I 4月(4)
*
田中正彦が広瀬と共にバスに戻ると、O先輩から先にバスに乗るよう促された。
O先輩に従って自分の席まで戻ると、広瀬はすぐに座ったものの、田中は立ったままで土井とO先輩の様子を見ていた。
「大丈夫? 土井くん」
O先輩の声が聞こえた。
土井の口が動いたようだったが、声は聞こえなかった。
(土井、そんなんじゃまるっきり死体だぞ)
田中は思った。
「中央辺りの席の人、誰かうしろの席と代わってくれませんか?」
O先輩が言うと、すぐに反応があった。
「はい」
ひとり、まっすぐに手を挙げて立ち上がっていた。
田中から5席ほど前の人だった。
「私、代われます」
率先して挙手したのは女の子だと、その声を聞く前に田中はすぐ見て取った。
髪がポニー・テールになっていたからだ。
(迷わず手を挙げて代わると宣言できるなんて、すげえヤツがいたもんだ)
田中は素直にそう思った。
(なかなかできることじゃねえぞ)
O先輩はすんなり話が進んでひと安心といったところだろう。
土井は引き続き死体のようだが。
「私、行くね」
「さすがだよ、ケイコちゃん」
「うん、尊敬しちゃう」
そんな声が田中に聞こえた。
(ケイコという名前なんだな)
席を代わると言った彼女が、うしろのふたりと話していた。
あの三人で組んでいるのだろうと田中は思った。
彼女がその席を離れると、ひと呼吸置いてから「ありがとう、助かります」というO先輩の声が聞こえた。
おそらく名札を確認したのだろうと田中は想像した。
うしろのふたりにO先輩は「すみませんがよろしく」と言った。
窓際に土井を座らせると、O先輩は通路側に腰を下ろすかと思いきや、立ったままでガイドさん、運転手さんと何ごとか話しているようだった。
田中もまだ立ち上がったままだった。
広瀬は田中と対照的に、まったく動じず座ったままだった。
彼女は土井がいたシートまで来ると、立ち上がっていた田中に挨拶をした。
「突然ですが、よろしくお願いします」
彼女は上品にお辞儀までした。
ポニー・テールにしてある髪が揺れた。
白いブラウスの上に紅いベストを着て、薄茶色のデニムを穿いている。
(なんて丁寧なヤツだ)
田中は思った。
「ん? イヤ、こちらこそよろしく」
そう言ってはみたものの、田中は頭を下げていなかった。
(まずい)
田中はそう思っていた。
(返事はきちんとできた気がするが、態度がついて行ってねえぞ。自分も頭を下げるべきだったろうが)
もう遅い。
田中は下を向き、無意識に顔をしかめていた。
田中の耳に彼女の短いひとことが聞こえた。
「えっ!」
「ん?」
「田中、くん……」
「いかにもオレは田中だが」
お互い名札を確認していた。
「小野、さん?」
小野はものすごくびっくりしているように、田中には見えた。
両手で自分の頬を押さえている。
「それじゃバス、動くからねえ」
O先輩の声が聞こえた。
田中と小野はそれぞれのシートに腰かけた。
背が高いO先輩の姿は田中から見えなくなった。
O先輩も腰を下ろしたのだろう。
田中の様子をじっと見ていた広瀬は笑いをこらえていた。
分かってはいたが田中は突っ込まなかった。
(あんなに驚かなくてもよかろうに、なんでだ? 名札を見て苗字は分かっただろうが、どっかでオレを見かけたことでもあんのか?)
