III 6月(2)-16
「ハルちゃん」
「なんだねマアくん」
「ハルちゃん、恵子とあれこれ話したってことだよな?」
「単に話したっていうだけなのはしっくりこないかなあ」
「は?」
「日付はともかくとしてですね」
(ハルちゃんそこは覚えてねえんだな)
「恵子ちゃんが私に声をかけてくれたのですよ」
(確か広瀬によると、ハルちゃんが必修科目終了直後に教室に乱入してきたんだよな)
田中は「マアくんいるう〜?」と言い放ったナイキのジャージ姿の陽美が目に浮かぶようだった。
「それで私、そのままこの部屋まで恵子ちゃんを連れて来ちゃって」
「はあ? いきなりかよ」
「今みたいにフォートナム・アンド・メイソンのロイヤル・ブレンドを飲みながら、お茶請けにウォーカーズのショートブレッドを用意して、いろんなことを聞いたり話したり……」
田中の耳に聞き覚えのないカタカナ言葉がまたしても出現したが、訊き返すほどの気力は失せていた。
「そうね、敢えて言えばもう茶飲み友だち、かな?」
(茶飲み友だちって、なんかもっと歳を取ってる人たちのことかと思っていたのだが)
このことは口に出すまいと田中は強く思った。
「マアくんはさあ、恵子ちゃんがどうしてわざわざ私を追いかけてきて声をかけてくれたのか、本当に分からない?」
無意識のうちに田中は顔をしかめていつもの表情になっていた。
「おやおや、またそんな表情しちゃって」
田中の方へ身を乗り出すと、一瞬だけ、陽美は田中の眉間に右手の人差し指をそっと当てた。
田中のしかめっ面は解除された。
そのままの体勢で陽美は言った。
「マアくんもしかして、疑心暗鬼になっちゃった?」
「ギシンアンキ?」
田中は「ギシンアンキ」の意味が分からなかった。
前例に「モノミユサン」のことがあるので、ここは知ったかぶりで流すことにした。
「そ、そんなはずねえだろうが」
「そう? おねえさんが心配しすぎなだけだったらそれでいいんだけど……」
(バレてんな、こりゃ)
「前にも言ったでしょう? おねえさんの人脈を甘く見てはイカンって」
「聞いたような気はするが、まさか……」
「マアくんの面倒を見るようにと仰せつかっている以上、おねえさんとしてはいつだって情報収集に努めているのです」
体勢を元に戻すと、陽美は誇らしげに続けた。
「ああ、そうそう。広瀬くんにはよく電話でお話してもらってるのよ」
(広瀬、なんだかすげえな、ハルちゃんと渡り合えるとは)
田中は実情が判明してよかったと思いつつも、絶句するしかなかった。
「この間は広瀬くん、風邪ひいて寝てたみたいで、悪いことしちゃった。もう大丈夫かしら?」
(もしや、土井がオレに学食で広瀬を見なかったかと訊いてきた日のことか)
「だからですな、マアくんがいかに学校をサボっていたのか知ってるし、バイトを頑張ってることも分かっていたのです)
「はあ」
田中の脳裏には「KO負け」の上に「完敗」という文字が加わってきた。
「でもねえマアくん」
「は?」
陽美は仕切り直す感じで続けた。
「恵子ちゃんとはうまくいってるのかな?」
「はあ?」
「うまくいってないの?」
「いきなり何を言い出すんだよ、ハルちゃんは」
「あれ? なんかおかしなこと言ったかしら?」
ちっともそんなことはないのにな。
そう陽美は続けた。
「もしかして、心配かけすぎちゃって嫌われたとか?」
「あのなあ」
「何かな、マアくん?」
陽美は腕を組んだ格好で顔を近づけてきた。
興味深々の陽美が田中の目の前にいる。
その表情を前に、大きなため息をついたのは田中であった。
「この際だからはっきりさせておくが」
「うん」
「恵子とオレはだな」
「うんうん」
陽美はテーブルに組んだままの腕を載せてはいるが、とても熱心に聞いているようだった。
「ハルちゃんはどう思ってるのか知らんが、ただの友だちだからな」
「まだなんだ」
「は?」
「まだただのお友だち、なんでしょう?」
「ハルちゃん、オレに何を言わせようとしてんだ?」
「そうだったのね、恵子ちゃんたら……」
陽美は腕を解くと握った右手を口元に当てた。
田中には陽美の言葉にどんな意味があるのか、残念ながら分からなかった。
陽美はテーブルの上で手を組むと視線をまっすぐに田中へと向けた。
「恵子ちゃん、とてもいい子だとおねえさんは思うのですよ」
「お、おお」
「わざわざ恵子ちゃんの方から私を追いかけて来てくれて、声をかけてくれて、マアくんのこと、よく気がついてくれて」
(恵子、ハルちゃんに何を話したんだ? それにハルちゃんは恵子に何を?)
