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Desafinado(調子はずれ)  作者: カワヤマソラヒト
5/61

I 4月(5)


      *


 田中正彦は約20分ぶりに原田先生の声を聞いた。


「えー、それではですね、みなさんに自己紹介をしてもらいます」


 休み時間中に、O先輩とM先輩は教卓を黒板の前に運んだ。

 原田先生が教卓を使い、その右側に相田先生がいた。

 先生方は何か紙を持ってきていた。


「では最初の人……小野さんでいいのかな」


 原田先生が教卓に置いた紙を確認してから言った。

 紙は名簿らしかった。

 相田先生はふたつ折りにした紙を両手で開いた。


「はい」


 小野は返事をした。

 大きな声ではなかったが、その声は大部屋の対角線をダイレクトに田中にも届いた。

 聞き取りやすい声だと田中は思った。

 田中は机に突っ伏して、顔だけ左に向けて窓の外を見やっていた。

 自分から数メートル離れた位置に窓がある。

 外にはまばらに何本もの木が見えている。

 田中にはそれらが「木」としか分からない。

 木はずっと奥の方まで生えているような気がする。

 木より手前には草が生えている。

 草の大きさはばらばらだと思う。

 田中にはそれらが「草」としか分からない。

 草の間には土が見える。

 土は土だと田中は思う。

 手入れがされずに長い時間が経った小さな庭、それとも空き地……?

 草刈りをすればまずまずの平地になりそうだ。


「ひとことめにね、自分の名前を言ってください。フル・ネームでお願いします」


 原田先生は小野だけにではなく全員に向けて言ったのだなと、窓の外を見たままの田中は思った。


「では小野さん、始めてください」


 田中は窓の外から小野へと視線を移した。


 原田先生の言葉を受けて、小野は立ち上がった。

 くるっと部屋全体を見渡すように振り向くと、ポニー・テールが揺れた。

 田中は軽い既視感を覚えた。

 小野は微笑むとはっきりした口調で話しだした。


「小野恵子けいこです……」


 小野の表情を眺めて、田中は妙な気分になっていた。


(ん? なんだこの感じ?)


 田中にとってそれは思いがけないものだった。

 しかし、初めての感覚ではない。

 田中はそんな気がした。


(バスの中で挨拶されたときはなんにも感じなかったが、なんだってんだ? あの表情? イヤ、さっきより遠い位置、だからか……)


 考えがまとまらない。

 小野の顔は自分には普通に思える。

 特別印象に残るようなことはないと思う。

 似たような顔の人は案外いるのかもしれない。

 それで自分がおかしな感じになっただけかもしれない。

 田中は今のところそれで手を打とうと思った。

 そんなふうに田中がごちゃごちゃと考えているうちに、小野の自己紹介は終わっていた。

 小野が名前のあとにどんなことを話したのか、田中はまったく聞いてなかった。

 小野が着席すると、そのうしろの席の男が立ち上がった。


「加藤秀一ひでかずです」


 男は自分の名前を言った。

 田中は加藤の顔を、人混みの中なら十人はいそうだと勝手に考えていた。


      *


 粛々と自己紹介は進み、バスで小野と話していたふたりは佐藤と島田であると田中は知ることになった。

 田中がひとまず覚えたのはふたりの苗字までだった。

 あと何度か顔を見て復習しないと、記憶はすぐに消えそうな気がした。


      *


 そうこうするうちに、残すところ三名となった。

 それは田中とうしろのふたりだったが、土井はいまだにいなかった。

 土井がいなくても田中の番になった。

 田中は仕方なく腰で椅子を動かした。

 リノリウムの床をこすった音はよく聞いたことがあるものだった。

 田中は立ち上がると、身体の向きを変えることはないまま訥々と話し始めた。


「田中正彦、S県の出身です。成績は、はっきり言ってよくないはずですが、前向きに頑張って、無事に卒業したいと思ってます。よく無愛想だと言われます。悪気はないですが、失礼があったらすみません。みなさんよろしくお願いします」


