III 6月(2)-14
田中は引き出しがついている「何か」をなんと呼べばいいのか分からなかったのである。
箪笥とも棚とも違う。
あるいは横文字の名前があるのかもしれない。
などと思案しているうちに、はっきりと鷹雄の字が書かれているポスト・カードが1枚、陽美から田中へと差し出された。
カードの隅に「知床国立公園」と小さな文字が印刷されていた。
「タカくん、面白いこと書いてるでしょう?」
「ん?」
田中は兄が書いた文字を読んだ。
自分よりかなり丁寧な筆跡で読みやすい。
それが鷹雄の文字の特徴だったなと田中は思った。
── 今のうちに正彦とふたりでしっかり遊んどけよな。
「何書いてんだ、兄貴は?」
田中は無意識に顔をしかめていた。
陽美はまだにこにこと笑っていた。
「ときどきはね、私からタカくんに電話することもあるのだよ」
「電話だって? 金がもったいねえだろうが」
「電話代は郵便よりもバカにならないわよね」
陽美はさらに続けた。
「だから短い時間になっちゃうけど、声が聞きたいときってあるでしょ、マアくんにも」
田中には兄の声が聞きたいなんて思ったことは現在に至るまで一度たりともなかった。
「カード届いたよ、ありがとうってね、お礼の電話をしてみたのです」
「律儀だなハルちゃんは」
よしときゃいいのに、と言いそうになったが田中はこらえた。
「そしたらね、タカくん、マアくんにも1枚出すって言ってたけど、届いてる?」
田中は呆気にとられてしまった。
「兄貴が、このオレに?」
「遠いところにいる兄が実の弟へ送っても不思議なことはないよ」
「オレなんかより実家宛に出せばいいのだが」
聡美もいるし、と田中は思った。
「さすがはマアくん、タカくんの動きが読めてるわね」
「は?」
「サトミンにはもう送ったんだって、タカくん」
ならばヨシ、だな。
田中は思った。
「おじさんとおばさんによろしく言っといて、とか書いたのだそうです」
「それくらいしか思いつくことがなかったんだな」
「それ、私もそう思っちゃった。タカくんには失礼だけど」
陽美は田中がいちばん好きな笑顔を見せてくれた。
(ハルちゃんならもてるだろうに、なんでうちの兄妹にこだわっているんだか)
田中にはさっぱり見当がつかなかった。
「タカくん、マアくんにはなんて書くんだろうなあ?」
陽美は微笑みながら言った。
「サトミンはね、届いたらタカくんに返事を書いてみるって言ってたわよ」
「は? それってのはつまり……」
「昨日、サトミンと電話でお話したのです」
(ハルちゃん、オレなんかよりずっと実のキョウダイらしいぞ)
田中はそう思わざるを得なかった。
「ねえマアくん?」
「なんだよハルちゃん」
「今度、デートしよう」
「はあ?」
「タカくんの助言もあったことだし、時間って案外早く過ぎちゃうでしょう?」
田中は返事に窮した。
断る理由は何もないとはいえ、「デート」という言葉は田中の心の森の奥まで響いた。
響いた先にある池の魚は、すかさず田中に恵子と公園を歩いたことを思い出させた。
「マアくん、黙っちゃった」
陽美は右手の人差し指を立てて見せ、続けた。
「なんでマアくんが黙っちゃったのか、このおねえさんが当ててみましょう」
(ハルちゃん、占い師かマジシャンにでもなるのか)
手相はもう勘弁してほしいと田中は思った。
「恵子ちゃんのこと、考えてたのよね、マアくん」
田中は何も言うことがなかった。
(バレてる……どうしてもハルちゃんには負けるしかねえよな、オレは)
「マアくんが気になるなら、私から恵子ちゃんにお願いしてもいいし」
「ちょっと待て」
田中は「お願い」という言葉に引っかかりを感じた。
どうして陽美が恵子にお願いをしなくてはいけないのだろうか?
「まあまあ、焦らないで。先におねえさんが言いたいことを全部言わせてほしいのだ」
田中は黙っているしかなくなった。
「マアくんが気になるなら、もうひとつ別の案もあるのよ。それは」
(それはなんだって言うつもりなんだか……)
田中は釈然としないまま陽美の言葉を待った。
「恵子ちゃんには全部内緒にしちゃうのもありかな、って、おねえさんは思ってみるのでした」
田中は目が点になる思いがした。
それはそれで何かが引っかかってくる。
「マアくんたら、他人事みたいにタカくんと私を見てるようだけど、田中兄妹の男の子にはマアくんもいるんだぞ」
「は?」
「それにね」
「はあ」
「私とマアくん、安心して水入らずで過ごしてるのって、今日が初めてなのよ」
「はあ?」
「誰からも水を差される心配はないのだ」
「なんだって?」
陽美は自分が生まれたときからすぐそばにいてくれたのだし、ふたりきりでいた場面だって何度もあったはずだ。
でもよくよく考えてみると、常に誰かしらがひとつ屋根の下にいた。
それは言うまでもなく当たり前のことだった。
仮にひとつ屋根の下にふたりきりだったとしても、ほどなくして出かけていた誰かが帰ってくるものだった。
「ありゃ? 意味がよく分からなかったかな? だったらもう一度」
「イヤ、ハルちゃんの言いたいことは分かったから、二度も言わんでいいのだが」
「ホントにそうなのだろうか?」
陽美は腕を組むと身体をやや斜めにして田中を見つめた。
「マアくん、おとぼけさんだからなあ」
(ハルちゃんが言ってるのはただの一般論と可能性の話だ)
やましいことなんてなんにもありゃしない。
田中は混乱しつつも冷静になろうとひとつ深呼吸をした。
ゴール・ポスト前でペナルティ・キックに備えたときに田中はよくそうしていたものだった。
(しかしだな、ハルちゃんがどんなつもりでいるのやら、オレにはなんも分からんのだが)
「今ここですぐにいろいろ予定を立てるのは難しいだろうから、これは宿題ね」
── これは宿題ね。
数ヶ月前に陽美からよく言われていた言葉だった。
── 次回までにやっておくのだぞ。
田中のための「受験勉強の監督」からの課題が出たときの。
(もしかして命令なのかよ、ハルちゃん?)
田中はそわそわとして腰が落ち着かなくなってきた。
「マアくん」
「は?」
「トイレはユニットバスだけど、そこだからね」
田中は流れで陽美が指示してくれた先を見た。
(じゃなくてだな)
「トイレに行きたいんじゃなかったの?」
「それはない」
反射的に答えてしまった田中だが、敢えてトイレを借りて間を置いた方がよかったのではないかと思った。
(イカンな、オレとしたことが)
田中はもう一度、今度は大きく深呼吸してみた。
花のような果物のような、なんとも言い難い香りに紅茶の匂いも混ざっていた。
「時間が経つの早いなあ」
陽美はそう言って田中の上の方に視線を移していた。
田中も同様にそちらを向いてみた。
壁の天井に近い位置に、丸い木製の外枠がある時計がせわしなく秒針を動かしていた。
「もう10時を過ぎちゃってるなんて、嘘みたい」
陽美は少し眉を上げながら言った。
(オレがここに着いたのは、確か……)
田中はその時刻を確認していなかった。
(だが6時にはなってなかった気がするぞ)
仮にそうだったとしても4時間が経過している。
一般的には深夜と言える時間帯になっていた。
「まだまだたくさん積もる話があるんだから」
陽美が田中の方に前のめりになって言った。
「今日は泊まっていくよね」
「はあ?!」
田中は勢いに押された感じでうしろにのけぞってしまった。