田中は自分の疑問について、「○」と「×」の選択肢しか思いつかなかった。
(小野さんとオレは、初めて会ったはずなのだがな)
*
合宿所に着くと、学科の同僚は学籍番号順でふたつに分けられた。
バスで言うと1台目と2台目に乗ってきたのが1組、3台目と4台目に乗ってきたのが2組ということにされた。
つまり田中を含む三人は、1組の掉尾を飾る三人ということだった。
*
各自が割り振られたとおりに宿泊する部屋へ荷物を置いた。
15分後にあらためて集合し直すと、今度は1組と2組に分かれて、それぞれがしばらく使うことになる別々の大部屋へ移動した。
そこでようやく、教員が登場した。
田中がいる1組を担当するというおふたりが前に立っていた。
そのうちのひとりに、田中は見覚えがあった。
昨日うしろに立っていた40代半ばくらいの男だった。
今日はO先輩とM先輩がうしろに回っていた。
M先輩は1台目のバスに乗っていたのだろうと田中は思った。
まだざわめきが残っているのにかまわず、40代半ばくらいの男は声を出した。
「えー、みなさん初めまして」
先生はひょいと素早く頭を下げた。
よく観察してみると、この先生は背が低いと田中は気づいた。
隣にいる若い女の先生よりも低い。
うしろに立っているO先輩と比べるのはかわいそうすぎるからやめておこう。
田中はそう思った。
「私は原田といいまして、助教授をやっております」
先生の後方には大きな黒板があったが、それを使おうという様子はなかった。
教卓もあったが、何故か部屋の隅に追いやられていた。
(なんだ、教授じゃねえのか。女の先生はまだ若造だとは思ったが、40代半ばならもっと偉いと思ってたぞ)
田中が勝手に考えていると、原田先生が続けて言った。
「私はこのような髪の毛が少ない頭をしているもので、ずいぶん老けて見られることが多いのですが、実はこれでもまだ35なんですね」
(オイ、ちょっと待て)
つい立ち上がりそうになった田中に、「えー」とか「マジ」とか「うそー」という声が聞こえた。
もっともなことだと田中も思った。
広瀬の「くくく」という声も聞こえたが、土井の声は聞こえなかった。
土井は田中のうしろにいなかった。
* * *
大部屋に移動する途中で、田中はO先輩を見つけて訊いてみた。
「土井の具合はどうですか?」
「うん。とりあえずは、医務室で休んでもらうことにした。まだ顔色がよくないし、調子が悪そうだったから」
田中は合宿所にも医務室があることを知った。
「心配ないよ。土井くんをほったらかしにしてるわけじゃないから。ひとり、校医の先生について来ていただいているんだ」
それを聞いて田中は落ち着いた。
O先輩から聞いたことはすぐに広瀬に伝えた。
広瀬もひと安心できたようだった。
* * *
原田先生は学生の反応に慣れているらしく、にこにこしていた。
田中はその様子を見て、原田先生の好感度を上げた。
「それでですね、私の隣にいらっしゃる私よりとっても若い先生は」
今度はあちらこちらで小さな笑い声がしていた。
原田先生はまだにこにこしていた。
(もしかして、一連のセリフは例年の使い回しかもしれんな)
田中は原田先生の好感度を元に戻し、評価を保留することにした。
「初めまして。相田と申します。講師になってまだ2年ですが、よろしくお願いします」
若い女の先生は丁寧にお辞儀をした。
田中は小野を思い出すことになった。
バスでは当初自分より5席ほど前だったが、今はその位置に小野の姿はなく、最前列の向かって右の隅にいるのが田中に見えた。
小野の学籍番号がクラスでいちばん最初ということだと田中は理解した。
(そりゃそうだよな)
学籍番号は五十音順のはずだから、バスの席で「タナカ」の近所に「オノ」がいるのは不自然だと田中でも気づいていた。
「はい、それでですね、みなさんのことは我々ふたり、原田と相田先生が担当します。担当と言ってもね、みなさんが高校生だったときの担任の先生のような細かい対応は、はっきり言ってできません。それでもね、我々にできることはやりますから、何かの際は遠慮なく声をかけてくださいね」
原田先生がそこまで言うと、何故か相田先生がにこっと微笑んだ。
「2年生になってからあとは、みなさんも聞いたことあると思いますが、ゼミが始まります。テーマを絞って掘り下げていくんですね。そうすると、今のような大勢ではなく、少人数で、ときどきは先輩と一緒にね、ゼミを担当される先生に面倒をみてもらうことになります」
田中には初耳だった。
三つ上の兄や、兄と同じ学年の従姉が自分より先に大学生活を送っていることはもちろん知っていた。
それでも、大学生活がどんなものなのか話を聞いてみようなんて田中はこれまで一度も思いつかなかった。
合格しないことにはその先の話をいくら聞いたところで意味がない。
田中はそういう思考の持ち主だった。
学科違いの先輩となった従姉からいまだになんにも話を聞いていないのはまた別の話である。
「まずね、1年生のうちは我々と仲よくしてください。必修科目なんかでね、顔を合わせることも多いと思いますからね、仲よく楽しく、頑張っていきましょう」
