III 6月(2)-15
「じゃあ、オレはそろそろ帰るとするぞ」
「え? 泊まっていかないの?」
「何を言ってんだよ」
田中は陽美の言葉に動揺してしまった。
「だいたいだな」
どうにか言葉をつながなくてはいけないと田中は感じた。
「終電がなくなっちまうと厄介じゃねえか」
「ふっふっふ……」
(出た)
田中は警戒態勢を強めた。
(今度は何をしようってんだ、ハルちゃんは?)
「マアくん、ここまで来るちょっと前に、小さなタバコ屋さんとコーラの自動販売機がある道、通ってきたでしょう?」
「そのとおり、と言うかだな、ハルちゃんの地図に従ったまでなのだが」
田中は答えた。
言えることはそれ以上でもそれ以下でもなかった。
「ちなみにですな、その道を私の部屋のある方へ曲がらないでまっすぐ行くと、マアくんのお気に入りの公園が右側にあるわけですが、気がついてた?」
「公園があるのは、まあ、気がついたが」
田中は不吉な予感を感じた。
「けっこう広くて噴水があって、遊具も揃ってて、いい公園よね」
「なかなかいいなとは思ったが……」
「で、マアくんはお気に入りなんでしょう?」
「なんで『お気に入り』ってのを強調するんだよ?」
「だってマアくん、あの公園が気に入ったんでしょう?」
「なんじゃそりゃ」
「恵子ちゃんの話を聞いてるうちにね、これはマアくんなら絶対気に入ったに違いないってそう思えたのです。そうじゃなかった?」
(やっぱりか)
田中の左手は自動的に両目を隠す位置に動いた。
なんでこうも自分の気持ちがバレてしまうのやら、田中は陽美に恐れ入るしかなかった。
田中の脳裏には「KO負け」という赤い文字が盛大に浮かんできた。
「それでだね、マアくん」
「なんだ、まだなんかあんのか?」
「その通りを、公園の横のね、道なりに真っすぐ行くとですな、マアくんのバイト先のファミレスがジャジャ~ンと見つかるのです」
「は?」
「あの国道につながっているのよ、公園のとこの道は」
(なんでハルちゃんにバレてんだ?)
田中はバイト先がどこなのか、何をしているのか、誰にも話した記憶がなかった。
恵子にだってバイトしていることは話したもののそこまでのはずだ。
「ここからだと、20分かからないくらいなのかなあ、あのファミレスまでだと」
田中はしかめっ面ではないもののそれにとても近い表情になっていた。
疑惑を示す表情であった。
「マアくん、またそんな表情して、どうかした?」
「イヤ、なんでハルちゃんがオレのバイト先を知っているのか不思議でな」
「あ、やっぱりあそこでよかったのね」
「は?」
「ここから近いからね、何度か行ったことがあるのです。そして、なんと先日行ったときには、ジャカジャカジャン」
「オレがいたってのか?」
「正解です、どうやらね」
陽美はホッとした様子だった。
「これで安心できたあ、やっぱりマアくんだった」
陽美はニッコリとした。
「いやあ、このおねえさんもちょっと驚いたのよ。マアくんだよなあってすぐに分かったけどね、畏れ多いって言うのかな、ものすごくピシッとして立派な感じだったから声をかけそびれちゃった」
「そういうことだったのか」
まさか働いている現場を目撃されていたなんて、田中は夢にも思っていなかった。
バイト先に誰か自分の知っている連中が来たとしてもおかしくはない。
ただ、そんなときどう振る舞えばいいものやら、田中は考えたこともなかった。
陽美にバレたのはともかく、「もう来ないでくれ」とは言えない。
むしろ「また来てくれ」と営業的には言うべきなのだが、それもなかなか言い難い。
「マアくん、次はいつバイトなの?」
「何故それを訊く?」
「今度行くなら、マアくんがいるときの方がいいじゃん」
「言っておくが」
「なあに?」
「特別サーヴィスはねえからな」
「あら、それは残念」
