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Desafinado(調子はずれ)  作者: カワヤマソラヒト
3/61

I 4月(3)


    *      *      *


 田中正彦が第2グラウンドに来てみると、合宿のためのバスは4台あると分かった。

 バスの乗車口には学籍番号の下3桁が書かれた模造紙が貼ってあった。

 田中は手前から2台目のバスに乗り込む前に、乗車口のそばにいたO先輩から名札を受け取った。


「きちんとつけてね」


 田中は素直に従った。

 全員が自分の名札をつけたはずだ。

 バスの席順は、不都合がある者以外はひとまず学籍番号順ということになっていた。

 今日の様子では不都合がある者はいないようだった。

 田中、土井、広瀬の三人は昨日の席順のようにちょうど最後尾に当たった。

 三人ともきちんと胸に名札をつけていた。

 最前列にはガイドさんと並ぶようにO先輩がいた。


「みんな揃ったかい? もし誰か来てないようなら報告して」


 O先輩はみんなの方を向いて言った。

 はい、とか、大丈夫です、という声が聞こえた。

 どうやら各バスにひとりずつ先輩が乗っているらしい。

 教員らしき人はいなかった。

 田中はO先輩がいるという事実を受け入れるだけで、何の感慨もなかった。

 それよりも、自分の幸運について思いを馳せるのが忙しかった。

 

(バスのいちばんうしろの席はいつも奪い合いになっていたものだが、平和に確保できるとはラッキーだな)


 田中はご機嫌だった。

 窓際に座っていたし、隣には平然とした広瀬がいる。


「合宿所まで約二時間、東名高速に乗ってから途中のサーヴィス・エリアまで約一時間らしいよ」


 広瀬は田中に言った。

 今日も冷静にプリントを確認してくれる広瀬がそばにいてくれるのだから万全だ。

 田中は大船に乗ったような気分だった。

 土井はひとつ前の席にいた。

 土井の強い希望で「ひとりがけかつ窓際に座らせてほしい」とのことだったから、そのようにしたのだった。

 田中には土井の顔色があまりよくない感じに見えたが、朝行き会ったときに土井は「ボクはよく眠れなかった」と言ってたから、それは土井の睡眠不足のせいだと思った。

 土井がひとりがけを希望したのは、たぶん眠っていきたいからだとすぐに想像できた。


      *


 バスは定刻どおり午前8時に出発した。

 女性のガイドさんがすぐに何ごとが話しだしたが、田中はすぐに興味をなくした。

 自分より10歳は歳上だと思えた女性は、守備範囲外だと決めていたのだった。

 憮然とした様子で窓の外を見ている田中に、広瀬は小声で話しかけた。


「せっかくガイドさんが面白そうな話をしてくれてるのに、田中は興味ないの?」

「そのとおりだ。まったくない」

「なんで?」

「話を聞くとなるとつい顔を見ちまうじゃんか。オレはおばさんの顔はあまり見たくないのだ」

「なんかひどいなあ、とりつく島もない感じ。ガイドさんはちっとも悪くないじゃない」

「そんなことよりだな、広瀬」


 田中は入学以来気になっていることを広瀬に話してみることにした。

 田中は昨日の午前中に行われた入学式に出なかった。

 出ても意味がない、出なくたってなんの支障もない、そう判断したのだった。

 そのくせ、実は多少心配だった。

 本当に大丈夫だったのだろうか?


