III 6月(2)-12
「昔だったら私が抱っこしてあげるような感じだったのに、もうそんなことできないわね」
「オレの記憶にはないのだが」
「私が抱っこしてもらう方になればいいのかしら?」
「なんでそうなるんだよ」
「私はマアくんやタカくん、サトミンならなんの抵抗も感じないと思うけど」
「ハルちゃんはそれでいいかもしれんがだな、オレは」
「マアくんは、何かな?」
田中は言葉が出てこなかった。
汗はまた出ていた。
さらには思いがけず腹の虫が鳴いてしまった。
陽美の部屋に来るまでに頑張って動いた分エネルギーを使ったので、健康な田中はしっかり腹が減ってきたのだった。
田中の身体は常に正直者なのである。
「いいねえ、おなかの虫」
「なんじゃそりゃ」
「空腹は最高のスパイスだって言うでしょう?」
腹が減ってなくたってハルちゃんの作ってくれた料理ならうまいに決まってる。
そう言いかけた田中だったが、このまま声にしていいのかどうか迷った。
今まではなんでも思ったままを素直に声にしていた。
(しかし、同じままではイカンのだ)
オレはオレなりに成長したはずだ。
しかし。
田中はもやもやしているあれこれの加減をどの程度にしたらいいのやら決めあぐねていた。
「なんかよそよそしくないかね、マアくんよ」
「は?」
「お子さまから大学生になっただけで、私たちの関係はなんにも変わってないのに」
「そりゃそうなのだが」
「変わりっこないのに……」
(変わりっこない?)
田中は思った。
(そうだよな、当然のことだ)
沈黙が生まれ、腹の虫が再び鳴いた。
陽美が嬉しそうに微笑んだ。
「とにかく、食べよっか?」
(ハルちゃん、今のひとことは本日最高だ)
「たくさん召し上がれ。そして、大きく、元気に育つのです」
陽美は両腕を大きく広げて見せた。
「イヤ、もう育たねえだろう」
「身体測定したでしょう?」
「お、おお」
「4月中に」
「それがどうかしたか?」
「なんセンチくらい伸びてた?」
「1センチないくらいだったと思うが」
「えーっ」
陽美はどうしてなのか不服そうに見えた。
*
「マアくんが買い物してきてくれたおかげでさらにおいしく仕上がりました」
陽美の喜びいっぱいの笑顔の前で、田中は遠慮なく食べた。
「たくさん食べて大きくなるのです」
「もういいだろうが、それは」
「もっと背が高くなってもいいのに、遠慮なく」
(何に遠慮すんだよ、ハルちゃん)
田中は弁解するようにそう思った。
陽美によると、ごはんは「3合炊いたのだ」とのことだった。
「それが見事にからっぽ!」
田中が食べた分量としてはいつもの学食のあのカレーライスと比べると5食分はありそうな気がした。
その上、前菜としてコンソメ・スープ、レタス、トマトをメインにしたサラダもあった。
それらも田中は普通に平らげていた。
心ゆくまでしっかり食べられた気がしていた。
もし外食だったなら到底食べられそうになかった気がする。
自分がこれほど何の苦もなく食べられたことは小さな驚きでもあった。
田中の意識はさておき、身体は充分理解していたのだ。
陽美が作ったカレーが言うまでもなくおいしいことも、陽美が満足そうに田中の様子を見ていることも。
自分の気持ちを上手に言い表せないことも。
「こういう気分を『おねえさん冥利に尽きる』って言えばいいのかもしれませんな」
陽美の言葉には実感が込められている。
田中はそう感じた。
続いて田中はいつの間にやら陽美が淹れてくれた紅茶を飲んだ。
「マアくんが買ってきてくれたからフォートナム・アンド・メイソンのロイヤル・ブレンドもいつもよりおいしい気がするなあ」
本来なら突っ込まなくては許されないようなセリフだと田中は思ったが、今回は敢えて聞き流した。
陽美は本気でそう言っていると分かったからであった。
「マアくんはどう?」
「何がだよ?」
「フォートナム・アンド・メイソンのロイヤル・ブレンド」
「は?」
「フォートナム・アンド・メイソンのロイヤル・ブレンドだよ、マアくん」
田中は何度言われても覚えられないような気がしていた。
深緑色の立方体のような缶に入った紅茶、ということは覚えられた気がした。
「ロイヤル・ブレンドを飲んだらマアくんの背がもっと伸びるかな」
(なるわけねえだろ)
田中はその思いを言葉に出すことをどうにかこらえた。
「タカくんとマアくんだと、今はマアくんの方が背が高いんだっけ?」
「どうだかな、兄貴が大学に行ってからは比べたことがねえから」
「タカくんに遠慮することないのに」
「なんの話だよ」
田中は弁解するようにこう言った。
「兄貴がどうこうという話ではなくてだな、あんまりでかくなってもだ、なんかめんどくせえことになるからもうこれでヨシとしておきたいものなのだが」
服とか靴とか、サイズがでかくなると探すのも面倒だし金もかかるってもんだ。
そうつけ加えた。
「そうねえ、バスケやバレーをやってるわけでもないんだから、別にいいのか」
「そのとおりだ」
「サッカーは?」
「ん?」
「サッカーは続けないの?」
「サッカーよりもバイトだな、今のオレとしては」
「どうして?」
「続けても仕方ねえからだ」
田中はサッカーでさらに上を目指すほどの実力が自分にはないと見切っていた。
(オレは「キャプテン翼」にゃなれねえしな)
だからなんの未練も迷いもない。
高校までですっかりやり尽くした。
陽美がさらに質問を続けてきたならば、田中はそう答えるつもりでいた。
「そういうところ、タカくんとマアくんて、やっぱり兄弟だよ」
「は?」
「タカくん、北海道に行くって決めたら他のことはもう何も考えてないみたいだったし」
「ソレって兄貴がひどくマイペースなヤツってだけじゃねえのか?」
「竹を割ったように、とよく言われるものだけど、そんな感じでさあ、タカくんも、マアくんも、ずっとそうだよねえ。このおねえさんはすぐそばで見てきたから分かるのだ」
「そんなもんかねえ」
「サトミンも、実際すごくまっすぐでかわいいし」
「そこからオレや兄貴がどうつながるってんだ?」
「おやおや、野暮なことを訊くんだねえマアくんは」
田中は無意識に顔をしかめていた。
「三人とも、まっすぐでかわいいところ、なのです」
「はあ? 何を言ってんだよ、ハルちゃん」
「マアくんは自分たちのことだから意識してないんだろうけどね」
陽美は静かに言った。
「私から見ると、田中3兄妹はみんなまっすぐでかわいいのよ」
そう繰り返すと陽美はうつむいた。
「さすがは実の兄妹」
陽美はさっきよりも静かに言った。
田中は独りごとかと思ったくらいだった。
「……私、やっぱり田中3兄妹には入れないわね」