III 6月(2)-11
田中はとにかく陽美が渡してくれたタオルで顔の汗を拭いた。
(うわ、やっぱりナイキかよ)
タオルの片隅にナイキのロゴマークが刺繍されていた。
田中は気づいたが言葉には出さなかった。
なんなのか分からない香りはこのナイキのタオルからもしているような気がしたが、田中は自分の汗のせいでそれが台無しになるのを申し訳ないと感じざるを得なかった。
「じゃあ、汗も拭けたことだし、あらためて」
「あらためて?」
「さっきの続き」
「は?」
田中はナイキのタオルを手にしたまま直感的にサッと身を逸らした。
「また逃げた」
陽美が言った。
「逃げなくたっていいのに」
「そうは言ってもだな」
「マアくんが私と同じ大学に頑張って合格して、入学してから、今まで……どのくらい時間がかかったか分かってる?」
「そりゃあまあ」
「2か月以上だよ、2か月。ひと月だって1週間だって長いって思ってたのに……」
「それについてはスマン、オレが悪かった」
田中は陽美の気持ちを察したものの、一歩うしろに下がりつつ頭を下げた。
「マアくんは素直だなあ」
距離をとったことを責められるかと思ったので、田中はややホッとした。
「でもね、そんなさみしい時間はもうおしまいなのです」
「ん? てことは……」
「今更拒もうとしても遅いのだ」
「拒むって言うかだな、こういうのって、もうダメじゃねえのかよ」
「ダメなんてことないでしょう?」
「オレはダメだと思うんだが」
「私は昔からこういう人だし、マアくんにだけくっつくわけじゃないのです。サトミンだって久しぶりに会ったら抱きしめちゃうし」
「そりゃ知ってるけどな、オレは聡美じゃねえし、話が別だろうよ」
「タカくんはいつの頃からか逃げちゃって相手にしてくれなくなっちゃったけど、マアくんは真面目に相手してくれてたし」
「は?」
「素直なマアくんはいつもこのおねえさんに安らぎを与えてくれていたのです」
「はあ」
思わぬ話題に田中は豆鉄砲で打たれた鳩のようになってしまった。
陽美の手は田中の両肩に乗っていた。
「いつも真正面で受け止めてくれて、ね」
「そんなもんかねえ」
「タカくんはおとぼけさんで逃げちゃうのに、マアくんは全然逃げようとしないで、こんなふうに私がくっついても嬉しそうにしてくれて」
「ちょっと待て。そういう過去の話はとにかくだな、もう離れてもいいんじゃねえか」
「えー、どうして? せっかく久しぶりにこうやってるのに。約9年と7か月振りなのよ」
陽美は田中の両肩を掴んだまま頬を寄せてすりすりしていた。
「イヤ、だからもう充分じゃねえのかよ」
「そんな、けちけちしないのっ」
「そういう問題じゃねえだろうが」
どうにか逃れようとする田中ではあったが、陽美を乱暴に押しのけることはできなかった。
(せっかくおしゃれな感じの服を着てるってのにそんなんじゃ)
田中は思ったとおりに声を出した。
「オシャレな服がシワになるぞ」
「そんなの、なんの問題もないのです。おねえさんはアイロンかけるの得意だし、行きつけのクリーニング屋さんはあるし」
そう言いながら満足そうな笑顔をしている陽美の様子を見て、田中はふと思った。
(待てよ、もしかしてハルちゃん、なんとなく髪型も変わった、ような?)