「広瀬は入学式に出たのか?」

「なんで今、入学式なの?」

「イヤ、実はだな、出なくても大丈夫だったのか気になっててな」

「ぼくは出てみたよ。一生に一度のことだから」

「おお、それはよかった」


 田中はニヤリとした。

 田中は前席にいる土井にも訊いてみることにした。


「オイ、土井」

「なんだ、田中」


 シート越しに振り向いた土井の顔はまだ調子が悪そうだった。


「土井は入学式、出たのか?」

「ボクは人混みが嫌いなんだ」


 土井はうんざりしたような顔になっていた。


「ん? てことは、出てないんだな」

「ああ」


 土井は不調そうな顔のまま、前に向き直って黙ってしまった。

 広瀬は誰に向かってでもなくこう言った。


「別に出てなくたって、今後に影響はないよ」

「広瀬、それは本当か?」


 田中は思わず広瀬に確認した。

 ますます広瀬が頼もしく思えた。


「ぼくは単に物見遊山のつもりだったしね」

「モノミユサン? それは何語だ」


 土井が振り向いていた。

 広瀬と土井は呆気にとられているように田中には見えた。


「ん? オレはおかしなことを言ったか」

「田中」

「なんだ、土井」

「ひとことで言うと、日本語だ」


 土井がぼそぼそと言った。


「なんだって」


 田中は焦った。

 困ったような表情で広瀬が言った。


「日本語だよ、田中」

「広瀬、マジか? 冗談抜きでか?」


 続いて田中に土井の声が聞こえてきた。


「ホントに知らないのか、田中」


 土井は不調そうな顔に戻っていた。

 田中は土井に向かって言った。


「オレは嘘が嫌いだ」


 田中に土井のため息が聞こえた。


「田中、ヘタなジョークのつもりじゃないだろうな」

「イヤ、日本語、なんだよな。だったら人名か? 山か? 固有名詞だよな?」

「……」

「違うのか、土井」

「広瀬、交替してくれ。ボクはだんだん頭痛がしてきた」


 うしろを向いているのは実は厳しいんだ。

 そう言うと、土井は一段と不調そうな顔をしたまま前に向き直った。

 広瀬は「くくく」と笑っていた。

 田中にはふたりの様子が意外だった。


「ねえ田中」

「なんだ広瀬」

「せっかくだから、今度辞書で調べるといいよ」

「ん? てことは、オレは無知ってことか」

「ぼくはそこまで言わないよ。哲学者じゃないしね。でも、覚えておいた方がいいよ。今後のためにも」


      *


 サーヴィス・エリアに着いた。

 最後尾の席の欠点は、なかなか降車できないことだった。

 それでも土井はそそくさと降車を急いでいた。


「悪いけど先に行かせてもらう」


 田中は土井がトイレを我慢してたに違いあるまいと思っていた。

 のんびり降車した広瀬は、バスを離れると伸びをした。


「シートが狭いってわけではないけど、じっとしているのは疲れるよね」

「そのとおりだ。同感だ」


 田中は答えた。


「いちおう言うと、隣に田中がいるからではないよ」


 広瀬は今にも笑いそうな声で言った。


「広瀬、その顔はなんだよ」

「楽しいなと思ってね」

「ならまあ、ヨシとする」


 広瀬は「くくく」と抑えるように笑った。


      *


 トイレで用を足したふたりは、土井がいないことに気づいた。

 田中はきょろきょろしながら言った。


「なんだあいつ、売店にでも行ったか?」

「どうかな。元気なさそうだったし、案外まだトイレにいるかもしれないよ」


 広瀬は明らかに冗談のつもりで言った。

 だが、しばらくしてからバスに戻っても、土井はまだいなかった。


「みんな揃ったかい?」


 O先輩が朝と同じように訊いた。


「まずいな」


 田中がつぶやくと、通路側の広瀬が立ち上がった。


「ちょっと行ってくるよ」


 広瀬はO先輩に近づいて行った。

 O先輩は広瀬に向かって間を取りながら3度ほどうなずくと、うしろにいるみんなに向かってこう言った。


「ハプニングがあったみたいなので、みなさん少し待っててください」


 広瀬とO先輩はバスを降りた。

 どうやらトイレの方に向かっているらしい。