先生方は研究棟2階の奥にある「原田研」にいるとのことだった。
(自分の研究室がある原田先生は師匠、相田先生は弟子のようなもんか)
田中がぼんやり思っていると、原田先生の声がまた聞こえてきた。
「それとですねみなさん、たまにね、私の研究室は鍵が閉まっていたり、誰もいないことがあると思います。しかしですね、ほとんどの日は誰かしらいますから。私や相田先生がいない場合でも、助手の人やみなさんの先輩、そうした誰かがいますから、特に理由がなくてもいいですのでね、気楽に遊びに来てください」
田中は研究室が「気楽に遊びに」行ける場所とは到底思えなかった。
(そう言われてもだな、友だちんとこに行くみたいにはイカンだろう)
自分が先生や先輩たちの前で寛げるようになるとは想像もできない。
「実は私も、相田先生も、みなさんの先輩なんですね」
(なんだって)
「これでちょっとだけ、気楽になってもらえましたかね」
田中が無意識に顔をしかめていると、広瀬の声がなんとなく聞こえた。
「うまいな。力が抜けてるようなふりで、しっかり練ってあるんだ」
広瀬がどんな意味でそう言ったのか考える間もなく、田中の耳にあらためて原田先生の声が入り込んできた。
「えーっとですね、挨拶はここまでにして、少しだけ話をしますね」
原田先生はひと息入れると、話を始めた。
*
うちに限らずね、どこでもそうですが、「学科」として区切られちゃうと、一見みんなおんなじ勉強をするような気がするわけですね。
高校生のうちまでは、みなさんもそんな感じで勉強してきたことがほとんどだと思います。
ところがですね、大学はそうじゃないんですね。
自分で考えて、したい勉強をするんです。
気が早いですが、ここにいるみなさんのほとんどは卒業の前にこの学校で学んだ成果を形にしていくんですね。
そう、卒業論文という形です。
論文ですからね、そこにはみなさんひとりひとりが考えに考えてきたことの集大成が、文字によって記録されますね。
するとね、論文ってどうなっているのかと言うと、みなさん同じ学科でも、取り上げるテーマはずいぶん違うんです。
大きな枠としてはですよ、同じ学科なら流れの方向は似たようなことになりますが、みなさんひとりひとりの流れはね、形も違えば長さも違う。
もしかしたら、例えば高さも色も匂いも、何もかも違うということも有り得るわけですね。
しかしそうは言ってもです。
過去に皆さんと同じテーマで研究していた人がいるかもしれません。
そうした場合は、みなさんより前に発表されている成果は、無視できません。
言い換えると、誰かと同じテーマというのは、既にその誰かが道を作り始めていた、ということです。
そうなると、既にできている道がどうなっているのか確認して、まだできていないさらに先へと道を延ばしたり、現在できている道は本当に大丈夫なのか、きちんとできているのかチェックをして、場合によっては修理、改善をしていかなければだめなんですね。
またそれとは別に、です。
みなさんはご存知だと思いますので、敢えてタイトルは言いませんが、高村光太郎の有名な詩がありますね、『僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る』、です。
要するにですね、誰もやったことがないテーマを見つけてそれを追求していくのは、実はすごく大変です。
ですが、それ以上にね、すごくやりがいがある素晴らしいことなんですね。
誰も知らない道を進む、新たな世界を切り開いていく、そういうことなんです。
うまく形にできたら、そのときはこう呼ばれます。
専門家、スペシャリストです。
ただしですね、今、大雑把にふたつの方法を説明しましたけど、どちらがいいとか悪いとかではないんです。
それは自分で判断して、見つけていくものなんです。
みなさんは1年生のうちに、これからの基礎となる勉強を中心にしていくことになりますが、その先にどんなテーマがあるのか、自分はどんな勉強をしたいのか、いつもそのことを忘れずにいてほしいと思うんですね。
忘れずにいる、つまり、いつも考えている。
それは必ず大きな結果につながっていきますし、そこまでに至る最短距離、近道でもあると私は思うんですね。
でもね、今話したことはあくまでも私案であり、絶対的なことではありません。
ひとつの参考にしていただいてですね、これからの学生生活、悔いのないように頑張ってくださいね。
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うしろにいるO先輩とM先輩が拍手をした。
これで一段落なのかと田中は気がついた。
同僚たちに混ざって、田中もいくつか拍手をした。
原田先生はひょいと素早く頭を下げた。
相田先生は丁寧にお辞儀をした。
「それではここで休み時間を15分取ります。そのあとは自己紹介になりますから、どんなことを話したいか、考えておいてください」
O先輩がそう言い終わると、大部屋はあっという間にざわめきで埋まった。
先生方はもう部屋を出て行ったあとだった。
田中正彦はふたつうしろの席にいる広瀬に声をかけることもなく、机に突っ伏していた。