の人差し指でこめかみの辺りを少しだけかいてやり過ごした。
「なんでだろうなあ? 自信なくなっちゃう」
「佐野が気にするこたあねえぞ。土井はああいうヤツだからな」
「ドイ? ドイくん、ていうの? その彼は」
「そのとおりだ」
「ホント? 広瀬くん」
「オイ、なんでそこで広瀬に訊くんだよ」
「だって、田中くんはさ、ほら」
広瀬はうしろ向きでなおも肩を震わせていた。
それがどんな状況なのか、田中は即理解できた。
「佐野と広瀬はさっき初めて会ったんだよな?」
「そうよ。でも、もう挨拶を交わしたから友だち」
「はあ? ヤケに早えじゃねえか」
「あら? 田中くん、ひょっとして焼いてる?」
佐野はわずかに腰を屈めると、下の方からニヤニヤして田中の顔を覗き込んだ。
「佐野、うるさい」
「田中って、見事なくらい素早いよね」
広瀬は笑いをこらえながら田中に言った。
「広瀬もうるさい」
「田中くんて素早いの?」
「そういうこと」
「オイ広瀬、そりゃあどういうこった?」
「私も聞きたいな、広瀬くんに。広瀬くんの言うことなら信じられそうだし」
「佐野、何度もうるさい」
つい口が滑ったとでもいうように、佐野は肩をすくめた。
広瀬がいいタイミングで口を挟んだ。
「絶妙な会話だね、田中」
「はあ?」
「見習わないとなあ、ぼくは」
「広瀬もまたうるさい」
田中の表情は無意識にではなく、明らかなしかめっ面をしていた。
佐野がいいタイミングで口を挟んだ。
「またそんな顔しちゃって」
「ほっとけ」
「でも、不自然な作り笑いよりはいいか」
佐野はそう言うとにこりと笑った。
広瀬はまたうしろを向いてしまった。
肩の震えは制御困難らしかった。
「分かったよ、広瀬。オレの負けだ、仕方ねえ」
「ドイくん、か……」
佐野がつぶやいた。
「なんで彼は、田中くんや広瀬くんと一緒にいるの?」
「は?」
「ねえ、なんでだろう? 田中くん」
「名簿順に三人並んでたのが始まりだったが」
「それって、入学したばっかりの頃なら分かるけど、今でも一緒にいられるのは不思議な気がするのよね」
佐野のひとことに、田中は続けて応じた。
「あいつはだな、体調を崩していてまだ不調だ。それで早く帰ったり、休んじまうことが多い」
「ふうん」
「だがな、案外面白えヤツだぞ」
「そう?」
「そうだよな、広瀬」
「うん。それは田中の言うとおりだと思うよ、佐野さん」
「広瀬くんがそう言うなら信じられるわね」
佐野は「広瀬くんが」を強調して言った。
「また不思議が増えちゃった、この世界に」
(この女は……)
田中が思っていると佐野はごく自然な様子で言った。
「じゃあ、田中くん、広瀬くん、またね」
佐野は田中と広瀬それぞれに手を振ると、連れの三人が行ったであろう方向に走り去った。
「佐野さんて、勘のいい人みたいだね」
「まあ、そのようだが」
田中は広瀬の意見に同意しておいた。
「田中は女の子にとても積極的だね」
「待て、それは違うぞ。あの女はたまたまオレが落とした消しゴムを拾ってくれてだな」
「いいっていいって。悪いことじゃないし、ぼくは田中を見習いたいだけ」
広瀬は笑顔でそう言った。




