III 6月(2)-10
田中は思わず陽美に訊いた。
「ハルちゃん、なんでそんな……」
「ん? そんなって、何?」
田中は一瞬口ごもってしまった。
うっかり「なんでそんな服を」と言いそうになっていたからだった。
「オシャレなの着てんだ?」
田中は日常ではほぼ使いそうもない単語を使ってしのいだ。
陽美は派手になりすぎないくらいのフリルをあしらった薄いピンクのブラウスに、雰囲気がよく合っている淡い紺色のスカートを履いていた。
大学で会ったときにはしていなかった化粧までうっすらとだがしているように田中には見えた。
「だって、お客様が来るのにジャージだと失礼じゃない?」
「は? オレの他にも誰か来んのか?」
「何言ってんのよ、もう、マアくんたら」
陽美はご機嫌斜めな表情になってしまったが、田中にはその理由が分からなかった。
「マアくんだけに決まってるでしょ。他になんていないわよ」
「ん? じゃあなんでわざわざ」
田中はそう言ってしまったあとで、ようやく自分のマヌケぶりに気がついた。
陽美の表情がより明瞭に険しくなったからだった。
(やっちまったあ)
何か言わないとマズイ。
しかし、田中にはうまい言葉が出てこなかった。
ほんの数秒の間のあと、陽美が言った。
「仕方ないか、マアくんだもんね」
陽美は露骨にため息をついたように見えた。
田中にとっては数十分であるかのような時間であった。
(スマン、ハルちゃん)
田中は言葉に出せずにそう思った。
ただ田中の表情にはしっかり出ていたらしく、陽美は理解したのかもしれない。
陽美の表情は柔らかくなっていた。
「とにかくマアくん」
「は?」
「いつまでそんなふうに突っ立っているのだろう、と、おねえさんは思うのだ」
陽美はそう言うとにこやかな表情に戻り、「気をつけ」のままの姿勢の田中のすぐ正面に立つと、田中の左手の甲を右手で優しく撫でた。
田中の左手から陽美の両手へと、輸入食品店の紙袋は静かに移動した。
「お買い物ご苦労さまでした、マアくん」
陽美は紙袋を開けると、中にあるものをテーブルに並べた。
少しだけ前屈みになって田中が買ってきたものをひとつずつうなずきながら確かめた。
陽美は微笑みを浮かべた。
「そうだマアくん」
「なんだよ、ハルちゃん?」
「まず精算しなくっちゃ、私が忘れないうちに」
「はあ」
「5000円で足りた?」
「おお、そんなにかかっとらんぞ。レシートがあるから待ってくれ」
田中はいそいそと黒いジーンズの左うしろのポケットから財布を取り出すと、輸入食品店のレジですかさずしまったレシートを手際よく陽美へ差し出した。
無意識ながら、田中はここでやっと自分から陽美との距離を縮めることになった。
警戒心が精算のために緩んだのである。
「マアくんて、こういうところは小さい頃からしっかりしてるなあ」
「はあ?」
「じゃあ、交通費と手間賃込みで5000円でお願いします」
陽美は自然に田中の左手を取って、その手のひらに5000円札を載せた。
「前にもこんな場面があったなあ」
(前にもあったのか?)
