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Desafinado(調子はずれ)  作者: カワヤマソラヒト
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III 6月(2)-8

      *      *      *


 高校までの音楽の授業ではたまに英語やイタリア語、ドイツ語の曲も歌う場面があった気もするが、田中は口を開いても声を出すことはなかった。

 歌える気がしなかったのだった。


── 授業でクチパクってどうなんだ?

── 杉山、うるさい。


 田中は杉山にそのことがバレていた。

 実際はそこにいる全員が、先生も含めて分かっていたのかもしれない。

 ただし、突っ込んできたのは杉山だけだった。


── 声ぐらい出したっていいんじゃないか?

── 歌じゃなければな。


 田中がしれっと言ったそのひとことで杉山は察しがついたらしい。

 以来、杉山からこの件で突っ込まれることはなかった。


── 部活じゃあんだけ声が出てるし、問題はないな。

── ん? どういう意味だ?

── 田中の声はな、放課後生徒会室にいると案外聞こえるんだ。

── そんなもんかねえ。

── 自分で確認するのは無理か。


 杉山はそう言って愉快そうに笑った。


      *      *      *


「田中くんの部屋に、ラジカセとか、音楽を聴けるものはあるかな?」


 恵子の声に反応して田中は即座に答えた。


「いちおう安物のラジカセならあるが」


 田中のラジカセは表面の半分くらいを大きなスピーカーひとつが占めているモノラル仕様のものだった。

 ステレオだとかカセット・テープの種類に興味がなかったから、聴けるなら何でもよかったのだった。


「私のお気に入りの曲をテープに録音したら……田中くんは、聴いてくれる?」


 恵子は遠慮がちに言っていると田中は感じた。


(遠慮するならオレの方だ)


 そう思いながらも、田中は遠慮とは逆方向になる言葉を返していた。


「わざわざ録音してくれるのか?」


      *


 田中にとってカセットを聴くということは日常的ではなかった。

 いちおう部屋にはある。

 片手では足りないが全部で何本あるのか定かではない。

 はっきりしているのは、自分で録音したものはひとつもないということだった。

 兄がくれたもの、杉山がくれたもの、弘美がくれたもの、陽美が置いていったもの、そして間違って持ってきてしまった妹のもの。

 どれにどんな曲が録音されているのかは覚えていない。

 インデックス・カードに書いてあったから困ることはなかったし、田中はなんでもよかったのである。

 なんとなく覚えているのはアーティスト名だけだ。


── 正彦、こういうのを聴いてなじんどいた方がいいぞ。風呂でのハナウタには難しいかもしれんがな。


 そう言って兄がくれたのは「大滝詠一」と、長い名前のバンドで終わりが「ミカ・バンド」というものだった。

 他にもまだあったが思い出せない。

 思い出せないものはアルファベットでアーティスト名が書かれていたからだ。

 杉山がくれたのは「ビートルズ」とカタカナで書かれていた。

 何本かまとめてもらった記憶がある。


── 赤と青だから。


 杉山はそう言ってた気がする。

 何が赤と青なのかは確認していない。

 弘美がくれたものは「スターダスト・レビュー」というバンドだった。

 この名前は懸命に覚えた。

 陽美が置いていったものには「ユーミン」と「太田裕美」は確実にあった。

 他のものが思い出せないのは兄からもらったものと同様である。

 4月に今の部屋へ越してきてから、試しに聴いてみようと思ってなんとなく手に取ったカセットは、妹の字によるインデックス・カードがケースにあった。

 曲名しか書かれていなかった。

 再生してみると、誰なのかは知らないが男のアイドルが歌っているのだろうと思われる曲が聞こえた。


(聡美は「ザ・ベストテン」や「月刊明星」の歌本に夢中だからな)


 田中の記憶ではそんなところだった。


      *


(もしや、聡美のあれがヒデカズの好きな「たのきん」かもしれんのか?)

「わざわざだなんてこと、ないよ」


 田中の妙な思いつきを消すように恵子が言った。

 どことなく慌てた様子に見えた。

 ほんの少し間を置くと、恵子は続けた。


「日本のアーティストでなくても、聴いてくれるかな?」

「ん? それはまあ、ビートルズってのもオレの部屋にあるし」

「よかったあ」


 両手のひらを合わせながら恵子は喜んでいた。


(「日本語の歌」がどうこうと言って、恵子を脅かしちまってたのかもしれんな、オレは)


 田中はそう思った。


「それに、ね……」


 恵子が言いにくそうな様子でいることが田中でも分かった。


「この際だから遠慮なく言ってくれるといいと思うのだが」


 田中は日本語の歌にこだわっているのではない。

 歌詞の意味が分かるかどうかという他には話せることがないだけなのだった。


「日本語の歌じゃなくても、聴いてくれる、かな?」

(どうやら思ったとおりらしいな)


 田中は無理を承知の上で、笑顔を浮かべたつもりになってこう言った。


「恵子が録音してくれるならなんでも聴くぞ」

「本当?」

「オレは嘘が嫌いだからな」

「そう、だよね。うん、表情がときどきおっかないだけだって、

(やっぱりダメだったのか、オレの笑顔は)