「あ、もしかしてマアくん気がついてくれた?」
「な……何をだよ?」
「髪をね、全体的にちょっと切ってもらってきたのだ。肩には届かないようにボブにしてもらって、天パも目立たないでしょう?」
田中は予想が当たっていたことに我ながらびっくりしたが、それ以上に陽美に察しをつけられていたことの方が驚きであった。
その表情は無意識ではあるがまた顔をしかめたものだった。
田中には「ボブ」とはどんな意味か分からなかったのである。
田中のそんな様子から陽美は不満そうに言った。
「私はマアくんと今まで以上に仲よくしたいのに、マアくんはイヤなの?」
「それはない」
田中は即答したが、なおも言葉を続けた。
「ないのだが、とにかくだな、今は離れてくれハルちゃん」
「ないなら、いいじゃん」
「イヤ、だからだな、普通の男女ならこんなふうにはしないだろうが」
陽美は少し間を置き、田中を見つめた。
「なんか、意識しちゃった?」
「は?」
「仕方ないなあ……」
陽美の両手は田中の肩から名残り惜しげにそうっと離れた。
「そんなふうに思われちゃうとおねえさんとしても考えちゃうのだよ」
陽美はわずかに田中との距離をとった。
「考えないようにしようと思っててもね」
田中は何も応えられなかった。
ただ沈黙するしかなかった。
「身体が素直に反応しちゃったなあ……嬉しくてはしゃぎすぎたのね」
「イヤ、喜んでもらえるのはありがたいのだが」
そう言いつつも、田中の表情は相変わらずのしかめっ面だった。
「マアくんは素直で健康な男の子に育ってくれたってことよね。つまり、おねえさんとしては喜ぶべき話で、お互いに元気で何より、だよね?」
「うまく言えんがそういうことなのか」
田中は否定できなかった。
その上、他に何を言ったものか、言葉がちっとも浮かばなかった。
「でもなあ」
陽美が言った。
「なんだよ」
「あ~あ、またおんなじこと考えちゃった」
「おんなじこと?」
「実の姉弟だったらよかったのに、って。そう思わない?」
そう思う、と田中は言えるはずがなかった。
「と、特に考えたことはない……が、よく実の姉弟に間違われたもんだったな」
「そうだよね」
陽美の表情が一段とにこやかになった。
田中にはそう見えた。
「ホント、実の姉弟ならなんの問題もないのに。実の姉なら実の弟に抱きついたって普通じゃん」
「イヤ、それは違うと思うのだが……実の弟でも、イトコでもな」
「正直にね、気持ちはいつだってきちんと伝えた方がいいと思うのよ。ね、マアくん」
「オレは実の兄貴に抱きついたりしねえし、実の妹に抱きつかれたくはねえぞ」
陽美は田中の否定的な口調にはかまわずこう言った。
「サトミンは一度も逃げずに受け止めてくれるのに」
「聡美はそれでいいかもしれんがオレはイカンだろうが」
「タカくんは自分から来てくれたことがあるのに」
「なんだって」
「一度だけですが、私が泣いてるときに慰めてくれたことがあるのでした」
田中にはずいぶん意外な事実だった。
(あの兄貴がそんなことするとは想像もできんのだが)
「まだマアくんは生まれてなかったなあ」
「なんだって」
田中はつい「なんだって」を連発していた。
(兄貴のことよりハルちゃんの記憶力が衝撃的だぞ)
田中は兄である鷹雄がそのことを覚えていないだろうと推測した。
「マアくんに言われてみると、タカくんに抱きついたことってそのときだけだった」
いくらあの兄貴でもそりゃあそうだろう。
田中は思った。
「マアくんが生まれたあとは、タカくんすぐいなくなっちゃうようになったし、私はマアくんに夢中だったしなあ」
「ちょっと待ってくれ」
「ん? どうかした、マアくん?」
陽美は不思議そうに言った。
(兄貴、もしかして計算ずくじゃねえだろうな?)
田中はもはやそうとしか思えなくなっていた。
(言い方が良くねえのは分かってるが、オレはイケニエってヤツにされたかもしれん)
さすがに陽美にそうとは言えないので、田中はどうしたものかと迷った。
(なんでこう言葉が出てこないんだ、今のオレは?)
「マアくん、けっこう汗ばんでるぞ」
「は?」
陽美に言われたので田中は反射的に右手を額に当てた。
指先が確かに汗で濡れていた。
田中は左手にあるナイキのタオルを再度使うことになった。
懐かしいという言葉がふさわしい香りは田中の汗に負けず健在であった。
「マアくんの大好きなおねえさんのカレーライス、そろそろ食べたくなった?」
「は?」
迂闊にも田中は陽美お手製のカレーのことを忘れていた。




