III 6月(2)-19
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「本当に泊まっていかないの、マアくん?」
「当然だ」
「積もる話が星の数ほどあるのに?」
(いくらなんでもそこまではなかろう)
「あら、もうこんな時間だったのね」
陽美は天井に近い位置にある時計を見ていた。
時刻は午前零時になろうとしていた。
まもなく日付が変わってしまう。
「楽しい時間って、なんでこんなに早く過ぎちゃうんだろうね」
「終電に乗れなくても帰れることが分かったから、オレは慌てずにすんで助かったが」
「夜のお散歩で、途中まで送ってあげようか? 国道の辺りまで」
「それは遠慮する。真夜中に女の独り歩きなんて物騒じゃねえか」
「私を気遣ってくれるのね、優しいなあマアくんは」
「もしハルちゃんがついてくるなら、オレがまたここに送ってこなきゃならんだろう」
「そして、繰り返し、延々と続く、と」
「なんでそうなるのか分からんのだが」
田中はヒヤリとした。
陽美はキョトンとしている。
「マアくんがお風呂に入っている間にお布団敷いたりして準備するつもりなのに」
「泊まる理由がなかろうが」
「そうなの?」
「歩いて帰れると分かったわけだしな」
「しまった、教えてあげるのは明日の朝にでもしておけばよかった」
「ハルちゃん、それ、冗談だよな?」
「ふっふっふ……」
(またそれかよ)
「さあて、どうかなあ?」
「冗談以外の答えは認めんぞ」
陽美は田中をはぐらかすかのように続けた。
「実家だとベッドなのは知ってのとおりです」
「はあ」
「でもほら、この部屋にベッドを置いちゃうとだいぶ狭くなっちゃうでしょう。だからお布団を敷いて寝てるのだよ」
「へえ」
「軽くてふわふわの羽毛布団買っちゃったしね」
「ほう」
陽美は両腕を広げて見せた。
「こ~んな大きな枕とか」
「ほう」
「パジャマとかネグリジェとかバスローブとか……」
「ほう」
「マアくん」
「ほう」
「田中正彦!」
「ん?」
「……聞いてなかったわね」
「何をだ?」
「あ~あ、張り合いがないんだから」
「は?」
このままでは埒が明かないと考えた田中は、思い切って立ち上がった。
陽美は座ったままで田中を見上げていた。
「マアくん?」
「なんだよ」
「ホントに帰っちゃうの?」
「当たり前だろうが」
「ホントに本当?」
「無論な」
「どうして?」
「どうして、って、逆になんでオレがここに泊まらねばならんのだ?」
「久しぶりに親戚の……仲よしのイトコの部屋に初めて来てくれて、積もりに積もった話が星の数ほどたくさんあるから、だよ」
田中は陽美の意見を何ひとつ否定することができなかった。
「遠慮なんて、することないじゃん」
「遠慮とかではなくてだな」
「なんか文句がある?」
「イヤ、文句でもなくてだな……」
「もしかしてマアくん」
「は?」
「私に襲われると思っちゃった?」
「あのな、ハルちゃん」
田中は極力冷静に言ってみた。
「なあに?」
「この際だからはっきりと言っておく」
田中は陽美と向き合って、右手を軽く上げると左右に振った。
「それはない」
陽美はかまうことなく補足するように言った。
「私からは襲ったりしないから」
「ハルちゃんからは?」
「マアくん次第なのだ」
「はあ? なんじゃそりゃ」
田中は陽美の言葉のニュアンスが冗談なのか本気なのか判断しかねていた。
(オレから襲うってのか? えれえ冗談キツイぞ、ハルちゃん)
陽美はすぐに言葉を続けた。
「昔……みんなまだ小さかった頃にさあ」
「ん?」
「もう寝なさいって親に言われても、お布団の上でよく四人で騒いでて怒られたよねえ」
「それは認める。しかしだな、それとこれとは全然違う話だろうが」
「最後はみんなゴロ寝しちゃってね、お布団蹴飛ばしてたり、はみ出しちゃってたり」
陽美はとても懐かしそうに言った。
「最後まで起きていたのは私だったから、マアくんに抱きついたりしちゃって」
「いつの話だよ?」
そんなことがあったかどうか、田中には記憶がなかった。
田中の心の森の奥の湖はしんとしていた。
「相手が私だけだと、ダメかしら?」
「そういう話でもなくてだな」
「マアくんなら全然OKなのに」
「は?」
「いつ泊まりに来てくれてもいいんだよ」
「なんでそんな話になるんだかこれっぽっちも分からんのだが」
田中は冷静さを意識しながら言った。
「もしかしてマアくん、また忘れてるな?」
「何をだよ?」
「お互い助け合うように、って言われてるでしょう?」
陽美の解説によると、なんらかの原因で自室に帰れない場合は遠慮せず泊まりに来てもよい、という意味であった。
田中はわずかながらがっくりした。
(ハルちゃん、オレをからかってんのか?)
「このおねえさんと一緒に眠りたいって、そんな気持ちが今ちょっとでもあるなら嬉しいな」
「はあ」
「長いこと一緒に眠ってないもんねえ。いつからだろう?」
「オイ、何言ってんだよハルちゃん」
「いつの間にか10数年以上経っちゃったのか」
「経ってなかったらヤバイだろうが」
「そうかな?」
「ガキの頃はいいとしてもだな」
「ふたりきりっていうのはなかったけど、私はマアくんの隣でよく寝てたよ」
「そう……だったかも、しれんがだな」
心の森の奥の湖の水面は静かなものであった。
「で、よく抱きついてたし」
「なんだって? オレはそんなことは」
「私がしてたのよ。マアくんはときどき迷惑そうに見えたときもあったけど、許してくれてたのよね」
田中は返答に詰まった。
眠ってしまえば田中自身はなんにも気にならないだけ、という話だと思うことにした。
「とにかく、だ。オレは帰るからな」
「無理しなくていいのに」
「してねえ」
「ふたりきりは初めてなのに」
田中は玄関に向かって歩きだした。
さっきのひとことは聞こえなかったことにした。
陽美は立ち上がって田中に続いた。
無言のまま、田中は玄関のドアを開けた。
ひんやりとして湿った空気が陽美の部屋へ入っていった。
「雨になっちまったか」
「雨だね」
雨は静かに降っていた。
雨音は聞こえない、細やかな雨であった。
「梅雨の季節だし、仕方ねえな」
「まさかマアくん」
「ん?」
「そのまんま帰るつもり?」
「持ち帰るようなものはなんにもねえからな」
「ちょっと待ってて」
そう言ってから、陽美は外の様子を確認したあと部屋の中に戻った。
なんとなく陽美の様子を目で追っていた田中は、陽美がどこからか明らかに値段の高そうな焦茶色の傘を持ち出して来たのをありありと見ていた。
柄に何かの彫刻がされているし、サイズ的には男物であるように見えた。
「こんなこともあろうかと用意しておいたのです」
「ホントかよハルちゃん」
「というのは冗談よ」
「は?」
「でも、これ使って」
(ハルちゃんにはかなわんからな)
陽美は傘を田中に渡した。
傘の重みが田中の手に伝わってきた。
まさか、と思った田中だったが、どうやら傘はナイキ製ではなかった。
(かなり頑丈そうだな)
田中正彦は陽美に似つかわしくない雨傘をよそよそしく感じていた。