田中はじっとしているのがきつくなってきた。
「マアくん、耳の穴をかっぽじってよく聞いてね」
「かっぽじって、なんてハルちゃんみたいなヤツは言わん方がいいんじゃねえのか」
「もしマアくんにその気がないのなら、恵子ちゃんとはなるべく早く距離を置いて」
陽美は田中からの突っ込みにかまわず、真剣な口調で言った。
「そうじゃないと……」
「そうじゃないとなんだって言うんだよ?」
田中は内心びくびくしていた。
「……うん、ただのおねえさんのお節介だけど」
「あのなあ、いきなり予告も何もなく出てきた話にしてはショックがデカすぎだ。オレは今かなりビビってるぞ」
田中は陽美の話の展開に混乱してきた。
「人の心とか気持ちって、難しいよね……」
陽美はつぶやくように言った。
田中は何も言えなかったので、しばしの沈黙が訪れた。
陽美が言葉にしてくれたことの真意はなんなのだろうか。
「おっと、おねえさんとしたことが。黙っている場合ではなかったわ」
陽美は再び元気な声を出した。
「あのね、マアくん」
「なんだよハルちゃん」
「アルバイトをするのはよいことではあっても、本末転倒になってはいけないのだ」
田中はドキッとするしかなかった。
自分でも反省していたところだが、陽美に直接言われてみると、何故か事の重みが何倍にもなって降り積もってくるかのようであった。
「アルバイトのために大学に入ったんじゃないよね、マアくん?」
「当然だ」
「立て替えてもらってるお金、すぐに返せなんておじさんもおばさんも言ってないし」
「はあ」
「過労で講義を休んじゃったら、もったいないし、みんなに心配かけてるんだぞ」
「は? 心配かけてんのか、オレは?」
「そのとおり」
「誰に?」
自信たっぷりな様子で自分を指さす陽美が田中の正面にいた。
「……そいつは悪かった、スマン、ハルちゃん」
「素直なマアくんでいてくれておねえさんはひと安心。でもね、マアくん」
「ん?」
「私はマアくんについてよく知っているからいいとしてもです、友だちみんなに心配をかけてはイカンのだよ」
「お、おお……友だち、ね」
深めのため息が田中から漏れていた。
「休むべきときにはきちんと休んで、力を蓄え直して、リセットできるよね、マアくんだから」
陽美はちょっと困ったような感じで言った。
田中はおとなしく畏まっているしかなかった。
陽美の言葉が続いた。
「大学に入ったことは目標のひとつだったと思うけど、それはゴールではなかろう」
「そりゃあ、そのとおりだ」
「学生の本分とは、学問に打ち込むことなのだ」
「はあ」
「だったらしっかり講義を受けて、しっかり勉強して、しっかりいい成績を取らなくちゃ」
「いい成績、ねえ」
「三週間分も必修科目をサボるなんて、お説教しなくちゃいけないくらいなんだから」
(もう全部バレてるな、こりゃあ)
陽美は両手で拳を握ると肩の辺りで構えた。
田中はこの日いちばん残念な表情になっていた。




