III 6月(2)-9
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(どうやら無事にたどり着いたようだな)
田中は陽美の地図に従って歩を進め、ここまで来ることができた。
ヒデカズと解散してすぐに狭い交差点を左へ曲がった。
以前恵子と歩いた公園への道を通り、小さなたばこ屋さんとコカ・コーラ系の自動販売機がある狭い交差点では地図に忠実に道なりの進路を歩いた。
進むに連れ道幅が狭くなったものの、迷うことは何もなかった。
陽美が「心を込めてサラッと描いた特製の地図」はよくできていたということだ。
田中は念のために再度、陽美謹製の地図を確認した。
アパートの敷地はアルミ製らしきフェンスで囲われている。
建物は2階建てでそれぞれ部屋は三つずつある。
築10年だが割と新しく見える。
敷地に入るには段差があるので注意。
道を挟んでそばに電信柱があり、よく見かけるタイプの緑の地に白い文字で番地が書かれている。
書かれた文字は「○○○6丁目7」である。
これらはすべて地図にちらっと陽美によってメモ書きされているとおりであった。
バス停が近所にないというのも納得できた。
(道幅がどんどん狭くなっていくから怪しかったが、ここまで車で入ってくるのは無理じゃねえのか?)
田中は自分の部屋のすぐそばの道が広い通りでよかったかもしれないと思った。
引っ越しのときに苦労するのは勘弁してほしいと感じたからだった。
(ハルちゃんがこの部屋に入ることになったとき、運送屋は手こずったろうな)
田中は段差に注意しつつ陽美の住むアパートの敷地に入った。
すると、どこからかカレーらしき匂いが漂ってきた。
田中の緊張感は薄れていった。
(で、階段を上がって2階の真ん中の部屋、202号室か)
階段は建物の東側にあった。
昇り口のところに、雨よけがあるステンレス製の郵便受けが3部屋分据えつけられていた。
田中は中央のものに「202 森野」という文字を確認した。
思わず小さく吐息が漏れた。
階段を敢えてのんびりと昇り、田中は「202」と表示があるドアの前で立ち止まった。
チャイムはドアの向かって左側にあったが、すぐに押すことはせず、3回ばかり深呼吸をしてみた。
カレーの匂いはすぐそばから漂ってきているのだとはっきり分かった。
田中はゆっくりと一度だけチャイムのボタンを押した。
その音とほぼ同時に、ドアの奥から「はあい」という声が聞こえた。
これ以上ないくらいおなじみの声だった。
田中は不測の事態に備えて、1歩下がってドアが開くのを待った。
無意識ではあったが「気をつけ」の姿勢になっていた。
何故かこの瞬間まで果てしない旅路を経てきたような気持ちだった。
パタパタという感じの足音が聞こえてすぐに、ドアは開いた。
ドアには覗き口が「202」の表示の真下にあったが、明らかにドアの外を確認したとは思えない素早さであった。
(ハルちゃん、不用心だぞ)
「待ってたよおマアくん!」
ドアを開けた陽美は、田中をまっすぐ見つめながらとてもいい笑顔でそう言った。
「さあさあ、入った入った」
「お、おお」
最高ににこやかな笑顔の陽美と向き合って、田中はそう言うのが精一杯だった。
陽美は靴も脱がず玄関から動こうとしない田中の前にスリッパを並べた。
まだおろしたてのようだったが、田中はそれに気がつく余裕がなかった。
「ちゃんとお掃除はしてあるけど、せっかくだから履いてね」
田中はぎこちなく右足からスリッパを履くと、フローリングの部屋へ踏み入った。
カレーの匂いが混じっているのに、部屋の空気が、この部屋は現在の陽美の住まいであることを否応なく田中に感じさせた。
カレーの匂いとは別の、花のような果物のようななんとも言い難い何かしらに田中は軽く動揺していた。
(ハルちゃん、女だもんな)
当然の事実であるのに、あらためてそう思ってしまう田中だった。
「あれ? マアくん、なんでそこで固まってるの?」
「は?」
「遠慮なく入って、このテーブルにお願いしておいたものを並べてほしいのです」
「おお、そうだったな」
田中は自分が手にしている輸入食品店の紙袋を思い出した。
そして、紙袋の端がほんのり湿気を帯びやや色を濃くしていることに気がついた。
田中の手から出た汗が、袋の端をわずかに湿らせていたのだ。
(なんじゃこりゃ)
田中は思った。
(なんで手に汗をかかなきゃならんのだ、オレは?)
田中にはさっぱり分からないのだった。
田中の足は2歩目がなかなか前に出ていかなかったので、気がつけば陽美がすぐ目の前まで来ており、空いていた田中の右手を握手の形で握っていた。
「仕方ないなあマアくんは」
陽美はそう言うと、田中の右手をゆっくりと引きながら田中を部屋の中へと誘導した。
田中は陽美にされるがまま、部屋の中央の白いテーブルまでやって来た。
(玄関から50メートルくらいあんのかよ?)
田中はどういうことかほんのわずかな距離をそれほどまでに感じていた。
「ちょっとマアくん」
「は?」
いつの間にか手を離していた陽美の声で田中は我に返った。
陽美の表情は、呆れているような、困っているようなものになっていた。
「初めて来た部屋だからしょうがないのかなあ、とは思うけど、私の部屋なのにそこまで緊張するなんてなーんか変だぞ」
陽美はそう言うと右手の人差し指で田中の鼻の頭をそっと押した。
陽美の左手は自らの腰にあった。
田中はまたしても見事な「気をつけ」の姿勢で立っていた。
(ハルちゃんの方こそ、自分の部屋なのに……)
陽美の外見が意外なほどよそ行きのおしゃれをしたものに感じられたからだった。