 田中はとりあえず表情の件は忘れることにした。

 いったい連敗がどのくらい続いているのか覚えてもいなかった。


「気に入ってくれるかなあ」


 恵子の表情が曇った。

 でもそれは一瞬のことだった。


「心配だけど、とにかく録音してくるね」


 恵子の笑顔。

 田中にはそれがとても自然な表情に思えた。

 田中のちょっとした不安はそれで帳消しになった気がした。


「もしかしたら、少しは楽しみにしてくれてるのかな?」

「ん?」


 思わぬ質問が恵子から出てきたので、田中はドキッとした。


「なんとなく、笑顔になってくれてるから」

「は?」

「あんまり見られないのに、田中くんの笑顔って。今日は何度も見せてもらって信じられないくらい」

「ちょっと待ってくれ」

「私、田中くんが気分を悪くすること言っちゃった?」

「それはない。絶対ない。そうじゃなくてだな」


 田中は恵子と公園に来たこの短い間に何度も笑って見せていたという指摘に驚いていたのだった。


(とっとと話題を変えないとイカンぞ)


 田中はカセット・テープの話に戻すことにした。


「何はともあれ、だ。恵子にテープを買って渡さんとイカンな」


 田中は顔だけではなく、きちんと体ごと恵子に向けて言った。


「いいのいいの、私が勝手にしたいだけだし」


 恵子は即座に手を振りながら否定した。

 これまではもらってばかりで、自分から代わりのテープを渡したことなんて田中は一度もなかった。


(が、今回はそれではイカン)


 田中は心底そう思った。


「ただでさえ手間をかけてくれんのにだな、恵子が損をしちまうのはダメだ」

「……だったら、ね」


 恵子の声が小さくなった。


「私が録音してくるテープを聴いて、田中くんが気に入ってくれたら、新しいのを買ってほしいな」

「それでいいのか?」

「うん」


 恵子は微笑んだ。


「そうしてくれたら、私は新しいテープにまた別の曲を録音して、田中くんに渡すから」


 恵子の頬は少し赤くなっている。

 田中にはそう見えた。

 夕日のせいではないだろう。

 日はずいぶんと低くなり影が長く伸びていた。

 けれども、その影はだいぶ薄れて見づらくなっている。

 恵子の表情もだんだん見づらくなってきた。


「私が好きな音楽を田中くんが気に入ってくれたら……いつか一緒に聴けたらいいなって、思うから」


 街灯が点き始めた。

 さすがにバイト先へ向かうべきかもしれない。

 影は街灯の光で見やすくなった。


「そろそろ行かなきゃならんな」


 腕時計を見るまでもなく、田中は歩きだそうとした。

 子どもたちの姿も声もいつしか消えていた。


「田中くん」


 恵子があらたまった様子で田中を呼んだ。

 田中は数歩離れたところで恵子の声に止められ、振り返った。


「ん? どうかしたか?」

「なんとなく、だけど、デート……」


 恵子はそこで言いよどんだが、続けてこう言った。


「みたいな気が、するね」

「は?」


 そう言われてみると、田中もそんなような気がしてきた。


(我ながら単純なヤツだな、オレって)

「違う、かな?」


 うつむきながら恵子が言った。

 田中は絶妙なタイミングだと感じることになった。


「田中くんは、どう思う?」

「ただの寄り道ではないような気もするが」


 田中は即答していた。

 自分が「ただの寄り道ではない」と言った、その声が聞こえた。


(だが、デートなのか?)


 自分のイメージには合わない言葉だと、田中は思った。

 他にふさわしい言葉があるような気がする。

 田中は「散歩」という単語を思いついた。

 思いついたが、恵子を前にして言うのは無責任な気がした。


(恵子と、オレが……)


 デートを「友だち」がしてもちっともおかしくはない。

 過去にだってそんな機会は何度かあった。

 田中が自分から誘うことはまったくなかったが。

 高校のときは彼女だった弘美に誘われて、部活が休みのときや受験勉強の合間にあちこち行ったものだ。

 今だって、確か恵子に「寄り道してもいいかな?」と誘われてここまで来たのだ。

 ずっと立ち止まったままの恵子は、両手を組んで目を伏せていたが、田中へ視線を戻してぽつりと言った。


「私がひとりで喜んじゃったみたいだね」


 恵子は微笑んで見せた。

 田中にはその表情にさびしさが混ざっていると思えた。


「オレだって……だな」

「何?」


 恵子の視線は田中に届いていた。


「オレだって、まあ、楽しかった……と、思うのだが」


 田中は自分の言葉が切れ切れになったので恥ずかしくなってきた。


(自分で自分のイメージを崩してどうすんだよ、オレ)


 田中は自らに突っ込むしかなかった。

 それでも、恵子の表情からはさびしさが消えていくように見えた。


「なら、認めてくれる? 田中くん」

「認めるも何も、他に言葉が思いつかんぞ」

「他に、って言ったのは、ひとつだけあるっていう意味なのかな?」

「まあ、そうだな」

「よかったら、言ってほしいな。その言葉……」


 田中は詰まった。

 詰まったが、もうあとには引けなかった。

 田中はひと思いに言った。


「デートだ」


 とても満足そうに田中を見つめる恵子がいた。


「こんなことが本当に起こるなんて」

「何がだよ?」

「ファースト・デート、だから」

「ん?」

「質問は受けつけません」


 恵子はぴしゃりとそう言うと、ちょっぴり顔を動かして田中を睨んだ。

 その表情はすぐにほぐれて無邪気な微笑みに変わった。


「ありがとう」


 恵子が言った。


「またいつか誘っても、いい、かな……」

「は?」


 街灯は点いていたが辺りはずいぶん暗くなっていた。

 なのに、田中は恵子の表情がはっきりと分かった。

 街灯のおかげだけではない。

 恵子の雰囲気はふわっとしている。

 田中は急にそう感じた。

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