III 6月(2)-17
「もしかしてマアくん、オリエンテーションか4月の合宿のときにもらった学校説明の書類、ちゃんと見てないな?」
「は?」
図星なので呆然とする田中であった。
「仕方ないなあ、マアくんは」
(スマン、広瀬)
田中は広瀬からA4サイズでうすい黄色の封筒に入った書類を見せてもらったことを思い出した。
心の森の奥の湖では大きく波紋が広がっていた。
田中は心中で両手を合わせ目を閉じてうなだれながら広瀬に詫びた。
自分がもらっているはずのものはいまだ消息不明であった。
「成績優秀者には、学校から奨学金が出るのだよ」
「なんだって」
「特に優秀な場合は支給されるんだから、返す必要がないんだぞ」
奨学金制度のことはまったく記憶がない。
田中は字が細かいページはちらりと目をやったきりだった。
「実はこのお姉さんも奨学金をもらっているひとりなのだ」
(ハルちゃんなら全然驚かねえよ)
田中は陽美の優秀さに絶対的な信頼を置いていた。
(だが、まだ1年の前期とはいえ、オレのアタマでいい成績ってえのはなあ……)
田中に「奨学金」を想像することはひどく困難であった。
「奨学金だけで暮らしていくのは無理だけど、けっこう助かるのよ。少なく見積もっても、バイトの時間は勉強する時間に変えられる気がするし」
「そういうことになるわけか、奨学金というものは」
「マアくん、バイトを一生懸命やりすぎなのよ。きっと勉強より気合が入ってるんじゃないかしら?」
「は?」
「おねえさんとしてはマアくんの行動パターンをすべて知り尽くしているので間違いないと確信しているのです」
(反論できねえ)
否定しておきたいところだが、田中にはその理由や根拠が思いつかなかった。
まるで金網デス・マッチでボロクソに負けたレスラーのような気分だった。
(せめて普通のシングル・マッチなら多少はやりようがあったろうが、こんなオレじゃダメだよな)
「サッカー部のときは中学でも高校でも部長やってたよね?」
「そのとおりだが、サッカーとバイトは関係ねえだろうが」
「そうかしら?」
陽美は上目遣いに田中を見ていた。
「ファミレスのバイトって、何人かでシフトを組んで回してるよね?」
「それもそのとおりだが、それがどうかしたか?」
「チーム・ワーク、でしょ?」
バイトのメンバーを仕切れるくらいの働きをしている田中は、陽美が言わんとしていることがよく分かった。
(サッカーの話はそこにつながるってか、参ったなハルちゃんには)
言われてみるとサッカー部の部長をやっていた頃の雰囲気とバイト先での雰囲気は似ているかもしれない。
田中は初めてそう感じた。
「チームの状態が整ってきたら、マアくんは自分のシフトを少し減らして体調を万全にしなくてはいけないのです」
「……実はそんな感じで今月はシフトを減らしてもらったのだが」
「思ったとおりだわ」
「思ったとおりなのかよ」
田中はがっくりと肩を落としてうなだれていた。
「おねえさんとしてはしっかりしていることが大事だから、あれこれシミュレーションをしながらどうにか頑張っているのだ」
陽美は腰に拳を当てて胸を張って見せた。
(オレとしてはハルちゃんにここまで気を遣ってもらわなくてもいいんだがな)
田中は思った。
(もっと気楽でいてほしいし、オレがハルちゃんの役に立てるなら本望だ。だが、オレ自身がこんなザマじゃ全然無理だって思われちまってんのか)
「マアくんがせっかく近所にいてくれるんだもん、どんなことがあろうとも、いざとなれば力になるからね」
「そいつは助かる。しかしだな……」
「あれ? 反応が悪いなあ。マアくんは何かご不満なの?」
「ハルちゃんに不満があるんじゃなくてだな、オレの不甲斐なさが情けねえだけだ」
「マアくんが不甲斐ないなんて私は思ったことないのに」
「いつまでもハルちゃんに世話になってばかりではイカンだろう」
「三つも歳上のおねえさんだと、いけないの?」
「そういうことではなくてだな、オレとしては本当は」
「本当は?」
陽美の瞳はキラキラしているように見えた。
「本当は、ほんの少しだけでもハルちゃんの……役に立てたらいいなと、思ってるのだが」
「カッコいいなあ、マアくん」
立ち上がった陽美はそう言うと遠慮なく田中に左側からギュッと抱きついた。
位置的に田中はどうにも逃げようがなかった。
「いつの間にかこのおねえさんよりがっしりと筋肉もついて背も高くなって、男らしく育ったわねえ」
「なんだそのおばさんくさいセリフは?」
「あ、ホントだ。まずいわ」
陽美は自分の頭を右の拳骨でコツンと叩いた。
「私はおねえさんであっておばさんではないのだった」
「当然だ」
すぐに陽美の笑顔が戻った。
「なんかね、嬉しいのよ、単純に」
「なんでだよ?」
「今みたいな時間ができたことが、かな」
「は?」
田中は自分の顔にまたしても汗が滲んできたような気がした。
陽美はそんな田中の気持ちを知ってか知らずか、腕の力を抜くとそっと離れた。
「ではいよいよ本日のハイライトを……」
「なんだって」
とっくに重要そうな話はすべて終わったと思っていたのに、これ以上何があるというのだろうか?
田中はそう思わずにはいられなかった。
「ということで、マアくんにこれを預かってもらいます」
陽美はスカートのポケットに手を入れた。
「さあ、マアくんは手のひらを出して」
「ん? こうか?」
田中は左の手のひらを上にして遠慮がちに陽美の方へ出してみた。
「えっとですな、両手をね、顔を洗うときみたいにくっつけて」
田中は陽美に言われたように、自分のへその前辺りに両方の手のひらを上にして見せた。
陽美はさっと動くとまたもや田中にくっついてきた。
今度は背中の方からだった。
田中の肩越しに、陽美の右手から何かがそうっと載せられた。
田中は両手のひらに、軽い手応えを感じた。
鍵だった。
しかもどこで手に入れたのやら、「仮面ライダーV3」のマスコットをあしらったキー・ホルダーがついていた。
「なんだこれ?」
田中は思わず言った。
鍵にしろ「V3」にしろ思いも寄らないシロモノだったのである。
「あっ、おばさんから聞いてるはずの話をまた忘れてるな」
(マジいっ、そのパターンだったか!)
「助け合うために必要な特別なモノ、つまり、『私の心の白い扉』を『開く鍵』よ」
「は?」
「マアくん、ノリが悪い」
「はあ」
「カセット・テープ、ずっと前にあげたのに」
「はあ?」
「矢野顕子師匠のアルバム『ごはんができたよ』、A面の1曲目の歴史に残る名曲『ひとつだけ』なのに」
「ヤノ、師匠?」
陽美は田中の耳元でとても不服そうに言った。
「田中3兄弟妹にはひとり1本ずつマクセルのカセットに録音して渡したのに」
「オレもハルちゃんにもらってるってことか?」
「ほーら、覚えてないんだ、もう。ハイポジだったのも」
陽美はそっぽを向いて拗ねて見せた。
(もらってるならオレの部屋にあるはずだが、どうだったかさっぱり分からん)
「2枚組のLPで、お小遣いを頑張って貯めて買ったのに」
「イヤ、あのな」
「何かねマアくん」
「ごはんがどうこうというレコードがあったのはなんとなく覚えてるような気がするのだが」
陽美の機嫌は直らなかった。




