III 6月(3)-2
(いくら考えたところで、あの傘のことはハルちゃんに訊けねえよな)
自室であれこれ考えてしまうよりも、と思ってバイトに入ったのに、田中は陽美について気になっていた。
(いつだったか、実家のオレの部屋で泣いてた日のことが関係してるのかもしれんが、そんなことをほじくり返すのもイカン。それに、オレの問題じゃねえし、オレが気にすることでもねえんだぞ)
田中はそんなことを考えている自分に気がつくと、左手で目の辺りを押さえた。
(実際のところ、オレはかなり気にしてるんだな、ハルちゃんを)
もはやそう認めるしかないと諦めるしかなさそうだった。
田中の脳裏に「負け」という文字が浮かんだ。
(ここで負けを認めるのは意味が違うだろうが)
田中は心の中で自分に突っ込んでみた。
(しかし、昨日、イヤ、日付が変わってたから今日か)
別れ際の陽美の表情がなんとなく寂しそうに見えたことを田中は思い出していた。
(なんでもなさそうに笑顔で見送ってくれてたけど、オレにだって分かるぞハルちゃん)
田中は思った。
(どっか無理してんじゃねえか、って)
今の田中はとても体調がよかったが、実際は帰宅後あまりよく眠れなかった。
うつらうつらしながらあれこれと考えていたり、思い出してみたりで、心の森の奥の湖にいる魚はどっちつかずの田中のせいで忙しかった。
(ハルちゃんにとっていちばんいいことってのは、どんなことなんだ?)
余計なお世話かと思いつつ、やっぱり自分は陽美に頼ってはもらえないのだろうか。
自信も自覚もない田中であった。
(「返せなくなっちゃったから」、か……)
* * *
「マアくんになら、大きさもちょうどいいと思うし」
「ありがたく使わせてもらうが、あとでしっかり返すから」
「返してくれなくていいよ」
「そうはいかんだろうが」
「私、自分の傘は他にあるし、よかったらそのままマアくんが使ってて」
陽美にそう言われると、田中はまず自分が傘を失くす可能性が高いと考えた。
これまでどれほどの傘を失くしてきたことか?
失くすこと、または壊してしまうことを前提に、田中は安物のビニール傘しか使わないようにしていた。
だが陽美から受け取ったこの傘はそう簡単に失くすわけにはいかない。
田中はそう感じた。
ドアの外に出て傘を開いてみると、やはり骨組みからしっかりしている。
焦げ茶色の傘は外観も重さも存在感も相当にあった。
サイズもビニール傘よりは二回り以上は大きい気がした。
ふと見ると、読めないが「Fabriqué en France」というタグがついていた。
(フランス、か?)
細かいことは分からないがとても値段が高そうなしっかりとした作りの傘だ。
おろしたてではないにしても、田中にはまだ新しいもののように見えた。
「いつまでここに置いてあってもなんにもならないし、ちょうどよかった。今こそ有効利用のチャンスなのだ」
「お、おお……」
田中は陽美の意見を認めたが、戸惑っていた。
その様子に気がついたのか、陽美が言った。
「なんにも気にしないで。もし壊しちゃったり失くしちゃったりしても、そのときはそのとき、時の運ということなのです」
陽美の言葉から田中は「勝負」という単語を連想した。
しかし、そんな連想をしている場合ではない。
陽美が言葉を続けた。
「盛者必衰、じゃないな、栄枯盛衰、だとおんなじか。えーと、なんだっけ……」
陽美が困った表情を浮かべた。
田中は思ったことを言葉にした。
「待ってくれ。実は誰かに返さなきゃイカンのでは……」
「そんな心配はいらないのだよ、マアくん」
陽美は静かに微笑んでいた。
「私がもらったものなのです」
「もらった?」
「結果的に、だけどね」
穏やかな表情で陽美は言った。
「もう返せなくなっちゃったから」
田中は陽美の言葉が何を意味しているのか想像してみた。
── 誰から?
── どうして?
田中は訊けなかった。
訊いたところでどうなるわけでもない。
ただ、少なくとも兄の鷹雄ではないとは理解できた。
もし鷹雄だとしたら、陽美が歯切れのよくない言い方はしないはずだ。
(ハルちゃんにだっていろんな過去があるよな)
田中は複雑な心境になった。
(言いたくないことや思い出したくないことだってあるもんだよな)
誰にだって言えることだ。
そう分かってはいるけれども、どうしたことか、田中は自分の気持ちを冷静になるように落ち着かせる必要があった。
深呼吸をしようとした田中を陽美の言葉が制した。
「思い出したわ、諸行無常、なのです」
そう言われたところで田中にはショギョームジョーと聞こえてしまいなんのことやらであった。
田中は脱力しつつ、傘を左手に持ち直すと陽美へ向かって右手を挙げた。
「んじゃ、またな」
階段を駆け足で降り陽美の住むアパートを離れると、田中はちらっと振り向いてみた。
陽美はまだドアの前にいて田中の様子に気がつくと両手を振ってみせた。
田中は思わず早足になっていた。
例の公園を横目に見ながら、夜中でも明るい国道に向かって歩いた。
心の内側で森がざわめくのを感じていた。
湖の魚の出番はなかった。
ただ森の木々が強めの風に吹かれているように感じるのだった。
* * *
マグカップのコーヒーはすっかり冷めてしまった。
田中は残っていた分を一気に飲み干すと椅子から立ち上がった。
(こんなことではイカン。まだ少し早いがフロアに戻るぞ)
1点ビハインドのハーフタイム後のような気持ちで田中は従業員控室から出ていった。