「オイ、冗談じゃねえぞ」


 驚いているガイドさんを尻目に田中も慌ててバスを降り、広瀬とO先輩に続いた。


「田中も来たね」


 広瀬が気がついて言った。


「当たり前だ」

「ふたりとも友だち思いだ」


 田中の言葉を聞いたO先輩はそう言うと、土井の様子について訊ねてきた。

 田中は朝の土井の様子を自分の考えていたとおりに話した。

 土井は顔色が悪い感じで「よく眠れなかった」と言っていたこと、だからバスでは眠っていくつもりなのだと自分は思ったこと。

 広瀬は「だんだん頭痛がしてきた」、「うしろを向いているのは実は厳しい」という土井の言葉を伝えた。

 そして、土井自身は言わなかったからこちらからも敢えて言わなかったが、体調不良だと感じていたこと。

 頭痛の件は自分へのイヤミだと思っていた田中は、広瀬はそう認識していなかったことに驚いた。


「そう。だとすると、土井くんはたぶんバス酔いだ」


 このO先輩の言葉で驚きを重ねることになった田中は、O先輩にこう言った。


「オレはただの寝不足だと思ってました」

「うん、寝不足だと普通より酔いやすくなるから。実は僕にも経験があるんだ」


 O先輩はそう言うと「まずはトイレを確認しよう」とふたりに指示を出した。


「さすが、的確だね」


 O先輩に続いてトイレに急ぎながら広瀬が言った。


(広瀬の冗談が、冗談じゃなくなっちまったな)


 洋式のドアは四つほど閉まっていた。


「非常事態だから、他の人には悪いけど土井くんを呼んでみよう」


 O先輩がまず「土井くんはいますか~」と言った。

 声はけっこう響いた。

 その場にいた人たちはO先輩の方を見た。

 O先輩は「お騒がせしてごめんなさい」とはっきり言った。

 田中はO先輩の評価を急上昇させた。


      *


 ひと回りしたあと、O先輩が言った。


「閉まっていたドアの前に分かれて行ってみよう。いずれ中の人は出てくるから、それでも土井くんがいなかったら場所を変えよう」


 いささかの迷いもなく次の指示が出た。

 田中は並んで閉じていたふたつを受け持った。

 残りのふたつは離れていたから、広瀬とO先輩がひとつずつ受け持ったはずだ。

 その間もO先輩は土井を呼んでいた。

 幾度も「土井くーん」という声が聞こえた。

 田中は土井の心配をしつつも、O先輩の行動に感心している気持ちの方が強かった。

 やがて田中の前のふたつのドアが開くと、ひとつは小学生ぐらいの子ども、もうひとつは年配のおじさんが出てきた。


(やっぱりか)


 田中は思った。


(土井にはスマンが、オレはくじ運が悪いしな)


 ハズレを確認した田中が広瀬の方に回ったとき、O先輩が開いたドアから個室に入っていくのが見えた。

 田中と広瀬は駆け寄った。

 土井が便器に右手を置き、ひざまずいたままうつむいているのが見えた。


「土井くんだね?」


 O先輩は土井に話しかけた。

 土井は力なくうなずき、田中は思わず「そうです」と言っていた。


「よかった」


 O先輩は微笑んで、土井に手を差し伸べた。


「土井くん立てる? 肩を貸すから捕まって」


 広瀬が土井の横について手を貸すと、土井はふらふら立ち上がった。


「すみません、先輩……」


 弱々しい声が田中に聞こえた。


「いいんだよ土井くん。僕だって土井くんと似たようなもんだったから」


 O先輩はまた土井に微笑みかけ、土井はO先輩の右肩に掴まった。

 それを確認した広瀬は、ゆっくり歩きだしたO先輩と土井のあとから個室を出てきた。


「とりあえず、よかったね」


 広瀬は田中に言った。


「まったくそのとおりだ」


      *


 田中と広瀬もバスに向かって歩きだした。

 他の3台のバスは駐まっていなかった。

 先に出発したのだろう。


「ぼくの不用意な発言のせいだったら土井に申し訳ないよ」

「広瀬は予言者かよ」


 田中が広瀬に突っ込むと、広瀬はにこりとした。

 田中正彦は、そんな広瀬の表情を見てほっとした。


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