III 6月(3)-1
田中正彦は電話のコール音に気がついた。
(そうか、出かけたときに留守電にしたままだったな)
ベッドの上で時計を見ると、午前9時を過ぎたところであった。
(電話が鳴ってるからといって必ず出なきゃならんもんじゃねえよ)
ぼんやりしている田中に、留守番電話が作動する音が聞こえた。
なんだか謝っているような声が徐々にはっきりしてくる。
(おいおいおい、この声は店長じゃんかよ)
田中は慌ててベッドから降りて受話器を取った。
「も、もしもし、田中です」
── ああ、お休みのところ朝から申し訳ないです。田中くんに急遽お願いがあってダメ元でかけてみたんだけど、出てくれてよかった。
「ああ、はい」
田中はすぐにピンときた。
店長からの電話だからバイトの件に決まっているし、急遽となれば話はひとつであろう。
「代役ですか?」
── 話が早くて助かるよ、田中くん。
そわそわしているようだった店長の声が少しずつ落ち着いてきた。
── もしよかったら、本当に申し訳ないけれど、日曜日の午後にフロアの人数が手薄だと大変だから、できれば入ってもらえると私としては助かるんだけども……。
「午後、ってことは12時からでいいんですか?」
── そうなんだけど、どう? 無理言ってるのは分かってるんだけど、自分は今日どうしても出られないもんでね。
言われてみると、シフト表のボードにだいぶ前からこの日店長は有給って赤で書いてあったような気がしてきた。
予定どおりならバイトの他に社員さんがふたりいるはずだが、店長によるとそのうちのひとりが急病らしい。
「大丈夫です。12時から入ります」
── 本当かい、ありがとう田中くん、恩に着るよ。
店長の笑顔が見えるような言い回しだった。
もちろん、単なるバイトのひとりである田中にはなんの責任もないが、店長が自分を頼りにしてくれているのだと感じられたし、部屋で変にぼんやりしているよりは動いてた方がよさそうだと、田中は思った。
(まあ、オレが動けば丸く治まんのなら、それでヨシとするしかあるまい)
はっきり目が覚めてくると、田中は体が軽い気がしてきた。
昨日の「おねえさんのカレー」がすごく効いたように思える。
(かなり食ったしな)
田中は漠然と思った。
── こういう気分を『おねえさん冥利に尽きる』って言えばいいのかもしれませんな。
そう言った陽美の満足げな表情が自然に浮かんできた。
田中の心の森の奥にある湖で魚たちが待ちかまえていたようだった。
(ハルちゃんは今頃どうしてんだかな)
*
雨の中、陽美から受け取った傘を使って自室に帰ってきた田中だったが、なんだか気持ちが落ち着かなかった。
妙にモヤモヤした気分であった。
そのモヤモヤの原因が、玄関のドアの内側のノブに引っかけておいたあの傘であることは否定できない。
傘の下には小さな水溜まりが見えた。
(なんでオレがいちいち気にしなくてはならんのだ)
陽美にだっていろいろあるのは当たり前である。
いくら長いつきあいだからといって、自分が陽美のすべてを知っているわけではない。
気になることは気になるのだが、では知らないことをあらためて知りたいのかというと、それは違うような気がする。
(つうかだな、こんなのまったくオレらしくねえぞ)
こういう面倒なときはとっとと寝てしまうに限る。
田中はTシャツとトランクスのままベッドに寝転がったのだった。
*
外に出てみると、雨は止んでいるがスッキリしない天気であった。
日差しはあるが薄曇りで、なんとなく蒸し暑い。
バイト先に着くと、出勤していた女性社員さんがちょうど従業員控室にいた。
「田中くん、店長から話は聞いてるよ。よろしくお願いします」
田中は本日店内でいちばん偉いと思われる人に頭を下げられてしまった。
人に頭を下げられるのは、それが誰であれ理由がどうであれ間がもたないので田中は苦手だった。
しかし無視するわけにもいかないので、田中も鏡のように「よろしくお願いします」と頭を下げていた。
*
日曜日の午後のファミレスがガラガラなんてことはありえない。
田中は休憩時間に従業員控室に戻ってくると、店長が自分に電話をかけてきた意味について意気に感じるところがあった。
(多少はドタバタしたが、だいたい順調に回ってんだからこれでヨシ、だ)
ランチタイムが過ぎてピークを無事に超えたのだった。
従業員用のコーヒー・サーヴァーに手を伸ばしたあと、田中は椅子に腰かけて、ひと息ついた。
(コーヒーを飲むのは久しぶりな気がすんな)
同時に休憩を取る人はいなかったので田中は気兼ねなく手足を伸ばしてみた。
(昨日は水以外に飲んだのは紅茶だったしな、あのやたら長い名前の……)
田中は陽美の好きなブランドの名前を思い出そうとしたが、深緑色の缶のイメージはあるものの、名前は浮かんでこなかった。
自分があんな長い名前を覚えられるとも思えなかった。
田中はコーヒーの入ったマグカップを口にした。
(紅茶は紅茶だということで、今はヨシとしておく)
ブランドの名前は覚えられそうにないが、種類は確か「ブレンド」だった。
ふとそう思い出した田中だったが、何ブレンドなのかは記憶になかった。
心の森の奥にある湖は静かなものであった。