 話している間に視線を動かすこともなく、田中は普通の表情をしていたつもりだったが、その表情が無愛想と言われる由縁のものだとは知らなかった。

 拍手と笑い声が混ざった小さなざわめきが田中の耳に聞こえてきた。


(うわ、またやっちまった)


 心中でつぶやいたのは、田中が椅子でリノリウムをこすって腰を下ろすときのことだった。

 もう遅い。


(せめて小野さんのように部屋の真ん中の方に向くぐらいしとくべきだったか)


 腰を下ろした田中は机に突っ伏すと、額に右手を当て顔をしかめていた。


(どうも気が散ってイカン)


「負け」という文字が田中の頭の中で輪郭をなし始めた。

 自分がこうも気を散らしてしまうのはまだガキだということか。

 田中は自分が高校時代から進歩がなく未熟で相変わらず分からないことばかりだと感じていた。

 日付の上では高校を出て間もないばかりだし、そう急に成長するはずはないとは分かっている。

 だが、今や高校生ではない。

 サッカー部の前部長から譲り受けた丈の長い学ランは裏地に竜虎の刺繍があったが、それは太くて風通しのよい学生ズボンと共に後輩に引き継いだ。

 絶対にもう身につけることはない。

 兄からもらった黒いスクーターは実家に置いたままだが、いくら乗り回しても誰の目を気にすることもない。

 市立図書館の裏にある公園の駐輪場にこっそり停めておく必要もない。

 つまらんことに気を取られることは明らかに減ったはずだ。

 1ミリくらいは前に進んでいてもよさそうなものなのに、


(仕方ない。オレがここでどうこうできる場面は終わった)


 田中は自分が前に進むためにはまだ時間が足りないということにした。

「勝ち」に手が届かないのを認めたのだった。


(今は広瀬の自己紹介の邪魔にならないようにするだけだ)


 田中は額から手を離したが、引き続き机に突っ伏していようと決めた。

 そうすればより広瀬が同僚たちからよく見えるに違いない。

 もやもやしている田中の耳に、原田先生ではなく相田先生の声が聞こえた。


「では次の人……」


 田中は突っ伏したままで視線だけ動かして声がする方を見た。

 原田先生は大きな黒板の端の辺りにいて、相田先生を見守っていた。

 相田先生が教卓を使っていた。

 視線が教卓に落ちている。

 紙を載せてあるようだ。


「土井さん、お願いします」

(土井はまだここにいないのだがな)