(残念なのかよ、ハルちゃん)
陽美は楽しそうに微笑んだ。
「そのうちまた誰かと行くだろうけど、私だけ特別扱いされても困っちゃうしなあ」
(期待してるのか、本気で)
「でも、本当の特別なサーヴィスはしてもらっているからいいのだ」
「はあ? なんじゃそりゃ」
そう言ったあとで、田中は重要なことに気がついた。
「ここからオレのバイト先までは20分かからないくらいってのは、ホントかよハルちゃん?」
「もちろん。このおねえさんは嘘が嫌いなの、よく知ってるでしょう」
「そうだよな、そのとおりだ」
田中は確認しておこうと思った。
「てことはだな、オレの部屋とハルちゃんの部屋なら徒歩で来た方が早えんじゃねえのか?」
「そうねえ、電車に乗ってくるのは遠回りになっちゃうかなあ」
ざっくり計算しても、田中の足なら徒歩で自室から陽美の部屋までは30分程度で着くことになる。
今日みたいに電車を使うとタイミングによっては待ち時間があるし、仮に待たずに乗ったとしても降りてから歩けばおよそ1時間程度にはなる。
(定期を使ってるから交通費はヨシとしても、だぞ)
田中は軽めの衝撃を覚えた。
(オレの部屋からハルちゃんの部屋って、そんなに近かったのかよ)
「今日は買い物をお願いしちゃったから、というのもあるけど、これでもうマアくんは私の部屋まで迷うことなくあっという間に来られるよね?」
「あっという間には来られんがな」
田中は道に迷うことなく陽美の部屋まで来られると認めた。
「では、次回はそっちのルートで散歩がてらおねえさんの部屋へ来てみるのはどうかしら?」
「次回?」
「おみやげは無理しなくてもいいからね」
田中のアタマには「おみやげ」どころか「次回」という思いも欠落していた。
「あ、次回と言っても、マアくんにまた来てもらう前に、私がマアくんの部屋に行くのが先だわ」
「はあ?」
「何かのときにマアくんの部屋に駆けつけられなくちゃ困っちゃうでしょう、おねえさんたる者が」
(助け合い、か)
田中は思った。
(ハルちゃんの言うとおりだが、駆けつけられてもなあ……)
田中はそんな非常事態が起きることのないように心から祈っておこうと決意した。
陽美はそんな田中の気持ちを知ってか知らずか、さらに続けて言った。
「おっと、肝心な話ををひとつ忘れてたわ」
「まだなんかあんのか?」
「恵子ちゃんの部屋はね」
「はあ?」
「例の国道を北上して行くと、ファミレスから10分くらいで着くところらしいよ」
「なんで恵子の部屋についての話が出てくるんだ?」
「え? だって、これからよく通うことになるんじゃないの?」
田中はそう言われてすぐに突っ込んでおくべきだったかもしれないが、頭の中では自分の部屋から恵子の部屋へは20分程度で着くのかと考えてしまった。
最寄り駅が違うから遠いだろうと思っていたが、地元の路線と比較するとこの辺の駅間は思いの外短いのだった。
「こっちの駅って、ホームから隣駅のホームが見えちゃったりすることもあって、割かし狭い範囲にいくつもあったりするもんね。田舎とは違うなあって、私も思ったものなのだ」
田中はついさっきよりも大きな衝撃を受けた。
「高校生のときなら自転車があればあっという間だろうな」
という陽美の声は聞こえていたものの、現在の田中には「恵子の部屋の方が陽美の部屋よりも近い」らしいという考えに半ば呆然としていた。
おまけに、陽美の部屋も恵子の部屋も、電車の時間を気にすることなく行き来ができるのだと気がついてしまった。
(恵子の部屋からハルちゃんの部屋までも、1時間かかるような距離じゃねえってことだな)
田中は種明かしをされたような気分になっていた。
(恵子についてハルちゃんが話してくれたのはチャンスかもしれん)
とにかく何が陽美と恵子の間で起こったのか、そこは訊いておこうと田中は思った。




