III 6月(2)-13
田中は陽美が何故そんな分かりきったことを言うのか理解できなかった。
「私を田中家の養女にしてもらうのは不自然よね」
(養女?)
「田中3兄妹を森野家に迎えるのはもっと不自然だし」
田中はたじろいだ。
(どっからそんな発想が出てくるんだよ?)
「もはや最後の手段を使うしかない……かな?」
(うわ、その表情はなんか企んでんな、ハルちゃん)
陽美の様子が物騒なので、田中は不測の事態に備えようと思った。
この気分はゴールポストの前にいるときと感じが似ている。
相手チームに攻め込まれて、どこからシュートが来るのか警戒しているときのような。
(だが、この場合、何をどうすりゃいいんだ?)
「私がタカくんかマアくんのお嫁さんになればいいのだ」
「はあ?」
田中はがっくりときた。
身構える必要なんかなかった。
緊張感はあっさり消えた。
「なんてことを言ってんだよハルちゃん」
「マアくんだって知ってるくせに」
「何をだよ?」
田中は焦りを感じた。
シュートはまだ飛んでくるらしい。
「イトコはね、結婚できるんだよ」
陽美はそう言うと、はにかんだ笑みを浮かべた。
「そうすれば、私も晴れて田中家の一員になれるのです」
田中は唖然としていた。
シュートは大きくはずれてどこかに行ってしまったようだ。
(そりゃあいくらオレだって常識の範囲なら知ってはいるが……)
「どうかな、マアくん?」
陽美は前屈みになって田中に顔を近づけた。
(オレに訊いてどうすんだ?)
「キスしたことはあるし」
「なんだって?」
田中は仰天した。
けれども失点することはないと思えた。
シュートの乱れ打ちをされているのに、どのシュートも明らかにゴールからはずれていくかのようだった。
(イヤ、オレにそんな覚えはねえぞ。だから相手はオレじゃなくて兄貴だな、それならまだ分かる)
そう考えつつ、田中は落ち着きを取り戻そうとした。
「確かね、近所の空き地で遊んでたときに、タカくん、つまずいたか何かの拍子に転んじゃって、痛そうにしてたのよ」
(な、兄貴の話だ)
「それでタカくん、どことなく泣きそうな顔になっちゃって、私はタカくんのほっぺたに思わずチュッ、としていたのです」
「そりゃあいいんじゃねえの。微笑ましいって言うのか、よく分からんが」
田中はぞんざいな態度をとっていた。
「あとでね、どうしてそうなったかは忘れちゃったけど、私が泣きそうなときにタカくんが私の頬にキスを返してくれたのだ」
「へえ。兄貴にしちゃ上出来じゃねえのか」
自分は無関係だと思った田中はお気楽な返事をしていた。
「でもね、ちゃんとしたキスをしたのはマアくんが初めてなのよ」
「はあ?!」
田中は腰を下ろした体勢のままうしろへ大きく飛び退いた。
油断ならないまさかのロング・シュートを打たれたかのようであった。
「その動きは私から逃げたつもりかね、マアくん」
「イヤ、別にそんなつもりではないのだが」
身体が反射的に動いてしまったのだ。
「マアくんは覚えてないのね」
「そんな記憶はどこにもないぞ」
田中は強く否定した。
「無理もないかなあ」
陽美は軽くため息をつくと、話を続けた。
「あれは私がまだよっつのとき、ある晴れた日に」
「よっつだって?」
「うん、私はよっつ。マアくんはまだ2歳になってなかったかなあ」
(そんな赤ん坊の頃の話を覚えているはずねえよ、このオレが)
田中はなんだかほっとした。
「私の公式記録によるファースト・キスの相手は、つまりマアくんなのです」
「ちょっと待て」
「ん? なんか間違ってた?」
(間違ってるかどうかは分かんねえよ、記憶にねえんだから)
田中は思った。
「ハルちゃんの話だといちばん初めは兄貴が相手だったんだろうが」
「ほっぺたにはね。お互い初めてだったろうな」
陽美は楽しそうに言った。
「で、唇はマアくんにチュッと、不意をついて」
「なんじゃそりゃあ?」
「もうね、とってもかわいかったのよ、まだ赤ちゃんのマアくん」
(試合になってねえじゃんかよ)
田中は思った。
(それでも公式記録だっていうのか、ハルちゃんは?)
「思い出してみても本当にかわいかったなあ、赤ちゃん時代のマアくん」
いくら言われたところで田中には返すべき言葉が出てこなかった。
「もう私よりずいぶん背が高いのに」
陽美はなおも嬉しそうに続けた。
「マアくんは、やっぱりマアくんなんだよねえ」
田中は沈黙を続けるだけだった。
(それにしてもだな、赤ん坊を相手にファースト・キスだなんて、ありなのか?)
田中による公式記録はもちろん陽美ではなかった。
心の森の奥にある湖の魚たちにもこの件での異論はない。
(ノー・カウントってヤツじゃねえのかよ)
そう思いつつも、田中自身は悪い気分ではなかった。
ただなんとなく妙な気持ちになっていた。
こうしてすぐ目の前にいる陽美とのキスだなんて、想像できない。
「そういうわけで、ね、マアくん」
「は?」
「私が田中兄妹に参加するのはどうかしら?」
(うわ、この口調は冗談のつもりじゃねえな。本気だぞハルちゃんは……)
例え陽美が本気であろうと、試合になってないのだから自分に責任はない。
田中は考えるのをやめた。
「まあ、あんな兄貴でいいんなら、オレは特に反対することはねえけどな」
「おや?」
陽美は田中の返事が意外そうだったらしく、不思議そうな表情に変わった。
「マアくんは、タカくんが私をお嫁さんにしてくれると思っているのだな」
「イヤ、特に兄貴がどうという話ではなくてだな」
田中は慌てて答えた。
「タカくん、いい加減そうに見えるかもしれないけど、実はあれでも私よりしっかりしていて頼れる存在なのです」
今度は田中が意外そうにする番だった。
「実はわたくし、タカくんと文通しているのだ」
「文通?」
「そうよ。私は便箋に何かしら報告や相談を書いて、月イチくらいで送っているのですよ」
「じゃあもしかしてオレに送ってきたこの地図の……」
「さすがはマアくん、正解です」
鷹雄への手紙を書いてから閃いた陽美は、同じレター・セットで「心を込めてサラッと描いた特製の地図」を、一緒に投函したとの話だった。
「タカくん、ポスト・カードで返事をくれるのよ」
「なんだって?」
田中には本日いちばんの衝撃かもしれなかった。
「北海道のね、自然の風景を写したシリーズになるのかな? 毎回きちんと返事をくれるのよ」
「なんてこった、あの兄貴にそんなことができるなんて」
「マアくん、けっこうきついこと言うなあ」
陽美はとても楽しそうに笑っている。
「まあね、タカくんがポスト・カードで返事をくれる理由はかなりハッキリしているのだよ」
田中は陽美のそのひとことで理由が分かった。
「兄貴、字をあんまり書きたくないんだろうよ」
「やっぱりそう思う?」
陽美は両手を胸の前で握り合わせた。
「マアくんはさすがですなあ、お見通しなのね」
陽美によると、鷹雄からの返信はいつも数行だけ、ひとこと、ふたこと、カードの宛名面の下半分にしたためてあるとのことだった。
「正解したマアくんには特別にいちばん新しいタカくんからの返事を見せてあげよう」
陽美はそう言って「何か」の引き出しを開けて、該当するものを取りだした。