 田中のすぐうしろの席は空いたままだ。

 田中が相田先生を見ながらそう思っているうちに、うしろからO先輩の声が聞こえた。


「土井くんはまだ医務室です」


 原田先生の「いけねっ」という声が聞こえた。

 先生は一歩前に身を乗り出した。


「Oくんごめん。報告してもらってたのにうっかりしてた」


 原田先生はO先輩に向けて右手を「スマン」という感じに立てた。

 そのあと相田先生に「土井くんの次の人」と言った。

 相田先生はうなずくと、広瀬の苗字を声にした。

 広瀬は立ち上がってから「はい」と言った。


「広瀬まなぶです」


 広瀬の自己紹介が始まった。

 田中は机に突っ伏したまま振り返らずに聞くことにした。

 自分が身を低くしていれば広瀬の姿がよく見えるだろう。

 そんな理由をさっきから考えていたが、単にだらっとしていたかっただけだった。


「こんなずうたいをしてますが、黒帯を締めたことはありません。ワケあって白帯のままです。柔道をやっていたのですが、もうする気はありません」


 よろしくお願いします、と言うと、広瀬は着席した。

 田中は驚いて身を起こしていた。

 恰幅のよい広瀬の方へ振り向いた。

 短時間のどよめきがあった。

 田中の自己紹介のときよりは長く、大きかった。

「負け」という文字が田中の頭をよぎった。


      *


 広瀬を最後に1組全員の自己紹介が終わった。

 再び15分休みとなった。

 田中はふたつうしろの広瀬の席まで行くと、小声で言った。


「広瀬、柔道やってたのか」

「のべ6年間ね」

「そんなにか、すげえな。どおりでいいガタイなわけだ」

「体育でね、中学、高校と、のべ6年」

「体育だって?」

「そうだよ。嘘はひとつも言ってないよ」

「お、おお。そうだな、そのとおり、か」

「ちょっとかましてみたかったんだよね、一度くらい」


 広瀬はにやりとした。

 田中が初めて見る広瀬の表情だった。

 田中は広瀬の評価をさらに上げた。


「土井は自己紹介に間に合わなかったね」


 広瀬は座ったままで言った。


「そのとおりだ」


 田中は応じた。


「元気になってくれりゃあ、それでいいんだがな」

「田中はさ」

「なんだよ広瀬」

「初めに自己紹介してくれた小野さんのときだけ、妙に熱心に見ていた気がするんだけど」

「そんなふうに見えたか、オレ」

「ぼくにはそう見えたな。他のみんなには無関心みたいだったのに」

「広瀬にはそう見えたのか……なんでだろうな」

「いちばんうしろの隅っこにいるからかな。ぼくはいろいろ見えるんだよね」


 首をひねる田中に、広瀬はからかうように言った。


「小野さんに惹かれるものがあったんでしょ、田中は」

「なんだって」

「そうでもなければ、思わずハッとした感じで見たりしないよね」


 田中は無意識に顔をしかめていた。


「小野さんとしゃべってくればいいのに」

「なんじゃそりゃ」

「しゃべってくればね、もやもやが晴れると思うけどな、ぼくは」


(そんなもんかねえ)


 田中は話題を替えようと思った。


「ところでだ、広瀬」

「なんだい、田中」

「うちの学科は確か百人程度のはずだが、オレの学籍番号が103なのはなんでだ?」


 あっちの大部屋にまだ半分いるんだがな。

 田中の疑問を聞き終えると、広瀬はあっさり答えた。


「1年生全体を通し番号にしてるんじゃないかな」

「ほう、そうなのか」

「たぶんね。他に考えつかないから。小野さんは52番だって言ってたし」


(小野は52番? そんなこと言ってたのか)


 田中は小野の自己紹介をまともに聞いていなかったので、52番は最新情報としてはっきり記憶した。

 広瀬の評価をもっと上げねばなるまい。

 田中はそう思った。


「広瀬が近所にいてくれてオレはすごく助かってるぞ」

「それはどうも」


 広瀬は田中に言った。


「だけど、田中に誉められると、不気味な気がするね」

「オイ、いくらオレでもそれはあんまりだと思うんだが……」


 鳥の鳴き声が聞こえたような気がした。

 カッコウかもしれない、と田中は思った。

 そのくせ実際はカッコウの声を聞いたことがなかった。

 鳥の名前が他に出てこなかっただけだった。


「なんか鳥が鳴いてるね」

「だな」


 田中は広瀬に2文字だけ返した。


「田中はあの鳥の名前、分かる?」

「オレが分かると本気で思ってんのか?」


 広瀬は「くくく」と笑った。


「田中って、面白い人だよね」


 田中は何も言わなかった。

 立ったままで数メートル離れた窓の方を向いてはいたが、鳥を探していたのではない。

 目に映っているものにはおかまいなく、田中は小野について考えていた。


(広瀬がおかしなことを言うからだぞ)


 田中はバスの中で小野が見せた驚きの様子や、ポニー・テールが揺れた場面をなんとなく頭の中で再生していた。

 どうしてそんなことになっているのかは心当たりがなかった。


「さっきの鳥さ、がらすだったらいいと思わない?」

(そんなカラスもガラスも知らん)


 田中正彦はそう思っていた。


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