陽美がそう言ったからにはそうに違いない。
でも田中には思い出せなかった。
心の森の奥にある湖の魚は休養中らしかった。
田中はなんとなくされるがままだったが、陽美のひとことから今度は似たような場面が突如として小学生の頃にあったと閃いた。
そのときは小銭が何枚かだったはずだが、金額は覚えていない。
なんでそんな場面があったのかも覚えていない。
確かにあったという事実だけ鮮明に覚えていた。
湖の魚は渋々動いたらしい。
「そろそろシャーペンの替芯を買わないとなくなっちゃうなあって、なんとなく独りごとを呟いただけなのに、買ってきてくれたんだよね、マアくんは」
「なんだって」
「それも、私がいつも使ってるBOXYのHBだって、ちゃんと知ってて」
(なんてこった)
陽美の記憶力に比べると自分の記憶力が勝ることはないとはよく分かっていたが、ここまで差があるとまるで話にならないと田中は悟った。
「お釣りはしっかり残してあるぞ」
少額でも田中はきっちりとしておきたかった。
「そうだろうなとは思うのですよ、マアくんだから。でもそれはそれで、今回はお金をしまっておいてほしいのです」
陽美は田中の手のひらに載せた5000円札を右手の人差し指で示した。
「このためにピン札を用意しておいたのだよ」
「ん?」
田中はそう言われて5000円札に目をやった。
見ると確かに汚れも折り目もないきれいな日本銀行券だった。
田中は陽美の気持ちを察して遠慮なくそれを財布に収めた。
何か言ったところで時間の無駄だと判断したのだ。
陽美は田中が財布を元どおりにジーンズの左うしろのポケットにしまうのをにこにこしながら見守っていた。
そして、無事に片付いたのを見届けるとこう言った。
「うん、それでこそマアくんよ。バッチリグッドね」
「ハルちゃん、バッチリグッドってえのは」
どうなんだよ、と言おうとしていた田中に陽美はいきなり抱きついた。
田中は両腕ごと抱えられてしまい、またも「気をつけ」の姿勢になっていた。
不意を突かれてしまった田中は抵抗する術がなかった。
しかし田中としてはどうにも受け入れにくい状況であるのは明らかだ。
「あらためて……ようこそ、マアくん」
「ハ、ハルちゃん」
「なあに、マアくん?」
陽美の声は田中の左肩辺りから聞こえた。
陽美の表情を確認するのは無理だった。
「なんでこうなるんだ?」
「だって、いくら私でも学校では遠慮してたんだから」
「は?」
「今は私の部屋で、私とマアくんしかいないんだから、いいじゃん」
「いいじゃんと言われてもだな」
「こうするのって、すっごく久しぶりだなあ」
陽美は依然として田中から離れようとせずにそうっとささやいた。
「この前は、と言ってもずいぶん前だけど、そのときはまだ私の方が背が高かったのに。マアくん、すっかり男らしくなっちゃって」
陽美はしみじみした感じで言った。
田中はその言葉を聞きながら、こんなに誰かと近づくのは3月に弘美と最後に会って以来だと気づいた。
思わずそのときの場面が回想シーンとなって出てきそうになった。
だが今はそんな回想に浸っている場合ではない。
田中はどうにかこの状況から脱出すべく知恵を絞り出さなくてはと思った。
ところが、次々に繰り出される陽美の甘い声に張り合うことができなかった。
「いつの頃からか、マアくん逃げるようになっちゃったからなあ」
「それはだな……」
「お風呂もそうだったしねえ」
田中はその理由を口にしようとしたものの、それから先の言葉は口にできなかった。
(いくら本当のことでも、言ってはまずい)
その分、ただ沈黙が続いた。
どのくらいなのかは分からなかったが、田中はずいぶん長い時間だと思った。
(さっきからこんな感じばっかりじゃねえか)
まるでロスタイムの間、1点のリードを守るべくゴールポストの前で相手のコーナーキックに備えているかのような、落ち着かない気持ちだった。
陽美から逃れようとすればできる。
その自信はあった。
だがそうは思ったものの、両腕ごと抱えられているので無理やり、または力づくになってしまうだろう。
(そんなのできっこねえよ)
田中はそう思っていた。
その上、陽美に抱きつかれているこの状況を、段々と悪くないと感じだした。
(少なくとも10年くらいは経ってるはずだしな)
お互いずいぶん成長したもんだ。
田中は正直に思った。
「約9年と7か月ぶり」
「ん?」
「こうしてるのが、だよ。マアくん」
陽美が言った。
「懐かしくもなっちゃうよね、そのくらい経ってれば」
「お、おお……」
田中は自分の記憶が満更でもないと感じた。
心の森の奥にある湖の魚に上等な餌をあげたい気分になった。
そのくせ理由は分からないが、田中は背中に汗が伝うのを感じた。
(うわ、なんでこうなってんだ? 腕ごと抱えられてるから触われんが、そこら中に汗が吹き出てるなこりゃ)
田中は陽美に言った。
「あのな、ハルちゃん」
「なあに、マアくん」
「たぶん汗がだな」
「あ。ごめん、気がつかなかった」
陽美は田中から体を離すと、1歩だけ後退して田中の様子を見ていた。
田中は陽美から開放されたのでひと息つくことができた。
陽美に気づかれないように注意しながら。
陽美が離れたとき、田中はあらためてカレーの匂いに気がついた。
それまでは陽美の髪なのか服なのか身体なのか部屋なのかよく分からないが、うっすらと甘い香りがしていた。
花のような果物のようななんとも言い難い何かしらの香りがまた感じられたのだった。
田中は「懐かしい」という言葉がその香りにちょうどいいと思った。
陽美はすぐさまどこからかタオルを出してきた。
陽美の部屋はすっきりとしたワンルームだというのに、またはだからこそ、田中の緊張はなおも続いていた。




